33場 ケジメの付け方②
『この馬鹿! たくさんの人に迷惑かけて! 無鉄砲なのもいい加減にしろ!』
最初に耳に突き刺さったのは母親の怒声だった。
その後ろから『俺にも代われ』と叫ぶ祖父の声や、『お嬢様、大丈夫ですか?』と心配そうに問う屋敷の使用人たちの声や、『メルディちゃん、保護されたって?』『よかったなあ』など口々に言う近所の職人たちの声が聞こえる。
合間に金槌の音が聞こえてくるところを鑑みるに、あの狭苦しい工房の中にひしめき合っているのだろう。クリフの不機嫌そうな顔が目に浮かぶ。
横目でレイやグレイグを見るが、二人ともそっぽを向いて知らんふりだ。エスメラルダは相変わらずにこやかな目でメルディを見つめているし、フランシスもにやにやとこちらを見ている。
助けてくれる人はいそうもない。覚悟を決めて通信機を握りしめる。
「マ、ママ。心配かけて本当にごめんなさい。反省してるから、ちょっと声落として……」
『落とせるかっ! 娘が捕まったって聞いて、私たちがどれだけ……』
続きは鼻を啜る音に掻き消された。次いで、何かをこらえるような呻き声が聞こえる。小さく、ひっ、としゃくりあげる音も。
『旅に出る許可なんて出すんじゃなかった。まさか、ラグドールが罠を張ってたなんて……。わた、私のせいで、メルディが……』
「ママのせいじゃないよ! 私が考えなしだったのがいけなかったの。泣かないで……」
グレイグを通して聞いたのか、メルディの誘拐にラグドールの残党が絡んでいたと既に知っているらしい。
初めて聞く母親の泣き声におろおろしていると、近くから『リリアナさん、代わってください』と父親の声が聞こえてきた。
『メルディ? パパだよ。怖かっただろうに、よく頑張ったね。メルディはパパの自慢の娘だ』
「パパ……」
いつも通りの穏やかな声に胸がじんとする。絶対に脱出してやると強がっていたものの、実はずっと心細かったのだ。
通信機を握る手が少し緩む。話したいことはたくさんある。
込み上げる涙を拭って「あのね……」と続けようとしたとき、いつになく強い口調で『でもね』と遮られた。
『危険に身を晒していいとは一言も言ってないんだよな。レイやグレイグを振り回して、挙句にママまで泣かせて……。今まで、ちょっと甘やかしすぎたな』
「パ、パパ?」
雲行きが怪しくなってきた。父親がこんなに低い声を出すのも初めてだ。
『一度しっかり話し合おうか。成人したら行動には責任が伴うってこと、ちゃんと理解するまで工房から出さないよ。そのつもりで帰って来なさい』
何か言う前にブチッと通話を切られた。まさかのガチギレに、通信機を持つ手が震えている。
今までずっと母親の方が怖いと思っていたが、とんだ間違いだった。父親の静かな怒りの方が怖い。まるで炉の中に燻り続けている残り火のようで。
「どうしよう。パパがここまで怒るなんて初めて」
情けない声を上げるメルディの肩を、エスメラルダがぽんと叩く。
「それが大人になるってことだよ、メルディ」
「ひい……。疲れた……」
ベッドに倒れ込み、仰向けになって大きく手足を伸ばす。部屋の隅には宿屋から引き揚げてきた荷物がひっそりと置かれている。
ここはウィンストンで一番の高級ホテルだ。ビクトールが「領主邸だと気を遣うでしょうから」と、三人分わざわざ用意してくれたのだ。
ロビンは念のため、今も残党たちの見張りをしてくれている。本当に働き者のぬいぐるみだ。
メルディの背丈よりも大きな窓の外はもう真っ暗である。
魔素だまりに向かったエスメラルダと別れ、顔と首の治療を受けたあと、居残った国の役人たちにみっちり事情聴取されたからだ。豪華な料理とお風呂のおかげで少しは回復したが、それでも疲れは抜けていない。
とはいえ、とても眠る気にはなれなかった。マルクスたちのことが頭から離れないのだ。
国の役人たちは、トゥールを人質に取られていた事情を考慮しても罪は免れないと言っていた。操られていたものの、贋作に手を出したブラムもだ。
彼らは今、地下牢で詮議の時を待っている。食事も寝具もきちんと与えられ、体調や精神状態は安定しているらしいが、それでも不安な夜を過ごしているだろう。
そして、リアン――彼が今回の凶行に至ったのは、自治区を監視しているラスタの役人たちの職務怠慢のせいだった。
リアンがどれだけ窮状を訴えても握り潰していたらしい。しかし、その役人たちも百二十年前のモルガン戦争や、二十一年前の戦争で家族を亡くしていると聞いて複雑な気持ちになった。
憎しみの連鎖は断ち切るのが難しい――それをまざまざと見せつけられた事件だった。
「……それでも、諦めちゃダメなんだわ」
今は無理だとしても、百年後、二百年後には関係が良くなっているかもしれない。
そのためにできることはなんでもやろう。それがリアンに全てを託した、ラグドールの民の望みでもあるだろうから――そう考えたとき、部屋のドアが控え目にノックされた。
次いで「メルディ?」と愛しい人の声もする。疲労も忘れてベッドから飛び降り、ドアに駆け寄る。なんたって相手は旦那さまだ。開けない理由がない。
「レイさん! どうしたの、こんな遅くに」
レイは髪を下ろして、黒色のタンクトップとホテルの寝巻きのズボンを身につけていた。剥き出しの両腕にもう傷はない。治療魔法のおかげだ。
「ごめん、寝てた?」
「ううん。眠れないなあって思ってたとこ。ひょっとしてレイさんも? よかったら中に入ってよ。この部屋、広すぎて落ち着かないの」
体をずらして中に招き入れる。しかし、レイは動かない。戸惑うような、何かをこらえるような表情をしてメルディを見つめている。
「……いいの?」
「え? いいけど、なんで?」
「いや、君がいいなら……。まあ、不可抗力だよね」
首を傾げるメルディを尻目に部屋に入ったレイは、まっすぐベッドに近寄って腰掛けると、隣をぽんぽん叩いてメルディを誘った。
珍しい。いつもなら「ちゃんと椅子かソファに座りな」って言うのに。
「すごいふわふわだよね、このベッド。さすが高級ホテルって感じ。私のお給料じゃ絶対に泊まれないよ。ビクトールさまに感謝だね」
「そうだね。こうして二人で並んでも十分広いしね。寝心地も良さそうだ」
「これならグレイグもはみ出さずに寝れそうだよね。地方に行くと、デュラハンサイズのベッドってなかなかないから」
「魔物便の中でも窮屈そうだったもんね。帰りは奮発して一番豪華な飛竜便にしようか。貴重な夏休みを反故にしたお詫びだよ」
二人同時にくすくすと笑みがこぼれる。
温かで、優しげな空気とは裏腹に、メルディはほんの少しの寂しさを覚えていた。
帰り。そう、マルクスたちの詮議が終われば、この旅も終わりを迎えるのだ。たった一カ月足らずの出来事。それでも、どんな家族旅行よりも濃密だった。
あの日、首都を出る決心をしなければ、こうして隣で並んで語り合うこともなかったかもしれない。レイの秘めた想いに触れることも。
「……レイさん、私ね。ママは泣いちゃうし、パパはめちゃくちゃ怒ってたけど、旅に出て本当によかったと思ってる。二人の作品はきちんと守れたし、レイさんとこうして、け、結婚の約束もできたし」
言葉にすると急に恥ずかしくなった。照れるメルディの顔を、レイがじっと見つめる。とても真剣な目だ。見ていると吸い込まれそうな。
「ねえ、メルディ。僕はずるい大人なんだよ。そうやって素直に心の扉を全開にされると、どんどん中に入り込みたくなる。首都に戻るまでは我慢しようと思ってたのに」
「ごめん。それって、どういうこと? はっきり言ってほし……」
「もっと先に進みたいな、ってこと」
急にぐるんと視界が回る。ベッドに押し倒されたと気づいたときには、レイの顔が目の前にあった。ものすごいデジャブ。
「こ、これって、もしや……」
「もしや、だね。嫌? まだ怖いかな?」
「嫌じゃないし、もう怖くないけど……展開早すぎない? この十三年、なんだったの?」
「それはごめん。でも、もう躊躇したくないんだ。時間は有限だから」
そう言われると何も言えない。メルディが黙った隙に、レイが歌うように言葉を紡ぐ。
「好きだよ、メルディ。ううん、そんな言葉じゃ足りない。僕は、君を愛してる。誰にも渡したくないんだ。だから、僕のものになって」
熱情を込めた目で見下ろされて一気に顔が熱くなる。心臓の鼓動もやばい。なんという破壊力。まるで舞台の一シーンみたいな。
エルフって素でこれだから怖い。元々、好きで好きでたまらなかった相手だ。抵抗できなくても、メルディに罪はないと思う。
「……いいよ。私の心も体も全部レイさんにあげる。ずっと一緒に歩くって……太陽になるって約束したもんね」
「よかった。僕の全ても君のものだよ。約束する」
ほうっと息をつき、甘えるように首筋に擦り寄ってくる。くすぐったい。まるで猫だ。金色の猫。
油断するとガブリと食いつかれそうな気配に思わず身ぶるいする。三度の飯より魔法紋が好きな草食系だと思ってたのに。反則である。
「レイさんがこんなに肉食だとは思わなかった」
「止まれなくなるのがわかってたからライン引いてたの。それを越えたのは君だよ」
「そうだけど――」
唇に柔らかい感触がして、小さなリップ音がした。
啄むだけの口付け。砂糖菓子のような甘さ。固まるメルディにレイがくすりと笑う。いつもみたいに優しく、でも、いつもとは違う扇情的な微笑みだった。
「アルティに殺されちゃうなあ」
もう、おままごとは終わり。そう囁いて覆い被さってくる背中に、そっと腕を回した。




