14場 馬宿の怪①
目が腫れて熱い。昨夜は散々泣いて眠れなかったからだ。
いつグレイグから「お姉ちゃん、うるさい!」と枕が飛んでくるかと思ったが、疲れて熟睡していたのか何も言ってこなかった。
朝、目が真っ赤になったメルディを見てもノーリアクションだ。姉のことなど眼中にないのかもしれない。
レイはメルディとの一件など何もなかったような顔をしている。お得意のポーカーフェイスが今は憎い。
対して、マルクは好意を明らかに示すようになった。
ひどい顔のメルディを始終気遣い、魔物便に乗るときも紳士にエスコートしてくれた。自分がどこかのお姫さまかと一瞬錯覚するほどだ。
こうなって初めて、男性とは好きな相手にはどこまでも優しくしてくれるのだと知った。
断らないと……と思うものの、今までレイしか追いかけてこなかったので、どう切り出していいのかわからない。
それに、まだ正式に告白されたわけでもないのに、「あなたとはお付き合いできません」なんて、自意識過剰だと思われないだろうか。
「メルディちゃん、今日は元気ないね〜。どうしたの〜?」
「乙女の悩み!」
幌を叩く風の音に負けじと返すと、グレイグが飲んでいた水を吹き出した。汚い。
ため息をつき、そっと荷台の下を覗き込む。
目が眩むほど遠い地面の上に、ミニチュアみたいな森や川が広がっていた。マルグリテ領を出て半日、今はロッテン領の北端を目指して飛んでいるところだった。
「あんまり身を乗り出すんじゃないよ。落ちたら死んじゃうからね」
「……わかってるもん」
「その前にキャッチしてあげるから大丈夫だよ〜」
ふてくされるメルディに、事情を知らないエトナがのんびりと返す。
彼女も恋に悩んだことがあるのだろうか、とくだらないことを考えるのは、それしかすることがないからだ。
グレイグに誘われて最初こそトランプだ、ウノだのに興じていたが、すぐに飽きて辞めてしまった。
何しろメルディは勝負ごとに滅法弱い。寝不足の頭では到底勝ち目はなかった。そんな気分でもないし。
「ねえ、メルディ。君の短剣は誰が作ったの?」
向かいの椅子に座ったマルクがおずおずと話しかけてくる。この空気を変えようと思ったのだろう。
その隣のレイは、こちらを気にする素振りもない。ただ黙々と文庫本に目を落としている。
「これは私が作ったの。マルクのと比べると恥ずかしいけどね」
「そんなことないよ! だって、それセレネス鋼だよね? 加工の難しいセレネス鋼を、そこまで美しく仕上げられる人は滅多にいないって」
「ありがとう。レイさんの杖も、グレイグの兜の装飾もそうだよ。パパと私の合作なの」
「道理で……。優れた武具を身につけると属性効果が高まる。これなら魔属性は通用しないだろうね」
同業者に手放しで褒められてむず痒くなる。
調子に乗っちゃダメよ、と自分に言い聞かせながら、短剣を鞘ごと取り外してマルクに差し出す。
「よかったら、見る? 改善点があったら教えてほしいな。もっと精度を高めたいの」
「メルディは努力を怠らないんだね。素敵だと思うよ。じゃあ、失礼して……」
指と指が触れ合い、胸がどきりと跳ねる。今までレイにしか反応しなかったのに、一体どうしてしまったのか。
もしかして意識しちゃってる?
自己嫌悪したそのとき、荷台が大きく揺れた。弾みでマルクの手から離れた短剣が、荷台の後方から下に落ちていく。
「あっ……!」
「ちょっと、お姉ちゃん! 危ないってば!」
反射的に手を伸ばしたメルディを、隣のグレイグが引き戻す。
直後、ピーちゃんが「ピュイイ!」と威嚇する鳴き声を上げ、大きな鳥のようなものが幌の上をかすめていった。
「ごめん〜! 巨大雀が急に突っ込んできて〜。何か落とした〜? 拾いに行こうか〜」
「ううん、大丈夫! そのまま進んで!」
「メルディ、本当にごめん。俺……」
今にも泣きそうな顔でマルクが言う。責任を感じているらしい。
なくなったのは残念だが、落ちたのが人でなくてよかった。励ますように笑みを浮かべる。
「気にしないで。あとはウィンストンまで空の旅だし、もし魔物に襲われても、みんなに守ってもらうから。また作ればいいしね!」
「ありがとう……。メルディは優しいね」
超絶美形に微笑まれてドギマギする。
ちらりとレイに視線を向けるが、ふいと目を逸らされた。地味に傷つく。
「まあ、お姉ちゃんは元々戦力じゃないからね。慎重になってくれるなら、その方がいいよ」
「何よ、失礼ね。金槌だってあるし、援護ぐらいならできるわよ。鍛えたこの腕の力を見せてあげるわ!」
意気揚々と拳を振り上げると、荷台の上に笑い声が弾けた。肘置きに頬杖をつき、マルクを横目で見つめるレイを除いて。
「は〜い、ご到着〜。本日のお宿はロッテン領北端の街、ダブスティンの馬宿だよ〜」
もふもふの羽毛が指し示した先には、見渡す限りの馬が繋がれていた。宿よりも馬小屋の方が規模が大きい気がする。
グレイグは魔法学校で馬の世話をしているそうだが、メルディはあまり馬に触れる機会がない。
そっと近寄ると、そばにいた馬番のお爺さんが馬を触らせてくれた。ふかふかだ。気持ちいい。
「すごいなあ。どうして、こんなにいっぱいいるの?」
「ウィンストンの手前の街だからね〜。ここで高地に強い馬と交換するんだ〜。ま〜、ピーちゃんには関係ないけど〜」
確かに。ピーちゃんはどんなところにも飛んでいける。エトナは仕事を片付けてから、また別の安宿に泊まると言うので、ここで一旦お別れだ。
宿の中は素朴な温かさに満ちていた。たとえるなら、バンガローやコテージのような。
左手には気風の良さそうな女将さんがいるカウンター。右手には暖炉と客室に続く廊下がある。
その近くのワードローブには貸し出し用の上着がかけられていた。夏とはいえ北方は涼しく、夜になると冷える。出かけるときには必須なのだろう。
「いらっしゃい、お嬢ちゃんたち。パパは誰だい? そこの背の高いデュラハンさんかな?」
「僕、この中で一番年下だよ。保護者はこの小さな金髪エルフ」
「一言余計なんだよ、グレイグ。チビで悪かったね」
「あら、ごめんねえ。エルフさんだったか。この宿泊帳にご署名お願いできますか」
レイがチェックインの手続きをしている間に、三人でロビーの中を見て回る。
カウンターと暖炉の間には、立派な革張りのソファと、どっしりしたローテーブルが置かれていた。壁際の棚のそばには、大角鹿の剥製が飾られている。
「すごい立派ね。大角鹿って捕まえるの難しいんでしょ?」
メルディの問いにグレイグが頷く。
「風魔法を使えるからね。鳥系の魔物ほどじゃないけど、とにかく早いんだ。姿を見たときには、大抵もう逃げちゃってるね」
「一度、素材目当てに師匠と獲ろうとしたけど、とても無理だったな。メルディは間近で見たことある?」
「ううん。図鑑でだけ。首都圏にはあんまりいないみたいなの」
「ウィンストンには結構生息してるんだ。今度一緒に見られるといいな」
それってデートのお誘いでは?
固まるメルディの前に、グレイグがずいと進み出る。
「弟の目の前で、お姉ちゃんを口説くのやめてくれないかな〜。ちょっと手が早すぎない? そんな状況じゃないってわかってるよね?」
「ウィンストンではみんなこうですよ。女性が少ないから、機会は逃さないんです。こんな状況だからこそ、メルディには俺をよく知ってもらいたくて」
「何を知ってもらうのさ。君が偽物の製作者の身内じゃなかったら、とっくに放り出してるよ。あくまでもウィンストンまでの付き合いなんだからね」
「グ、グレイグ。マルク。ちょっと……!」
「いいねえ、若いっていうのは。あたしも昔はねえ……」
わいわいと騒ぐメルディたちを見て、女将さんが豪快に笑った。そのまま昔の武勇伝を話しそうな勢いだが、こちらはそれどころではない。
「お、女将さん! この大角鹿は誰が捕まえたんですか?」
「ん? それはあたしの亭主が仕留めてきたんだよ。箔がつくから飾ってんのさ。あとで褒めてやってよ。喜ぶから」
強引に話を変えるメルディに、女将さんが愛想良く答えた。空気を読んでくれたのかもしれない。
カウンターのレイはこちらに背を向けたままだ。さっきの会話を聞いてどう思っただろう。
不安になって近寄ろうとしたとき、ばたばたと階段を駆け下りてくる音が聞こえた。
行商人らしいヒト種の男性二人組だ。今までどんな修羅場を潜ってきたのか、それぞれ右耳と左耳が欠損していた。顔がひどく青ざめているが、何かあったのだろうか。
「どうしたんだい、お客さんたち。そんなに慌てて」
「出た! 出たんだ!」
「何が? もしかしてゴキブリかい? 待ってな! すぐに仕留めて……」
カウンターの上の雑誌を丸めた女将さんが、勇ましく腕まくりをする。しかし、客たちはそれを押しとどめて、悲壮な声で叫んだ。
「出たんだよ、得体のしれない化け物が!」




