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静まり返った、誰もいない校舎。
静寂の中に響く、微かな水音だけがこの空間にある唯一の音だ。
少し先は薄暗く、外からの光は殆どない。
そんな空間に、ポツンと佇む私。
「どうしてこうなった……。」
遡ること五秒前。
私は小戸路先生と特別教室教室を見て回るために一階段を登ろうと角を曲がったところだった。
瞬き一瞬の間に、小戸路先生の背中が消えた。
何の前触れもなく、突然視界からいなくなった先生を探してあたりを見回したり耳をすませたりしてみるが、人の気配は全くない。
微かに水が落ちる音が聞こえる以外、何も音がなく、私の視界には薄暗い廊下と階段、教室のみ。
さっきまでは激しい雨音が聞こえていたのに、それすらも聞こえない静寂が耳に痛い。
薄寒い雰囲気に指先から血の気が引いていくのが分かった。
「と、とりあえず動かないと…。」
恐怖を誤魔化すために声を出して少しでも気を紛らわようと試みる。
「なるべく動かないと人感センサーが作動しないからね……。この状況で真っ暗になったら終わりだよ。にしても、どうしよっかなぁ。一回図書準備室戻ってもいいけど、戻っても多分誰もいないんだよねぇ。」
かといってこのまま校舎内を一人で彷徨うのも怖すぎる。
というか、あまり考えないようにしていたが、確実に怪異が動いている時点で私の選択肢は逃げる一択なのだが。
最近の予知夢で学校の怪異に関する夢はないし、命の危険はないと思いたい。
今回は保険もかけてあるし……。
「まだ保険機能してないけど…。」
とりあえず廊下をぐるぐると歩き回りながら灯りを確保しながら小戸路先生が戻ってくる可能性に賭けては見たが、何も起きないまま五分ほど経過した。
「これ、小戸路先生が標的になった、とかないよね…?」
もし能力持ちの私ではなく小戸路先生が標的になっていたら相当面倒かつ危ないのでは。
あまりにも何も起きず、違う意味で不安になってきた。
そういえば、キリカさん達の方は大丈夫だろうか。
あっちには能力持ちはいないためこっちよりは安心だと思っていたが、もし小戸路先生が巻き込まれたのならあっちも巻き込まれている可能性がある。
今回の怪異は生徒達にも目撃されているくらいに活発だ。
おそらく能力持ちは増えてはいないが、今回で増えないとも限らない。
せめて連絡が取れれば……。
「あ、スマホ。」
私はスカートのポケットに入った文明の利器を思い出した。
先生達には連絡できないが、キリカさんの連絡先は持っている。
初対面の時に連絡先を交換していたのがこんなところで役に立つとは。
チャラいキリカさんに感謝しつつスマホの電話アプリを起動して電話をかけようと試みる。
「圏外……。」
案の定というか、やはりというか、圏外だった。
「いや、でもこれで私が巻き込まれてるの確定だし……。あの人達は多分巻き込まれてなさそうだし……。うん、そうだよね、みんなが安全なら、まぁ、うん、面倒ごとは減った、うん……。」
落胆とやっぱり私が標的かという絶望を誤魔化しながら歩きスマホを続行する。
一応メッセージアプリもためしてみたがずっとぐるぐるしているので意味はなさそうだ。
「さて、怪異がいるのは確定として、何がしたいんだろ。特に今の所何にも起きてないけど、この階は安全なのかな?それともただ運がいいだけか……。どちらにせよ移動を試みるべきなのか。スマホの時間表示と教室内の時計の時間も合ってたし、圏外と小戸路先生が消えたこと以外は特に変化はないけど……。」
正直保険がまだ作動していない今、下手に怪異を刺激したくはないのが本音だが、時間の経過が後々作用してくる可能性も考慮しなければならない。
コックリさんの時のようにじわじわと異界化してくるかもしれない。
「あ、もう一個変化あったね、この水音。」
ピチョン、ピチョン、と一定間隔でなり続けている水音は不気味ではあるが今の所特に害は感じられない。
「これ、どこからなってるのか分かんないんだよねぇ。でも、多分怪異な気がするけど。確か目撃した人が溺れたとかどうとかってあったよね?多分______ん?」
何かが聞こえた気がして咄嗟に声を止めて息を潜める。
無言で手だけを動かして人感センサーの灯りを確保しながら耳を澄ます。
微かに、音が聞こえる。
「これ……泣き声?」
小さい子供の泣き声。
うっすらとウェーん、やほぎゃー、というような音が聞こえる。
いつから泣いていたのか分からないが、うっすらと聞こえる泣き声は止まる気配がない。
「子供……っていうよりは赤ん坊かな?赤ん坊に水の音、か。多分音の出所は両方一緒かな…。」
よくよく耳を澄ませてみれば、水音と泣き声は同じようにどこから響いているのかは分からないが時折泣き声と共に水音も変化している。
赤ん坊が動いて近くにあるのであろう水を跳ねさせているのだろう。
「これ、赤ん坊のところに行かないと出れない?」
今までの情報には赤ん坊なんて出てきていない。
しかし、確実に今回の怪異は赤ん坊だ。
この前異界に行った時はシガンさんが物理的に脱出させてくれたため出られたが、今は私一人。
そんなことはできない。
「いや、でも何処にいるか分かんないからそもそも赤ん坊のとこまで行けないか。」
音がどこから出ているのか分からない手前、この暗い校舎をあてもなく彷徨い歩くのは無理だ。
怖い。
とりあえず保険が作動するまではここにいよう。
私は自身の左手首に巻き付く梔子を見つめながらそう決めた。
ぐるぐると同じ場所を何度も行き来して人感センサーで灯りをつけながら時間を潰す。
「あれ?ここ、濡れてる…?」
五週目程で、廊下の端に水溜りを見つけた。
歪な形のそれは、大きくは無いが決して自然に出来たとは思えない大きさをしている。
背中が粟立つような違和感があるが、何も無かった事にして無理矢理足を動かした。
体がとても硬くなった気がする。
しかし、ここで動かなかったら電気が消えてしまう。
だから、無視をして歩く。
パシャリ
水が跳ねた。
私は歩く。
ピシャッ
水が舞う。
私は視界に水が入らないように歩く。
ピチャッ
気づけば、廊下が水浸しになっていた。
どこを歩いてもピチャリ、ピチャリと水を蹴散らさねばならない。
明らかに異常な状態だが、泣き声の大きさだけは変わらずに鳴り響く。
何処にいるのか分からない赤ん坊がこの水を撒いたのだろうか。
そんなことを思いながら冷たい足を動かしていると、妙な感覚が足裏に伝わった。
言葉で表すなら、ネチョリ、か、グチャリ、だろうか。
その足裏の違和感をハッキリと意識するよりも早く、空気が揺れた。
ほぎゃぁぁぁ!!
「えっ___。」
突然大きくなった泣き声。
私は咄嗟に自分の口を押さえる。
きっとここで叫ぶのはよくない。
恐る恐るネチョリとした足元を見ると、そこには水に透ける水では無く、赤黒い何かがある。
きっと、コレを踏んだのが良くなかった!
自分のやらかしに後悔してももう遅い。
足元の何かを確認するよりも早く、電気が消えた。
その瞬間に、さっきまではなかった鉄の匂いが充満している。
何故か視界の端が赤と青に点滅して見える。
視界がぐるぐると回る。
おぎゃぁぁぁ!!
先ほどよりも大きい声が空気を揺らす。
きっともうすぐそこにいる。
しかし、暗い中で私の体は動いてくれない。
ただでさえ固くなっていた体が凍りついたように動かない。
動けない間にも赤ん坊の泣き声はどんどん大きくなり、水かさも増してきている。
「あ…。」
すぐそこに、何かがいる。
バシャバシャとすでにくるぶしまで水に浸った廊下を何かが蠢いている。
すぐ隣まで、暗闇でも目視できる距離に、赤ん坊が見えた。