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「つつじ、もうそろそろいくせぇ。」
いつはさんの退屈そうな声が、いつの間にか景色に見惚れていたらしい私の意識を浮かばせる。
「はい……って、この石段登るんですか。」
「当たり前しぃ。何のための階段せ。」
いつはさんはその口元に薄く笑みを載せているが、私は一切笑えない。
石段は先が見えなくなるほどに長く、さらにその一段一段が普通の階段よりもゆうに高い。
見たところ石階段は山の頂きまで続いている様だ。
これを今から登るのか。
半ば絶望に近いものがさっきまで美しく見えた景色を地獄の様な景色に様変わりさせてしまった。
例え登れたとしてもそこから掃除なんてとてもではないが私には無理だ。
「人間は軟弱でよぉないなぁ。」
いつはさんは苦笑に近い、初めて見る笑い方をして私を見下ろしている。
まるで駄々をこねる子供でも見ている様だ。
あながち間違ってもいない気はするが、釈然としない。
「運動不足の人間は軟弱ですよ。」
「うちかて基本引き込もっとぉせ。」
「引きこもりはこんなん登れませんし、登ろうともしません。」
石段を登る一歩が踏み出せない。
一段登ってしまったらあと何段登らないといけないんだ。
絶望の眼差しで階段を見つめるしかない私をよそに、いつはさんは仕方なさそうに見たことない子供を見る笑顔で笑っている。
あからさまに子供扱いされている。
「今回は特別せぇ。」
いつはさんにしては素直に優しいと思える声音で言ったかと思えば、え、と目を見開いた私に口を開かせる前に一言だけ呟く。
「いつっ」
言い終わるより前に、強い風が吹いた。
思わず口をつぐみ目を閉じると、さらに強い風が吹き付ける。
風は冷たいが、不思議なことに風の冷たさ特有の肌を刺す様な痛みは無い。
風はすぐに止み、恐る恐る目を開くと目の前には先ほどまでの鳥居とは比べ物にないほど古そうな大鳥居と苔むした石灯籠が目に入る。
その鳥居の奥にはこれまた古そうなお社と御神木と思しきしめ縄と紙垂が連なる大木、透明な水が流れる手水舎、何もかかっていない絵馬掛所、賽銭箱。
それら一つ一つが骨董品の如く古く貴重な物であろうことと植物が季節を無視している事を除けば、どこにでもありそうな神社だった。
「とりあえず手水とりいくせ。」
色々な衝撃で唖然としている私をあの笑顔で見ながらいつはさんは手水舎を手で示す。
てみずをとる、が手水を取る、に脳内変換されるまでに若干の時差があったが、とりあえず意味を確認する。
「手水舎で手を清める、という事で良いですか?」
「そうせ。手順わかんせ?」
「大丈夫です。」
いつはさんについて行き、手水舎で二人並んで手水を取る。
小学校の頃に習って以来忘れていない手順で手を清めるため、規則正しく並んだ柄杓を手見る。
ちなみにこの柄杓も木製や石製、プラスチック製など様々で、そのどれもに植物の意匠が彫り込まれていた。
私は軽そうな木製の物を選ぶ。
かなり古そうではあるが、一番綺麗な柄杓だ。
私は軽い柄杓を手に取り、左手に清水をかける。
次に柄杓を持ち替えて右手を清め、もう一度持ち替えてから水を左手に溜めて口を濯ぐ。
最後に左手をもう一度清めた後に柄杓を縦に持って持ち手に水を流せば手順は終わりだ。
柄杓を置いて横を見ると、いつはさんも柄杓を置いているところだった。
私が見ているのに気づくと、いつはさんはいつもの無表情な笑顔でニタリと笑う。
本当に、何を考えているのかわからない。
「さて、そろぼち掃除しー。」
いつはさんはどこから取り出したのか竹箒を二本、手に持っていた。
私の身長近くある箒の一本を受け取り、お互い何もいう事なく境内に散っていく。
境内は広いが開けているため掃除はそう難しくないだろう。
私は境内に敷かれている様々な葉や花弁の絨毯を見下ろしながら掃除の算段を立てる。
鳥居からお社に続く参道の周りに分厚く敷かれている絨毯の掃除から始め、時間がありそうなら手水舎や摂社の周りも掃除する事にしよう。
不思議な事に参道にだけは花弁は愚か汚れ一つない。
掃除の必要が無さそうなのは嬉しいが、どうしても妖か神か怪異の存在を意識させられる。
まるで参道だけが何かの意思によって美しく保たれている様だ。
私は参道から外れ、竹箒で花弁を一箇所に纏める。
花弁や落ち葉の量がかなり多いので一箇所に纏めるとかなり大きくなる。
半径五メートルほどの円形に掃除をしただけで大きな植物の山が出来上がった。
これは掃除をしたとしてもこの植物の欠片達を運び出して処分する事は出来るのだろうか。
黙々と手を動かしながらふと脳裏を過ったのは、この落ち葉やら何やらの残骸の後始末。
集めるだけ集めて放置すれば風で飛んでいってしまう。
しかし、これを処理するとなればゴミに出すか燃やすかだが、この量を袋にまとめて燃えるゴミに出すのは骨が折れるだろうし、燃やすにしてもこんなに大量に燃やせば火事になりかねない。
とは言ってもいつはさんがどうにかするだろうから心配することもないのだろうが。
それよりも、この神社は一体何を祀っているのだろうか。
植物も鳥居も石灯籠も柄杓も、何もかもがごちゃごちゃなのに何故か纏まりと落ち着きがある神社で、何かを信仰しているとは思えないいつはさんがわざわざ掃除に来ている。
これだけでも十分不思議ではあるが、それよりも、妖の世界らしいこの世界に神社がある方が私には驚きだ。
さっきいつはさんが言った様に、私たち人間、特に日本人が信仰している神道に伝わる神話に出てくる神々は妖なのだろう。
妖の存在は非常に古く、フェレスよりも長生きしているという妖さえいるという。
さらに、その妖は人間には到底真似できない術を使う。
昔は妖が見える人間が多かったという情報といつはさんが言った神のほとんどは妖だ、という情報を組み合わせれば、不可思議な術を使う妖を神として崇めた人間の画が思い浮かぶ。
いつはさんいわく神も存在はしていそうだが、数は多くないはず。
となれば神社が作られて信仰されているのは妖という事になる。
もちろん中には例外はあるだろうが、少なくとも母数は妖の方が多い……と思うけどなぁ。
いや、論点はそこでは無いのだが、つい考え込んでしまった。
私は一度思考を切り替える。
今私が一番不思議に思うのは、妖を祀っているはずの建物が妖の世界であるここにある事だ。
わざわざ同族をここまで盛大に祀るだろうか。
妖達にしてみれば、強弱はあっても不思議な術やらを使う事に何の違和感もないだろうし、神として祀る理由がない。
神が神足り得るには信仰がいる。
その信仰を得るためには圧倒的な神秘や強大な、自然そのものと言えるまでの大きな力が必要だ。
私たち人間は妖を見てその術や存在に神秘や大きな力を見たのだろう。
しかし、妖達はどうだ。
自分たちが日常的に使う術や自らに神秘を見出す事はないだろうし、どれだけ強大な力を持った妖がいたとしても集団で追い詰めればその強大さも無に帰すだろう。
神として祀る、決定的な理由が見つからない。
祀られている以上理由はあるのだろうけれど、それらしい石碑も何もないこの神社から欲しい情報を探すのは難しそうだ。
案外、普通に本物の神でも祀っているのだろうか。
「ねぇ、何してるの?」
黙々と考え事をしながら手を動かしているうちに随分と周りが綺麗になってきていた。
「ねぇ。」
そろそろ手水舎の周りの掃除を始めてもいいかもしれない。
「ねぇってば!」
「うわっ!」
突然視界の上から逆さの顔が降ってきた。
重力に引かれて顔の横から二つ色違いの髪束が揺れている。
私はソレを人だと認識するのに十秒ほど時間を要した。
そしてその顔……というよりは独特な服装と派手な色を見て目の前の人物が人間ではないことも認識した。
「ム、ムース?」
「そうだよ〜?」
緑と黄色の髪を揺らしながら私の前に立っているのは、二色のタキシードの様な服とシルクハットを着ているムース。
無邪気な色違いの目を笑みに染めながら、ムースは楽しそうに笑っていた。