37
だんだんと、風が強くなっている。
髪が抜けるんじゃないかというくらい強い風が吹いても、机の上のメモ用紙やらなんやらの軽いものは一切動いてはいない。
つまり、私といつはさんにだけ風が吹いている。
「いつはさん!聞こえますか!」
もう大きな声を出さないと風に声がかき消されてしまうほど、風は強かった。
「聞こえとぉ。」
いつはさんに大きな声を出した気配はないが、通りがいいのかしっかりと内容を聞き取れた。
もしかすると音自体は難なく聞き取れる風なのかもしれないが。
しかし、こうも風が強いともう身動きが取れない。
どうする?
なんらかの怪異であるのは確かだが、私は夢を見ていない。
なんの情報もない中でこの状況をどう打開すればいいのか。
頼れるのは横にいるいつはさんくらいだ。
「これ、どうにかなりそうですか?」
「ちょいとまちんせ。」
いつはさんは動こうとする私を制し、少し考えてから手を動かした。
両手を狐の手にした後、それを組み合わせて複雑そうな形を作る。
「けしようのものかましようのものか、正体を表せ。」
いつはさんは、三度同じ文言を呟いて手の中を覗き込む。
しばらく手を動かして周りをぐるりと見渡した後、手を解いた。
「妖ではなさそうさな。」
「今の、狐の窓、ですか?」
「せやぁ。隠れとぉ妖を見つけんならこれが一番手っ取り早いせ。」
狐の窓は、手を組んで窓を作り、それを覗くことで異界を見ることができると言われている。
迷信だと思っていたが、こんなところで使えるとは思わなかった。
見えるのは妖限定のようだけど。
風はさっきから強くなる一方だが、特に動けないこと以外に害はない。
そう判断し、とりあえず時間が解決するのを待とうと考え始めた。
風はまた強くなったかと思うと、何かが宙を舞う。
まるで花びらのようなそれが何か、しばらく見つめていないとわからなかった。
「いつはさん。」
「ああ、ちいとよくないなぁ。」
私もいつはさんも、さっきまでののんびりした空気から一転、緊張をはらみ出した。
さっき舞ったものの正体。
それがわかった瞬間に、一刻も早くどうにかしなければならないと悟った。
「さっきの“血”、誰のだと思います?」
「さぁなぁ。多分、前の客せ。」
そういう間にも、血飛沫は舞い続けていた。
絵具か何かではないかという甘い期待は、液体が放つ鉄臭さによって打ち消されている。
風はいつの間にか私といつはさんを取り囲むように吹き荒む。
いつの間にか血飛沫は赤い風へと姿を変える。
私といつはさんは赤い台風の目の真ん中にいるようだった。
さっきから真紅の台風の中にところどころ赤い塊のようなものも舞うようになった気がする。
風が強くて何が舞っているのかはっきりとわからないのが唯一の救いとでもいうべきか。
風は私たちに迫ってくることはないが、収まる気配もない。
まるで私たちが絶望して風に飛び込むのを待っているかのようだ。
「つつじ、こういうの大丈夫け?」
「鬼ごっこ系とかじわじわ怖がらせる系よりは大丈夫です。」
「それはよござんした。」
「で?どうするおつもりで?」
「うちは妖のことも怪異のこともよおけ知らんし。どうしようもないせ。」
「……試しに逆向きに風出したりできません?」
「できんくはないがぁ、本気け?」
「妖って便利ですね。」
まさかほんとにできるとは思ってなかった。
妖がどういった生き物なのか正直あまりよく知らないが、妖術的なものを使えたりするのだろうか、やはり。
「やってはみるが、あんまし期待せんでぇな。術なんて幾年ぶりに使うんか……。」
そういうといつはさんは風に近づいて手をかざしている。
風は見たところ半時計回り。
つまり、時計回りで同じくらいの強さで風を送れば止まるとまではいかなくても抜け出せるのではないか。
単純ではあるが、これくらいしか思いつかなかった。
「じゃ、いくせー。」
いつはさんのやる気が感じられない声を聞きながら、私は風を凝視する。
やがていつはさんが何かを取り出して何かを呟くと、すごい音と共に風が吹き荒れた。
しかし、風は台風の内側にしか吹かず、台風自体にこれといって変化は見られなかった。
「この風、隙間がないせー。うちの風を吹き込む隙間がない。」
「……。」
いつの間にか無表情になっていたいつはさんは風を送るのをやめ、私の方を見つめている。
『次は何をすればいい?』と聞かれているようだったが、これと言って妙案は浮かばない。
というか、風を吹き込ませる隙間がないとはどういうことだ。
風がとんでもない密度を持っているとでもいうのだろうか。
「……。」
私は台風のすぐそばまでいき、まじまじと風を見る。
そして、軽く左手の小指の先をほんの少し、風に入れてみる。
風に触れた、と思った瞬間。
小指から血が吹き出した。
「何しよるん?」
変わらずの無表情でいつはさんが私の小指を見つめている。
私も同じように自分の小指を観察する。
何かで切れた、というよりは削られたような傷口だった。
まるで高速で回転する金属にものを押し当てたような。
「風をどうにか切り抜けるのは難しそうですね。」
私は指を押さえながら周りを見渡してみる。
台風の目は私といつはさんを取り囲むように吹いている。
半径一メートルほどの円の中に私といつはさんが閉じ込められているような状態。
風は天井まで吹き上げていて、上から出ることも出来なさそうだ。
同じようにしゃがんで床も見る。
まるで地面から生えているかのように台風はピッタリと床にくっついている。
その風の色は変わらず血のような蘇芳。
私はしゃがんだまま今度は右の小指を少しだけ風に入れる。
また血が出た。
「どっかから出んのも無理そうせ。」
「……案外、そうでもないかもしれませんよ。」
「そうけ?」
全てわかっているようなしたり顔でいつはさんは私を見ている。
この人は、全てわかった上で私に説明を求めている。
直感だが、あながち間違っていないと思う。
「風の上の方と下の方の色を見てください。上の方と下の方は、真ん中よりも色が薄い。察するに、真ん中が一番削られやすく、下と上はそれほどではない。」
「それだけけ?」
「この風の中に肉片のようなものが浮いています。もしこの風全てが先ほどのように少し触れただけで指が削れてしまうような風なら、肉片なんてできないはずです。削られた肉はもっと細かい血飛沫になるんですから。それに、さっき下の方に指を入れたら、こうなりました。」
そう言って右手の小指をいつはさんに見せる。
右の小指には明らかに何かで切ったような傷口ができている。
しかも、切り傷は小さい。
「これなら服が多少切れるくらいで出られると思います。問題があるとしたら…」
「この風の厚みせな。」
この風に突っ込んで進んだ結果大した怪我はしなかったとしても、積み重なれば大きな怪我になる。
つまり、削られる風が広範囲にわたって吹いていた場合、抜け出すまで体を切られながら進むのは危険だ。
切り傷が増え続けてしまうし、何度も同じ場所が切れたりすればその分傷も深くなっていく。
「どうします?」
「どうせ進んでみるしかないせ。」
そういうといつはさんは自分の肌が露出しないように服を上手く纏って風の一番下の方をほふく前進で進んで行ってしまった。
様子を見るべきか迷ったが、すぐにいつはさんの声が聞こえた。
「抜けれたしー。」
どうやら大して広範囲に風が吹いていたわけではなさそうだ。
私も服を上手く使って肌の露出を押さえながら這いつくばって進む。
時々服を突き破って肌まで切れている感じがするが、そこまで大きな怪我にはなっていない。
一分と経たずに風がやみ、いつものリビングが顔を出した。
立ち上がって後ろを見ると、さっきまであった真っ赤な台風が消えている。
「解決…ってことでいいんですかねぇ。」
「ええんやないせ。」
その言葉を聞くと同時に私は布団に倒れ込んだ。
頭の痛さが絶好調。
いや、頭は痛いから絶不調?
まぁいいか。
「服がボロボロせぇ、着替え。」
その後ぐだぐだと着替えていると、みんなが帰ってきた。