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「月乃さん。」
「はっ、はいっ!」
瓶覗の瞳に映った月乃はひどく動揺しており、シガンさんが声を発した瞬間に背筋がピンと伸びた。
「なんで俺に隠したん?」
「え、えーっと……、その……。」
月乃は泣きそうな顔をして手を胸の前に持ってきてあたふたと彷徨わせている。
一方シガンさんは多少マシになったとはいえ、背後に黒い靄が見えそうなほどの圧が滲み出ていた。
月乃が気の毒だが必要な犠牲だ、仕方がない。
憐れみを込めて必死で言い訳を考えている月乃を観察していると、彷徨っていた月乃の視線がふと私の方を向いた。
もちろんそれに気づかないシガンさんではない。
「やっぱお前か、つつじ?」
くそう。
瓶覗の涼しそうな色が今ばかりは寒そうに見える。
月乃が私の方を見たせいで標的が私に変わってしまった。
「何のことだか……。」
「ほーん。………お前は、実家の事知っとったやろ。」
「…………。」
‘知っていてなぜ逃げなかった?’
言外にそう言われている事を察し、私は答えに窮す。
しかし、それを許してくれるシガンさんでもない。
無言で目を合わせてくるシガンさんの瓶覗の瞳から逃げることはできなかった。
できなかったが、それに答えることもできなかった。
「……知っていたので、話し、ました。」
「………ほうか。」
思っていたよりも静かな声が返ってきたことに驚き、思わず必死で逸らしていた目をシガンさんに向ける。
シガンさんは、どこまでも静かな目をしていた。
しかし、その目にはどこか戸惑いも含まれているように見える。
「お前は関わりたがらんと思っとった。」
「関わりたくて関わった訳ではありません。」
ポツリと溢れた言葉に、きちんとシガンさんの顔を見て返すと、シガンさんは帰ってきてから初めて微かに唇の端を上げた。
「やっぱお前は知っとったな。その上でヒガンと共謀したな?」
「利害の一致です。」
「俺は言ったはずや。なんかあったらまず何よりも先に自分の身ぃ守れってな。なんで逃げんかったん?」
‘俺やヒガンの事は考えんでええから’
そう言うつもりで話したくなかったであろう実家の話を私にしていたのは、察していた。
察していたけれど、それでも。
「お二人がいないと私は一人暮らしできないんですよ。どうやってうちの親を説得するつもりですか。」
いくら放任主義とはいえ、あの人達も親という立場だ。
保護者も何もなしに娘に一人暮らしをさせるような人ではない。
……言い訳なのは、分かっている。
でも、私には言い訳以外が思いつかない。
それ以外に、自分を納得させられる‘何か’を、私は持ち合わせていなかった。
それに、そういうのは、私の役割ではない。
そういう役割は、私には向いていない。
「そんな理由で、月乃さん達を巻き込んだんか?」
「はい。」
随分と冷たくなってしまった声と瞳が、私の体を芯から冷やしていくような心地がした。
それくらい、シガンさんは静かに怒っている。
ストンと、何かが落ちた。
「人ををそんな事で巻き込むな!全部お前の都合やないか!」
「分かっていますよ。今回の事は私の我儘です。」
怒鳴られてもいつも通りの言葉が口から流れ来る。
どこか遠い場所を見ているようだ。
顔を歪めたシガンさんが私を睨んでいるが、今ばかりは気にならない。
冷い膠着状態。
しかし、これはすぐに終わる。
何故なら________
「違う!!」
泣きそうな声が響く事を、私は知っていた。
予想していた通り、そういう役割ができる月乃が、立ち上がって叫んでいた。
「わたしは、あかねは、メリーちゃんは!そんな理由でつつじのいうこと聞いたんじゃない!」
赤い浴衣の袖が、大きく揺れていた。
綺麗に結われていた髪も解けかけていたが、月乃は気にせず叫ぶ。
「つつじだって、そんな事のためにあんな事しない!」
「つ、月乃さん?」
シガンさんにしては予想外だったらしい月乃の怒りに、戸惑ったように名前を呼ぶシガンさんに先ほどまでの圧はない。
きっと月乃の怒鳴り声で飛んでいったのだろう。
色々と吹き飛ばした月乃のおかげで、ヒガンさんもあかねもメリーさんも、一瞬戸惑ったようだがすぐに納得して苦笑していた。
「あー、シガン、月乃ちゃん怒ってんで。」
「なんで俺が怒られんねん!?」
いつもの調子に戻ったシガンさんは月乃に驚いて身を引いていた。
その顔は普段の無表情からは想像できないほど感情豊かに見える。
そのせいかヤ⚪︎ザ感も薄れていて、浴衣をきて髪型もバッチリ決めたままなのにそこら辺にいそうな人に見える。
「そもそも!そんなに危ないならなんでわたしたちに教えてくれなかったの!?先に言ってくれれば、みんなで対策とかできたのに!」
「やから」
「うるさい!」
普段ならよくもまぁシガンさん相手に……と思うところだが、今回ばかりはありがたい。
私には言い訳しかできないが、月乃ならばこうして月乃が言いたい事を言ってくれる。
…………本当は、私が言わなければならないけれど。
「シガンさんに言ったら行っちゃうんでしょ!?だからわたしもつつじもヒガンさんもあかねもメリーちゃんもフェレスも隠してたんだよ!?なのにつつじは嘘ばっかりだしシガンさんはずっと巻き込むなしか言わないし!!なんでそんなに巻き込みたがらないの!」
「危ないや」
「うるさい!」
二度目の力強いうるさいにシガンさんはどこかしょもんとして見えたが、月乃は止まらない。
「実家とか本家とか知らないけど、危ないんでしょ!?なのに、なのにぃぃぃぃぃぃ!」
止まらないかと思いきや、突然涙腺が崩れたらしくあっさりと止まって泣き出した。
こんな途中で泣き出す事は想定していなかった私は思わず驚いて肩を上げてしまった。
「月乃様ー!」
「月乃ー、大丈夫だぞ。ゆっくりでいいからな。落ち着け。」
即座にあかねとメリーさんが月乃を挟み込んで背中を撫でたり頭を撫でたり、慣れた手つきで月乃をあやしていく。
一方でヒガンさんは笑い転げ、シガンさんはなんとも形容し難い顔をしていて、フェレスに至ってはしれっと私の正座の上に乗っていた。
重い。
「つ、月乃さん、大丈夫か…?」
なぜか私の方を見て聞くシガンさんに首を傾げて答えると、これまたなぜかため息を付き、私の目の前で腰を下ろした。
もしかしなくとも怒られそうで怖い。
ちなみに笑い転げていたヒガンさんはあかねにどつかれて今はメリーさんと月乃の背をさすっていた。
「月乃さんは落ち着くまで待つとして、つつじ。」
「………はい。」
すっかりいつもの様子に戻っているように見えるシガンさんを観察しながら慎重に答える。
フェレスがまだ膝の上にいることだけが唯一の救いだ。
なんかあったら速攻でフェレスを売ろう。
「なんで逃げんかったん?」
………再び同じ質問が私を襲った。
私は、それに対して答えられない。
分からない。
分からなかった。
「つつじ?」
何も言わずに俯いてしまった私に、フェレスが私を見上げながら子供のように名前を呼ぶ。
私はまだ何も答えられない。
分からないから。
「つつじ。」
今度はシガンさんが、名前を呼んだ。
私は恐る恐る重い頭を上げてシガンさんを見る。
………怒っては、いない。
「俺が、どっか行ってまうと思ったん?」
「………………。」
シガンさんの声は珍しく柔らかく優しい。
まるで小さい子供に問いかけているようだ。
「つつじはそう思ってたと思うよ。」
私の代わりにフェレスが答えた。
私は、記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったかのように、その時何をどう考えていたのか分からなくなっていた。
「つつじはこの前言っていましたわ。シガンは優しいからわたくし達が実家の事で危ない目にあったら、絶対に実家に帰ると。帰ってつつじ達を実家の件から遠ざけると。」
「俺やメリーもそう思ったから、つつじとヒガンに付き合ったんだ。」
「わたしだっで、ジガンざんがあぶないとおもったからいわなかったんだもぉぉん!」
まだ泣いている月乃も含めて三人も私の代わりに答える。
シガンさんはただ黙って聞いていたが、その顔はいつもの無表情で何を考えているのか分からない。
ただ、双子だからかヒガンさんはその無表情の意味が分かるようで、ニヤニヤしていた。