『西村賢太・・・試論』
『西村賢太・・・試論』
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西村賢太が、『苦役列車』で、芥川賞を取った時のころを、今でも鮮明に覚えている。前科があったことは、知っていたし、詰まる所、その様な境遇の人でも、文学で評価されれば、やっていけるということが、証明されたことが、何より嬉しかった。これは、まさに、尊敬していると言うことなのである。
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どの様な生き方をしてきた人間にでも、文学においては、皆、自由で平等だということの、体現者として、多くの人々に、光が当たり、人々を救ったということなのである。それにしても、西村賢太は、その私小説の内容で、判断されがちだが、近年稀に見る、素晴らしい文章の書き手だった。
㈢
文章の脈絡の自然さというものは、我々には遠く及ばない地平で、何と言えば良いのか、、単純だが、文章が上手いのである。間の取り方、会話文の流暢さ、重要な言葉の位置、など、多くの点で、揃っているのである。どれだけ、文学を続けていても、届かない程の、天才の位置に、西村賢太は居たと言える。
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『芝公園六角堂跡』では、自分を、「ゴキブリじみた」と、表現し、自己をおとしめることで、笑いを誘っている。この様に、自己を高貴なものとはせずに、私小説が書けることは、本当はものすごく広い心の持ち主でないと、出来ないことなのである。
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また、藤澤清造への崇拝の念も、しっかりと、読み手に伝わってくる。西村賢太の愛読者ならば、自ずと、藤澤清造への小説への好奇心が、芽生えるだろう。これは、西村賢太の才能なくして、藤澤清造なし、と言った状況にまで至る奇跡である。
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現代の文壇で廃れ掛けていた、私小説を復活させた西村賢太の功績は大きい。自身が、どこまで自分の才能に気付いていたかは、急死した今、定かではないが、自分の才能を自認し、適度に転がす様な形で、もっと長生きして、私小説を書き続けて貰いたかった。今でも、その急死が、悔やまれるのである。