起
「……オベロン。無理は承知の上です」
王宮の一角。
白百合宮。
王の愛を一心に受けた妃の最後は、約束された安息とは程遠い物であった。
———なんて事だ。
ガイウス・オベロンは、自身の犯した失態に己を恥じた。
妃の名は、ナタリア・ダンテ。
愛らしく、慈愛に満ちた女だった。
溌溂とした太陽の様な輝く笑みが似合いの彼女は、もう陰もない。
力無く寝台に横たわり、寝台の横の椅子に座す泣き崩れた王が離すまいと必死に彼女の手に縋り付いている。
その傍らにはまだ二人の幼い息子が訳が分からず、ぽかんと立ち尽くしている。
長い年月をかけて微量の毒に侵された全身は呼吸すらも辛いらしく、ヒューヒューと肺から漏れ出る音が絶え間なく聞こえる。
「ナタリア様、何なりと」
オベロンは、騎士然とした敬礼をして、彼女の二の句を待った。
「カリフトを頼みます……。幼いカリフトは、このまま王城で暮らして行けば……きっとマリア様に、良くは思われないでしょうから」
「ナタリア!何をっ?!カリフトは必ず私が守ると言っただろう」
人目も憚らず、王であるオシリス・ルカインが反対した。
大人の尋常ならざる様子に、幼い第二王子のカリフトは萎縮して自身の服の裾を握りしめている。
マリアとは、王妃であるマリア・テレサ・ルカインの事である。
政略的に選ばれた王妃で、聡明な人物ではあるが、人間味の無い貴族然とした女性だ。
ナタリアの様に愛があり結ばれた結婚では無く、七年前まで続いていた他国との十年戦争により傾いていた財政を立て直す為に結ばれた婚姻であった。
王は、愛しているナタリアを王妃に据える事は無く、マリアを尊重していた。
信頼関係を築き上げようと懸命に努力していた。
その結果、マリアとの間には第一王子が生まれた。
生まれて直ぐに王太子とし、ナタリアを権力から遠ざけた。
国母としてのあらゆる栄光はマリアに。
王は、ナタリアには純真な愛のみを預けた。
それが悲劇の始まりだったのだ。
異様な空気の部屋に控えめなノックが響いた。
側仕えのメイドが視線を巡らせてから、気不味そうに扉に向かった。
暫くやり取りをしてから、王太子であるレグルスを連れて入室して来た。
「ナタリア様、陛下。カリフトは私が見ましょう。隣室に控えております故、お話しがお済みになりましたら、お声掛けくださいませ。さあ、行こう。カリフト。兄が遊んでやるぞ」
ナタリアとオシリスは頷いて退室を許した。
レグルスは腹違いの弟であるカリフトの事も、第二妃であるナタリアの事も大事にしていた。
自身の母であるマリアは、レグルスの目には異様に映った。
まるで操り人形の様に感情が読み取れず、レグルスからすると祖父にあたるルカイン卿の傀儡に過ぎなかった。
レグルスは、十年戦争の最中に生を受けた。
長く続く戦争に疲弊し切った国にとって久しぶりの朗報となった存在だ。
幼い頃から王としての徹底的な教育を受け、年齢の割に聡い子供であった事から、母のマリアに対しては常に不信感を抱いていた。
それは多分に父であるオシリスの影響も大きい。
オシリスは事あるごとにマリアを尊重し、ナタリアに対しては過剰な程に何も与えなかった。
兎に角権力からナタリアを遠ざけたのだ。
にも関わらず、ルカイン卿もマリアも満足しなかった。
方やナタリアは、オシリスが愛のみを与える状況に満足していた。
多くを求めず、オシリスに対してもオシリスの子であり、マリアの子でもあるレグルスに対しても一心に慈愛を返した。
その様子が、レグルスに不信感を生んだのだろう。
次第にレグルスは、マリアでは無くナタリアを第二の母の様に慕い、ナタリアの産んだカリフトも愛する様になった。
レグルスは回想を切り上げ、自身の幼い弟を見た。
まだ幼い弟に、これから降り掛かるであろう災難を嘆いて弟の丸い額を撫でた。
「カリフトよ。これから起こる困難で、もしもどうにもならぬと感じた時があったならば、兄を頼りなさい。必ずお前の助けになり得る存在になると誓おう」
難しい言葉に首を傾げるカリフトであったが、兄の気持ちを汲んで頷いた。
幼いカリフトとの最後の時間を惜しむ猶予は無い。
無慈悲にも、それらを断ち切る様に扉をノックする音が響き渡った。
現れたのは、王国の忠臣と名高い名将ガイウス・オベロンだ。
毒見役でも無いオベロンには、今回のナタリアの件は全く関係無いと言って良かった。
しかし、王の身辺に直結する王宮内で起こった事態に長らく気付かずにいた事実が重しとなったのだ。
オベロンは、二人の皇子の前に跪いた。
「お迎えにあがりました。カリフト様」
こうしてカリフトは、皇子という身分を捨て、オベロンの庇護下で剣を学ぶ事になったのだ。