チキンハート 2/20
ストリートの一角にあるジム・ホワイトハート。あまり上背はなかったが、横幅のあるヘビー級の体格といぶし銀のファイトスタイルで一世を風靡した”ブル・アレックス”の営むジムは閑散としている。厳しいトレーニングに耐えうる若者が少ないせいもあるが、経営主に商売っ気がないのが主な原因ではある。その中にあって一人、トレーニングを黙々とこなす若者がいた。筋肉質の長身ではあるが、体は華奢と言っていいほど細く頼りない。だがそのしなやかな四肢から繰り出される突き、蹴りがサンドバックを叩く度に壁、天井に振動が走る。実戦的な技と体を、まだあどけなさを残すその若者は既に持っていた。
と、ジムの入り口が開き、経営主でありトレーナーでもあるアレックス・ホワイトハートが入ってきた。ミット打ちに汗を流していた若者、アレックスの息子であり、ジム最高の実力者でもあるマックス・ホワイトハートは一目散に父の元へと駆け寄る。
「おかえり! 父さん。どうだった?」
屈託のない笑顔を向ける息子に父、アレックスは力ない笑みで返す。
「ああ、まあ、なんだ。事務室の方でゆっくり話そうや」
その表情にマックスはほぼ察しがついた。
事務室とは言っても、ジムの一室にソファとデスクを置いただけの簡素な物に過ぎない。が、元々練習生のいないジムでは充分とは言える。アレックスはポットの安コーヒーをマグカップに注ぎながら経過を報告する。
「まあ、予想通りではあったが、やっぱりダメだったよ。きょうび、肉のないファイターはリングに上げられんらしい。言われるまでもなく、ごもっともな話なんだがな」
力なく語る父にマックスは嘆息しつつ首を振った。
「そう落胆するな。お前は俺と違って頭がいい。華やかなリングだけが全てじゃない。あまりこんなことは言いたくないが、あれはあれで結構やくざな商売なんだ。嘘もグレーもフェイクも日常茶飯事だ。その世界に入ってみると汚い水も啜らにゃならん。真面目にやってりゃいいって訳でも決してない」
「ああ、父さん。分かってるよ。俺だってもう子供じゃない。無邪気にスターになりたいなんて思ってないよ。その上で俺はプロのリングに上がりたいんだ。1年でも2年でも、なんなら半年でもいい。俺の心と体が折れない限り、その化け物どもが鎬を削る世界でやっていきたいんだ。父さんだって言ってたじゃないか。俺の技ならトップレスラーはともかく、グリーンボーイには充分通じるって」
「ありゃあ言葉の綾だ。確かにお前は俺がガキの頃から鍛えてやったんだ。グリーンボーイどころか、プロのアスリートにだって通じるさ。でもな、あの世界はそんなもんは重要じゃないんだ。重要なのは観客を湧かせて、いかに試合を盛り上げられるかなんだ。それができんやつはプロとは言えんのだ。時に観客や、自分を慕ってくれるファンに平気で嘘をつけるような精神の太さがいるんだ。なまじ才能があったために、それができずに潰れちまったやつらも大勢いる。お前にそんな真似ができるか?」
「それは……その時になってみないと分からないよ。でも、俺だってブル・アレックスの息子だ。父さんの試合は誰よりも見てたし、今でもネットやDVDで研究してる。プロのリングがどういうものかくらいちゃんと知ってるよ。俺は試合に勝つためにやりたいんじゃない。父さんが言ってたように、試合を見てくれる人を興奮させたり喜ばせたりしたいんだよ。そのためならみっともなく負けもするし、反則もするし、なんなら一生前座だっていい」
「はあ、蛙の子は蛙だな。そりゃお前は親の欲目かもしれんが、大した才能を持ってる。俺が見てきたやつらの中でもトップクラスの天才だ。しかもお前は俺と違って上背はあるし、母さんに似て顔もいいときてる。でもな、この世界、今の時代にはお前みたいな軽量級はお呼びじゃないんだ。こればっかりはどうにもならん。お前がいくら頑張ったところで観客は興奮なんかしちゃくれないんだ。なにより、お前がリングでいたぶられたり、相手をいたぶったりする姿を、母さんは見たくはないだろう」
マックスは押し黙った。子供の頃から母は夫であるアレックスの試合を見ようとしなかった。その夫が引退して心労から開放されたのに、また息子が同じ世界に飛び込むとなると更なる心労をかけてしまうのは容易に想像できた。アレックスがカップのコーヒーを啜る。
「俺も若い頃は体力には自信があったが、もうボロボロさ。まあ、そのおかげでこうして小さいジムも家も持てたし、お前と母さんにもそこそこの生活させてもらったから感謝している。でもな、俺みたいなずんぐりむっくりがそこまでやれたのは運がよかっただけなんだ。背が低くっても、体が太けりゃ観客は笑ってくれる。場外に落ちりゃ大喜び。ラフファイトでもやれば観客は石や卵を投げつけるほど興奮してくれる。でもな、俺もあの世界で飯食ってきたから分かるが、お前には残念だが見込みがない」