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子猫と一緒に①

「こんにちは。何のご用でしょう?」


 ブースの中でタブレットに何やら打ち込んでいた亘に声をかけると、すぐに操作を止めて、カバーを閉じた。


 そして、嫌味ったらしい笑みを浮かべる。


「猫がどうなったか、あげようと思っただけだ。この俺が、わざわざ」


「……SNSのアドレスも交換しましたよね? そっちで教えてくれればよかったんですけど。でも猫ちゃん……心配はしていました。その後、どうですか?」


 日和は周囲を見回した。ほかのブースでは、みんな真剣な顔で商談をしている。


予約制のブースは争奪戦だから、ペットの話をしていると思われたら、後でこっぴどく叱られることだろう。しかし亘は気にする様子もなく、得意げな顔で話を続けた。


「あいつ、なんとか峠は越えたよ。今夜、迎えに行くんだ」


「え? そうなんですか! 良かったですね!」


 この吉報には日和の顔もほころび、声を潜めて喜んだ。


「それで、だ。一緒に迎えに行ってもらいたい」


「――はぁ? なんで私が……」


「だって、飼ったことがないから一人じゃ無理だろ?」


「いやいや。私だって、飼ったことないですし。たまにはほかの人に頼んでくださいよ。――例えばチーフとか」


「姉さんは猫アレルギーなんだ。ほかに頼める人はいないし……だから、お、お前だけだ」


 亘としては、精一杯素直な気持ちを伝えたつもりだったのだが、またいいように使われるのかと憤っている日和は、その機微を察することができなかった。



「そういうわけだから、今日の帰り、待ち合わせて一緒に病院へ向かおう」


 どうしてこの人は、断っているのに当たり前のように話を進めてしまうのだろうと、日和は顔をしかめる。


「だから……上司の弟だからって、いくらなんでも業務外で手伝いをさせるのって、おかしいと思いませんか? こちらの都合も考えないで、勝手に決められるのは困ります」


 このままではこの男のペースに流されて、使われる一方だ。


 土曜の買い物に付き合ったことで、上司に対する義理は十分に果たしたのだから、これ以上付き合う必要はないと思う。


 すると亘は呆れたような顔をして、ため息をついた。


「子猫のこと、気にならないのか? 薄情な女だな」


「そりゃあ気になりますけど! ほんと困るんです、こういうの。前にも言ったと思いますが、私はあなたの部下じゃありません。たとえ部下だとしても、パワハラに当たりますよね、これ。いい加減にしてください」


「――あいつの回復を喜んでくれるかと思ったのに」


 亘は肩を落とし、かわいそうな空気を醸し出す。


 いつも強気の彼のこの態度に怯んだ日和の口調が、少し柔らかくなった。典型的な長女体質なのだ。


「だから、心配はしていましたけど……」


 言い訳をしようとする日和の言葉を遮り、亘は話し続ける。


「病院で綺麗にしたら、実は白猫だったんだ。目も開いたぞ。なんと青と金のオッドアイだ」


「……そうなんですか?」


 飼ったことはないが、日和も猫は好きだ。それにオッドアイは写真でしか見たことがなかったから、つい興味を引かれてしまう。


「雄だったから、殿下って名付けた」


「殿下、ですか……。ださ」


 思わず本音をもらした日和に、亘はムキになる。


「なんでだよ。かっこいいだろ」


「わたしだったら、そうですねー……白いんだったらコットンちゃんとか、綿毛ちゃんとか、バニラとか……」


「そっちのほうがださい」


 二人の言い合いが始まったとき、パーテーションをこつこつと叩く音がした。ブースの入口で、商品開発部の女性が困ったような顔をしている。


「ごめんなさい。そろそろ私の予約時間だから……」


 いつもはもっときつい印象で、事務に対して気を遣うような態度を取ったこともない。しかし今日は亘効果なのか、いつもより物腰が柔らかかった。


「すみません。すぐに出ます」


 ブースから出た日和と亘は、そのままエレベーターホールへと向かった。


 来客が帰る際はエレベーターの扉が閉まるまで見送らなくてはならないから、日和はイヤイヤながらも亘と並んで一緒にエレベーターが来るのを待つ。


 しかめ面でエレベーターの階数表示を睨みつけている日和の隣で、亘がぼそりとつぶやいた。


「じゃあ、仕事が終わる頃に、正面玄関前で待ってるから」


「え? だから……」


「いいだろ? 今夜は酒を勧めたりしないからさ。ちょっと話したいこともあるし」


 ちょっと話したいことというのは、猫のことだったのではないかと日和が言いかけたとき、エレベーターが到着した。


 中に入った亘は、扉が閉まる瞬間に口を開く。


「実は、ずいぶん前にも日和に会っているんだ、俺」


「……え? それはいつ……」


 問い返した声は、閉まったドアに阻まれた。


 自分が知る男性の中でも断トツの美貌、しかも背もこんなに高いとくれば、絶対に覚えているはずなのに――と、日和は首を捻る。亘が覚えているくらいなら、おそらく言葉は交わしたのだろう。しかしまったく記憶がない。




 仕事が終わったあと、悩みながら日和は正面玄関へ向かった。


(どこで会ったんだろう……)


 終業時間まで、そればかりが気になっていた。


 ――他人には普通なのに、自分にはひどく横柄な態度を取る。


 じつは彼を怒らせるような何かひどいことをしてしまって、しかもそれを覚えていないから、よけいにあんな態度になっているのだろうか。


(だとしたら、謝らなくちゃ。チーフは彼がもともと私のことを知っていたなんて知らないよね。もし怒らせたのなら、彼のことを私に任せるわけないし)


 業務終了直後だったため、退社する人たちで玄関前はごった返しており、とにかくこの人の波から出ようと足を勧めたときだった。目の前に大きな人影が、立ちふさがる。


「あ、すみません」


 邪魔にならないように動いていたつもりだったけど――と思いながら、日和は横にずれた。が、その人影も移動し、日和の目の前に立つ。


(やばい。変な人なのかな)


 そう思いながらおそるおそる顔を上げたら、亘だった。仁王立ちし、あの自信に満ちた高慢な表情で日和を見下ろしている。


「……なにしてるんですか、亘さん。ここ、取引先の玄関前ですよ……」


 呆れた声で指摘する日和に、亘は顎を上げた。


「待っていてやったのに、なんだその言い草は」


「だから、待っててくれなんて一言も……。とにかく、ここは邪魔になりますから、抜けましょう」


 ただでさえ、亘は目立つ存在なのだから――と思いながら、日和は歩道へと飛び出した。


 亘がなぜ自分ばかりを振り回すのか、理解できない日和は初対面ではないという彼の言葉が非常に引っかかっている。それを知りたくて、結局また亘の住む町の駅に降りることになったのだが……。


「バニラのゲージは用意してるんですか?」


「だから殿下だって言ってるだろ? ゲージは買った。病院で使ってる型番聞いて、ネットで」


「えっ。一人で買い物できるじゃないですか! だったら家具とか家電もネットで買えば良かったのに」


「なんだよバカにしてるのか? だから、何が必要か分からなかったし、そういうのは実際見て買ったほうがいいから手伝ってもらったんだろ? 物が分かってれば、買い物くらいできるよ」


 電車に乗ったときからそんな言い合いを続けていて、気づいたら動物病院の玄関前に立っていた。


 すでに亘と顔見知りになったらしい受付の女性が頬を上気させながら会釈したが、日和に気づくと少しがっかりしたような表情を浮かべた。


(そんなあからさまな……。それに彼女じゃないし)


 心の中で思いながら、日和はにこやかな表情を浮かべて病院の中へ足を踏み入れた。



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