二日酔いの日曜日⑤
戻ってきた亘が目の前で掌を広げて見せると、日和は目を見張って覗き込んだ。
「うわ……ちっさい。病気なのかな」
黒くて小さくて痩せているそれは、子猫だった。
両目はじゅくじゅくしたもので覆われてふさがっており、小刻みに震えていて、鴉にいじめられたせいかのか、ところどころに血も滲んでいる。
「寒そうなんだけど、俺、ハンカチも何も持ってないんだけど。包めるようなものはあるか?」
日和はバッグの中を覗き、ハンドタオルを取り出した。
差し出されたそれに、亘はそっと子猫を乗せて優しく包み込み、また自分の手の平に乗せる。普段の彼からは想像できない優しい仕草に驚きながら、日和も小さな子猫を見守った。
「腹が減ってるよな? どうすればいいんだ、これ」
亘が初めて見せた動揺に驚きながら、日和は周囲を見回した。
「お腹はもちろん空いてるんでしょうけど……けっこう弱っているようなので、病院に診せないと。駅前だから、たぶん近くにありそうな――」
そうこうしているうちに、ただでさえ弱々しかった鳴き声がどんどん小さくなっていくようで、二人とも気が気ではない。
「検索するよ」
子猫を日和に渡し、亘はスマホで動物病院を探し始める。
「病院を探しているから、もうちょっとだけ頑張ってね」
日和が声をかけると、まるで返事をするかのように、仔猫はタオルの隙間から細い右前脚を彼女に向かって突き出した。
駅から亘のマンションとは反対方向に五分ほど歩いた場所に比較的評判の良い獣医がいると知り、二人はさっそくそちらへ向かった。中には大きな犬を連れている人や、中が見えないキャリーケースを携えている人もいる。
「混んでるね……」
子猫の命に間に合うだろうか。不安を覚えながら、日和は亘が受付している姿を眺めた。
すると、隣で猫が入っているキャリーケースを抱えていた女性が、声をかけてきた。
「あら。そのタオルの中はなに? キャリーケースは持ってきてないの?」
「いえ。今駅前で保護したばかりで……。この子もまったく動けないようですし」
日和はそっとタオルを開いて見せる。
「どうしたの、この子? ずいぶんちっさいわねぇ」
「すごく弱っているので、早く診てもらいたくて……」
「捨て猫なの? かわいそうに……。うちの子は健康診断だけだから、順番は譲ってあげる。ああでも、もっと早く診てもらいたいわよね」
女性が待合室の人々に向かって声を張り上げた。
「皆さん、瀕死の仔猫ちゃんがいるの。順番譲ってあげてもいいかなって人はいるかしら?」
するとリードにつないだクリーム色のチワワを連れた男性が手を挙げ、受付の女性に向かって話しかける。
「うちは予防接種だけだから、譲るよ。たぶん次だから、俺んとこに彼女の猫を入れて。俺は今受けつけされた順番に呼んでくれればいいから。いったん帰るから、順番近くなったらまた連絡して」
どうやら常連の人らしく、携帯を掲げてみせると受付の女性はにっこり頷いた。
「ありがとうございます!」
自動ドアから出ていく男性の背に礼を言うと、男性の代わりにチワワが振り向き、疳高い声でワンと一声吠えた。
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受付を終えた亘が日和と中年女性の間に立つと、女性が彼をちらちらと盗み見た。
(見かけに騙されちゃだめ! この人、性格は最悪なんだから)
心の中でそうつぶやきがら愛想笑いを浮かべると、女性は声を出さずに『素敵ねぇ』と言ってほほ笑んだので、日和は苦笑を返した。
それからほんの数分後。診察室から出てきた看護師が、名前を呼んだ。
「松坂さーん、松坂ねこさーん」
「えっ?」
日和が亘を見上げると、亘は『なにか?』といわんばかりの涼しい顔で眉を上げた。
「だって、ペットの名前って書いてあったから。名前なんてないから、ねこって書いた」
「まぁそうだろうけど……」
看護師も、『ねこ』まで読み上げなくてもよさそうなものなのに……と、笑いをかみ殺した。
その病院は夫婦で営んでいる病院で、子猫を担当してくれたのは妻のほうだった。
診察台の上で荒い息をついている子猫の体温を測り、触診、聴診したあと、難しい顔をしてため息をつく。
「たぶん、捨て猫ではなく、野良の子だと思います。母猫とはぐれてからけっこう時間がたっているようで、栄養状態が悪いですね。怪我も深く、感染症が心配ですし……治療するとしても、少なくとも数日は入院が必要ですよ。費用もかなりかかりますが、どうしますか?」
「どうしますか――って、どんな選択肢があるって言うんですか。同じ場所に捨ててこいとでも?」
亘がいきなり喧嘩腰になったので、日和は慌てて間に入った。
「治療をしたら、回復する可能性はあるんですか?」
「ここまで弱っていると、なんとも……。助かると断言することはできませんが、預けていただけるなら、できる限りの手は尽くします」
亘の反応に気を悪くする様子もなく、獣医師は猫の頭を指の腹で優しく撫でている。
「費用がかかっても構わないので、治療してください。治ったら俺がこいつを引き取りますから」
「もしダメだったとしても、治療費はいただくことになりますよ?」
獣医師が念を押すと、亘は頷いた。
「もちろん、お支払いします。こいつを絶対に死なせないでください」




