Chapter:0007
長めです。
「……胸糞悪いことを思い出したわね……」
数年前に自分が今所属している協会で契約をした時のことを思い出し、市香は大きなため息をついた。
「なんで今さら……」
市香はあの男――バーレスクのことが大嫌いだった。
バーレスクからしてみれば完全に逆恨みであるが。失礼な物言いではあったものの、あの時一番市香にまともなことを言ったのはバーレスクだけだった。
逆恨みであることは市香自身にも自覚があったが、積年の思いをすっかりこじらせているのだ。
「あーあ。昔を思い出すから、会いたくなか――ん?」
フッと、天啓のような考えが思い浮かぶ。
市香が所属している協会は、何故だかバーレスクの船守になることを死ぬほど嫌がっている。規則ではないが関わらないようにと口を酸っぱくして何度も言うのだ。
普通に考えれば高級船守というブランドが傷つくのを恐れてだとは思っていたが、よくよく考えたらそれはそうだ。
なにせ世界的に有名な悪党の正体が王族だとは誰も思うまい。そして誰が関わりたいと思うだろうか。どう考えても首を突っ込んではいけない案件である。
ではその“規則違反ではないがやらないでほしいこと”を、市香がやったとしたら?
「……ふふっ……」
――それは、とてつもない嫌がらせになるのではないだろうか。
協会が言ったように掟的には何ら問題はないので、市香が船守の牢屋に入れられて大事なものを失うことはない。
そもそも、今回は王族から海神協定により断れない契約を突きつけられたのだから、市香の意思でどうにかなるものではないのだ。
相手が犯罪者であろうとも、海神協定に則り受けるしかない。
一泡吹かせるにはもってこいの話である。
最も契約者の状況は世界を揺るがしかねない秘密なので、この話は協会内の上部――それもごくごく限られた者たちの間だけでとどまるだろうが。
「アーッハッハッハ! いい気味じゃあないのザマぁ~!! 私はあのクソ男も嫌いだけど、私を騙した協会はもっと嫌いなのよ! あ~はっは!!」
急に大声を上げて笑い出す市香に船員は距離を取るが、そんなことは市香には関係ない。
先ほどとは打って変わってスッキリした表情を浮かべると、市香は船長室へと舞い戻った。
「バーレスク!! 依頼を受けてあげる!」
敬語もなしに扉をぶち破る勢いで現れた市香に、バーレスクの隣にいた男は再び額の血管をふくらませる。
しかしそれを片手で制したバーレスクが、ニヤニヤと笑みを浮かべながら葉巻の煙を吐き出した。
「一体どんな心変わりが?」
「この契約が私にとってプラスになると気づいたのよ。ほら、手ぇ出しなさいよ」
疑いもせず手を出すバーレスク。そしてその手に自らの手を重ねる市香。
「海神協定に則り、依頼された仕事を請け負うわ。立会人は“審判者フトロフ”、四七協定を遂行する。支払いと契約期間と業務内容は先程提示されたもので結構」
「ああ、よろしく頼む」
「なお、船守の身の安全に関しては、あんたが持っているルールブックに載ってるからそれを見て。契約は以上。まあ、一週間後の契約については、また改めて決めま――」
そこまで言ったところで、市香の手が強い力で引き寄せられる。
額こそ打たなかったが、打ち付ける直前の距離まで来たことに反射的に身を引いた。しかし腕の力は緩まない。
「なあ、警戒心がないと言われたことはないか? よくそれで船守の仕事をしているな。男所帯で生きていいけるのか?」
「あんた馬鹿? 船守の条件を忘れたわけ? 私に手を出せば、たった今契約した船守がいなくなるだけだけど。勿論その場合でもしっかりお代は請求されるわ。あんたがどこに逃げようと、地の果てまで追いかけてね」
微塵も恐怖を感じたふうでなくそう言えば、一瞬の沈黙の後にバーレスクは肩を揺らして笑い出した。
「ああ、そうだな。船守が男所帯でも安全でいられるのは純潔のためだ。なるほど、肝が座っているじゃあないか」
「憎たらしいだけですぜ、このクソアマ」
言ってろ海賊。
内心でそう思いながら、市香はその男を鼻で笑う。
未だ市香に良い印象がない船員の男は、今にも噛みつきそうな凶悪な顔で市香を睨みつけた。
「さてと、契約完了を協会に報告するから、協会長とお話してくださる? 新規のお客様はそうする決まりなの」
有無を言わさず連絡用の通信機である首飾りに魔力を込めると、小さく無機質な呼び出し音が鳴る。
『こちらセンチェルト協会』
おおよそ無線に出るような人ではない声が聞こえ、市香は己の運の良さに面の下の口角を思いっきり吊り上げた。
これは一泡吹かせるのにうってつけの人物だと。
「珍しい。ミール・バートン副協会長。なんであなたが出たの?」
そう、副協会長だ。
窓口担当が出るより遥かに話が早い。あちこち経由しなくとも上層部に一発で話が通るので、嫌がらせをするのには実に最適な人物である。
『ご用件は?』
「定時連絡と合わせた新契約連絡。全く……そういう事務的で無駄な話を一切しない感じ、昔から変わらないのね。いや、変わったか。昔は私が頭突きしたら涙浮かべてたし、私が落ち込んでいたら心配そうな顔をしてくれたのに、今となっては……」
そう、電話口の男は過去に市香の教育をし、唯一市香が頭突きをした男だった。
あの後すぐに副協会長の座に収まった彼は市香と関わることがなくなってあまり話さなくなったが、時折心配して様子を見に来ていることを市香は知っている。
『名乗りを。こちらも暇ではありません』
「はいはい。い――」
市香はふと心配になった。
もし名乗って、目の前でニヤニヤを浮かべたままの男に、自分があの時の無知な女だとバレたらどうしようと。
『……どうしたのですか。早く名乗りを』
あの時に名乗った覚えはない。自分のことを追いかけて調べたりもしていないだろうし、自意識過剰すぎるかと思い直す。
それに何より面をつけているのだ。顔なんかわからないし、わかったとて覚えていないだろう。
だが、念には念を入れて登録名の方で答えることにした。
「……センチェルト協会所属船守、登録名キツネ。えーと、今の船守確認番号は二七五」
『確認しました。お疲れ様です、キツネさん。ご用件を』
「その前になんであなたがが窓口をしているの?」
『どこぞの船守が担当していた依頼が破棄となり、元依頼主が船ごと海の底に沈んだとつい先程連絡が入りました。事実関係を調べるべく、担当を含めた職員らは席を外しているのです』
なんだ直前までやっていた依頼の件は知っていたのか、と少し気まずい思いをして視線をさまよわせる。
そして船守だけが知る言葉で直前までの仕事の報告をした。
『早く定時連絡内容と新しい依頼内容を言いなさい。あなたが使っているこの回線は、あなた専用ではないのですよ』
「わかってるってば……“定時連絡、依頼人から支払いを拒否され、依頼の継続が不可能と判断したため契約を切りました。その直後、海賊船に襲われたようですが、私は別件で忙しかったため気づけず、気づいた時には船首がわずかに見えている状態でした”報告以上」
『あなたという人は……』
「それで新規契約一件だけど、すでに雇用契約済みなの。なんせ雇用主が王――」
横から伸びてきた太い手が、市香の首飾りを奪う。
「どうも、副協会長殿。新たな依頼人、バーレスク・カーンだ」
通信機の向こう側から、何かが倒れるような音がした。
* * * * *
「なんで嘘をつくの!?」
市香は怒っていた。
「はあ? 嘘? 俺の本名を言うつもりだったのか? なんでもなんも、王族が四大海賊だなんてバレたら困るだろうが」
「おかげさまで私の計画がパアよパア!! もっとこう、私は……!」
「いや何を企んでいたかなんて知らないが、海神協定は違反してないのだからいいだろ。最も、あの男は『協会始まって以来、最悪の依頼人ですね』とかほざいていたが」
バーレスクが名乗った後、バートンは一瞬間を置いて市香を怒鳴りつけた。
いくら市香が「本当は王族からの依頼で、海神協定を使われた」と言おうとしても妨害され、結局金のために四大海賊のバーレスク・カーンと契約をしたという認識で通信が切れたのだった。
慌てて通信をつなげ直すも、既にバートンが各所へ連絡を始めていたため、無人となった窓口の通信を取るものはおらず、結局微妙な勘違いが起こったままというわけだ。
元々混乱を起こすことが目的ではあったものの、言い方次第で怒涛のように責められることは承知していたので、言い方には気をつけようと思っていたところだった。
「後で伝えないと……信じてもらえるかわからないけど……」
「お前、協会からの信用がまるでねぇなあ」
「うるさいわね!!」
落ち込んでいても仕方がないと、市香は最後に大きなため息をつくと面の下でバーレスクを睨みつけた。
「この貸しは高く付くわよ」
「ああ。思い出したぞ」
ぽんと手を打ち、バーレスクは宙を見上げる。
そしてすぐにギョロリと視線を市香に戻すと、口角をゆったりと上げて首をかしげた。
「お前、仕送りしているジジババがいるのだってなあ」
――何故それを知っている。
話が見えない。もしかして“思い出した”と言うのは、昔のことを丸ごと思い出したという意味なのかと冷や汗が背を伝う。
嫌な予感しかしない。
「田舎の割に生活に苦労していないようだと、界隈の悪党どもに目をつけられているのを知っているか?」
「そんな脅しが通るとでも?」
「脅しでもなんでもねぇよ」
差し出されたのは一通の手紙。それはかの老夫婦の筆跡である。
内容はバーレスクに助けられたこと、バーレスクが市香の契約主であると教えてもらったこと、契約主がとてもいい人で安心したこと、仕事に励むようにと綴られている。
彼らの筆跡は非常に特徴的だったので、市香は数回見ただけであったがよく覚えていた。
「なんであんたがこんなものを……」
「何って。これから一緒に仕事をするやつのことを調べるのは当たり前だろう? 雇用主だと伝えたら手紙を渡してくれと言われただけだが?」
「嘘ついてんじゃないわよ!!」
「どの件についてだ? 場合によっては嘘じゃない」
「くっ……このロクデナシ! どうせその悪党ってのもあんたたちが差し向けたんでしょう!?」
反射的に市香が叫べば、バーレスクはさらに口角を上げた。
「よせ、人聞きの悪い。全くの偶然だ」
「悪党の言うことを信じると思った?」
なおも吠える市香を見ながら、バーレスクはゆっくりと近寄る。そして隣に立ち、体重をかけるようにして市香の肩を抱き寄せる。そして顔を覗き込みながら、まるで面の下が見えているかのように視線を合わせた。
「船守殿ぉ。本当はわかっているのだろう? なあんにも嘘じゃあないって」
腹立たしいことに、薄っすら嘘でないことはわかっている。
最近山賊が多いからと、船守ではあるが海ではなく陸の――それも老夫婦の住む近くの地域の依頼を受けたばかりだ。そのせいで商人の男と揉めた話は記憶に新しい。
その時に老夫婦から「たまに定期的に見回りをしてくれるガラの悪い若い子たちがいる」と笑って聞かされたのだ。
ガラの悪い若い子ってなんだと訝しみつつも笑って流したが、それが仇になったかと舌打ちする。だからバーレスクの言うことは事実だろう。そしてガラの悪い若い子たちというのがバーレスクの一味だということも。
「張り切って仕送りしすぎたなあ。お前が余計なことを口に出さないうちは、お前の留守の間は俺の部下がジジババを守ってしんぜよう。俺の部下は強いぞ」
「……仕送りが多すぎた……? それを狙って……?」
バーレスクの顔が、いやらしい笑みに歪む。
「お前は世間知らずだなあ? キツネ殿は貴族のお嬢様のような金銭感覚をお持ちでいらっしゃる。そんなにこの仕事は儲かるのか?」
「くっ……」
「なぁに、ジジババのことは気にするな。これは船守殿の信頼を得るためのサァァァァビスだ。安いもんさ。くははっ」
心底おかしいと言った様子で口に手をあてて笑う。
「……私、本当にあんたのこと嫌いだわ」
「そのうち嫌でも好きになるさ」
――かくして、市香は大人しくバーレスクの言いなりとなることになったのだった。