Chapter:0006
長めです。
「私は生まれてこの方、人の道を外れるようなことは……勿論、これからもです」
男は市香に椅子を勧めながら「ええ、もちろんですとも」と呟いた。
「しかし、あなたの力を悪用しようとする者が出てくるのは間違いない。そしてあなたが騙されないとは限りません。そこで我々協会はあなたを特級船守として監視させて頂きたく考えております」
「特級船守?」
「週に一度、必ず協会に一報を入れるようにして下さい。そしてあなたには、常に協会の監視を付けさせて頂く」
「そんな……それじゃあまるで――」
犯罪者じゃあないか。
そう思って男を睨みつければ、男は困ったように首を横に振った。
「ですが、そうでもしないとあなたを守りきれないのです。あなたがいつ悪に手を絡め取られるか……」
「私は危険なことはしません」
「あなたがしなくとも、巻き込まれたり引き込まれたりすることは十分に考えられます」
そう言われてしまえば、もう何も言えなかった。
まるで犯罪者のような扱いだと思ったものの、考えようによっては助けてくれる影と言えなくもない。まだ納得しきれていないが、ここは素直に頷いておくのが賢明かと、市香は深くため息をついた。
「もし本当に船守をやりたいというのなら、それが試験合格の条件です」
「…………」
「――と、言いたかったのですが、もうこれは強制ですな。あなたが船守をしないと判断しても、あなたには監視を付けさせて頂きます。ご理解頂きたく、レディ」
そう言われてようやくわかった。
納得できないのではなく、このオヤジの偉そうで胡散臭い言い方が問題なのだと。当の本人には全く悪気がなさそうなのがまた腹が立つ。
子供ではないのだから理解してくれと言われ、市香は悪態をつきたい気持ちでいっぱいだった。
しかしまったくもって相手の言い分には納得できる。お互い妥協し合えば、このオヤジが言う方法が一番マシなのだろうと思えた。
何とも言えない思いを胸に抱えつつも、市香は小さく声を上げる。
「……船守の資格をください。帰る場所がないので、これ以外に生きていく手段がありません」
少し不機嫌そうに言えば、市香の不機嫌を察した男はさらに困ったような表情を浮かべた。
「――承知しました。念のために申し上げますが、我々は決してあなたを怒らせるつもりはありません。言い方がきつくなってしまったことは申し訳なく思っていますが、ぜひご理解下さい」
「……ええ、こちらこそ失礼しました」
「では今日よりイチカ殿は我が協会の船守ですな」
そこから部屋の移動を促され、海神協定や船守のマナーなどの講習を受けた。その流れで市香があまりにも常識に疎いことがわかり、能力を持った馬鹿を野放しにするのを恐れた職員が「あなたの無知は全て記憶喪失と言うことにした方がいい」と助言をするほどだった。
職員はこの時点でイチカが記憶喪失だなどとは信じていなかった。船守はこの国独特の血の文化であったため、どちらかと言えば、“この国の血を引く崩落した異国の無知なお嬢様が、どこぞの悪党の被害にあったのだろう”と思っていたのだが、実際はただのOLだ。
だが市香はその勘違いに乗ることにした。その方が話がシンプルになるからだ。
やがて数時間に及ぶ講習 ―― これが通常の講習よりもだいぶ長いことを市香は知らない ―― を終えた市香は、ややぐったりした職員に見送られてエントランスまでやってきた。
「では……まあ、わからないことがありましたら、各地に点在する協会で職員にお尋ね下さい。あなたの情報は全地の協会へ通達が行きますので、どの職員も丁寧に教えてくれるでしょう」
「はい、ありがとうございます」
「それからイチカ殿が発する光の色はとても珍しいものです。異国の者と言えば容姿と相まって渋々“人種差”ということで納得するでしょうが、目立つことのないようお気をつけ下さい」
眉間にシワを寄せて、腕を組みながら自分の言葉に頷く職員。未来を想像してかその眉間のシワは更に深くなる。
「そうでしょうか……?」
「そうですとも。よくよく気をつけて仕事を選ぶように」
「はい」
「あなたは頭が――失礼、まだ“記憶喪失”で知識が足りないのですから。まあそのことも各協会には伝えてありますので、最初は請けられる仕事もある程度は職員がセーブします」
なるほど、頭が悪いと思われていたのかと半目になっていると、エントランスがにわかに騒がしくなってきたことに気づく。
それは職員も同じで、二人して訝しんで周囲を見渡した。
そして気づいたのが、大きく開いた胸元に髑髏の入れ墨を入れた大柄な男――四大海賊バーレスク・カーンだ。
「バーレスク・カーン……? 何故こんなところに……」
「有名人ですか?」
「あなたは四大海賊もご存じないのですね……まあ仕方がないでしょう。四大海賊とは存在する海賊の中でも“大規模厄災級”に数えられる四人の海賊のことです。悪道を貫く極悪人ですよ。いくら払いが良くとも近づかない方がいい」
「でも、依頼は断れないのではないですか?」
「……あとで必ず海神協定を頭に叩き込んで下さい」
この世界には海賊がいるのかと少し驚きながら再びバーレスクの方を見れば、かの男は職員と揉め事を起こしているところであった。
「ですから、我が協会では犯罪歴がある方に船守を派遣することはできません!」
「そう言うなよ。グーテンの協会は貸してくれたぜ? すぐ死んだが」
「それは我々とは別の協会でしょう? 我がセンチェルト協会は違うのです。お引き取り下さい」
「だがこの協会があらゆる船守協会の中で一番質のいい船守を紹介してくれると聞いたんだ」
そう言ったときのことだった。
静かにことの成り行きを見守っていた職員が、小さく市香に耳打ちする。
「彼は海賊ですから、先程お教えした海神協定を知らないのです。ですからこの勝負はすぐに決着がつくでしょう」
「どういうことですか?」
「彼が海神協定を知っていれば、それがたとえ悪魔であろうと契約を強制させる手段はいくらでもある。ですが、あの男は知りません。つまり、強引に職員が追い出して終了となる……ということですよ。あなたも面倒事に巻き込まれたくないのなら、早々に全ての掟を覚えなさい」
なるほど、そういうことかと市香が納得しながらバーレスクを見つめていると、その二つの目が市香の方を向いた。
「!」
慌てて視線をそらすが、自らに向けられた視線がそらされる気配はない。
「そこの小さいお嬢さん」
バーレスクがそう言った瞬間、横に立つ職員が小さく舌打ちする。
まさかそんな乱暴な仕草をするとは思っていなかったので、市香は思わず職員のことを見上げた。
「あんた船守か?」
「この方は先程船守になったばかりで、まだ証明書が発行されていません」
市香をかばうようにして前に出た職員がそう言うも、知ったことかと言わんばかりにバーレスクが近寄ってくる。
そして市香の直ぐ側まで来ると、市香の顔を覗き込みながらジロリと眺めて口角を上げた。
「かまわんさ。証明書はすぐ発行されるだろう? ゆっくり待――ほう? 珍しい造形の顔をしているな」
無遠慮に顔を覗き込まれ、市香はそっと顔をそむけた。
それが面白かったらしいバーレスクは、忍び笑いをしながら腰をかがめて市香に視線を合わせた。
「さっき船守になったと言ったな。船守の牢屋に行くようなことをするなよ」
「牢屋……?」
からかうようにそう言うバーレスクに対し市香が訝しみ眉をひそめるのと、再び職員が市香の前に立ってバーレスクの視線を遮った。
「おーい、怖い職員だなあ」
――この時、市香は無礼な動きをした職員に“怖い”と言ったのだと思っていた。
「新人船守を惑わすのはおやめ下さい」
「惑わしているのはどっちだ? 牢屋のことを知らないだと? 誰も何も教えていないのか?」
しかし、どうも職員の様子がおかしい。
「あの、牢屋ってなんの事で――」
「お引き取り願おうか、カーン殿。我が協会はあなたを客人であると認めない」
「船守の牢屋を知らないのも驚きだが、それを黙って契約させたこの協会にも驚きだぜ。いやはやまったくもって“怖い”話だ」
ここでようやく市香は気づいた。
どうやら自分は何かを隠されて契約を完了させたらしいと。
この悪党と評される男をどこまで信じていいかわからなかったが、職員が謎の汗を出しているところを見ると、何かを黙っていたことは本当だったらしい。
「……何ですか、牢屋って。私に言っていないことを全て言ってください」
職員は答えない。
市香の顔を見ようともしない。
「なあ、無知なお嬢ちゃん。騙されちまったモンはしかたないさ。お前の無知のせいだ。だが、俺にはそんなこと関係ない。お前が船守かどうかが重要なんだよ。新人でもいないよりはマシってくらい困ってるんだが、俺と仕事をしてくれないか?」
「お帰り頂きたい、バーレスク・カーン殿。これ以上は警備を呼ばせて頂く」
「新人なら協会だって失っても困らないだろうに」
バーレスクは職員の低い声にも動じない。
「なあ、レイヴンズチェストを倒すのを手伝ってくれよ。一生遊んで暮らせる金を出すぞ」
「……だ、誰ですかそれ」
一瞬時が止まり、そして雷のような音量でバーレスクが笑う。
「おい~……誰だ質のいい船守を貸してくれるって言ったのは」
未だ笑いが収まらないバーレスク。
それを苦々しい表情で睨みつける職員。
一体何が起こっているのかと挙動不審になりながら周囲を見渡すも、誰に頼ればいいのか市香には皆目検討がつかない。
「お嬢さん、無知は罪だな。船守が牢屋もレイヴンズチェストも知らないなんざ、笑われても仕方ない。お前みたいなやつは騙されて骨の髄まで吸われた挙句に死ぬんだ。船守になんかならない方がいいんじゃねぇのか?」
全くもってその通りではあったが、市香には生活がかかっている。やらないわけにはいかないのだ。
「無知……だけど……これから勉強して――」
「遅い遅い。身ぐるみ剥がれるのが先だ。なんだ、とんだ期待はずれだったな。まさかこんな使えないのが船守になるとは、この協会はどうしたのかね。それとも、お偉いさんの娘か何かなのか?」
職員は憐れそうな顔を向けてくるが、市香を肯定したりかばうようなことは言わない。
つまり、職員もそう思っていると言うことだ。
なんとなく考えないようにしていたその事実に気づいた瞬間、市香は初めて異世界に来たことに不安を覚えて泣きそうになった。
「……だ、だから……これから、頑張るんだってば……」
「そんな台詞は言うだけ無駄だ。事が起こってから知りませんでしたって言っても遅い。違うか? お嬢ちゃん」
黙り込んだ市香を見て、バーレスクは困ったように笑って鼻を鳴らす。
「たいした船守を紹介して貰えないのなら、ここに用はねぇなあ」
「我が協会の船守は皆様優秀です!! 犯罪者には貸し出さないと言っているのです!!」
「じゃあな、無知なお嬢さん。悪いことが起こる前に、テメェの身のふりを考えた方がいいぜ」
キャンキャンと噛み付く受付の職員を片手でいなし、バーレスクは扉の向こうへと消えていった。
「…………」
「……大丈夫ですか?」
うつむいて震える市香を見て、職員は僅かばかりの罪悪感が湧いてきた。
船守の牢屋について、確かに言わなかった。それは上の指示でもあった。
それほどに市香の能力は“異常”だったのだ。喉から手が出るほどほしい特殊な能力持ち。それが世間知らずのうちに契約を済ませてしまえば万々歳なのだ。
なにせこんな逸材は世をくまなく探してもなかなか見つけ出す事ができないのだから。他の協会に横取りされるわけにはいかなかった。
早く、とにかく一刻も早く、契約を済ませたかったのだ。
「……イチカ殿――」
職員の首に下がるネクタイが、勢いよくひかれる。
「うぐッ!?」
あっという間に暗闇の底のような瞳に睨みつけられ、そして額を嫌というほど市香の額に打ち付けられた。
「いっ……!?」
職員の方は気絶するかと思うほど痛かったが、市香は全く表情が動かない。
「イ、イチカど――ぐっ!?」
額の痛みと首の軋みに呻き声を上げるのと同時に、職員の視界の端で受付の職員が青ざめているのが見えた。
頭突きのせいでずれた眼鏡が床へと落ちて音を立てる。
「教えなさいよ、あんたたちが黙っていること全部」
そう言った市香の声は、地獄の門を守るケルベロスの唸り声のようであった。
+ + + + +
「信じられない……!! 説明義務を怠ったわけ!?」
職員から聞かされたのは、あまりにも理不尽な話だった。
「いいえ。失念していたのです。我々も人ですから、何卒ご容赦頂きたく」
落ちた眼鏡を広い、襟元を正して髪をかきあげる。眼鏡が割れていないことを確認すると、職員は小さくため息を付いてそれをかけた。
「失念ですって!? とんでもなく大きな過失じゃないの!! どうしてくれるのよ!」
船守が国の法律よりも厳守するもの――それが海神協定だ。
その拘束力は国の法律よりも遥かに強く、国もそれを了承している。
だがそれゆえに、掟破りには厳しい罰があるのだ。
それが、船守の牢屋。
「大変申し訳ありませんでした。普段はご存じの方しかいらっしゃらないものですから、説明をしなければいけないということが頭から抜けておりました」
「謝って済む問題じゃないでしょう!!」
掟を破った者は審議にかけられ、そこで咎が有るとみなされれば契約の際に用いた魔術によって船守の牢屋に引きずり込まれる。そこで一番大切な物を失う様を眺めているしかない。
夫であれば夫を、名声であれば名声を、そして宝石であれば宝石を。とにかくそれが生物であろうが静物であろうが、手段を問わず必ず失われるのだ。
そしてこの協会はその拘束力が最も高い協会として、船守の間では知らぬ者はいないところだった。
高級船守と銘打っているのだ。よその協会ではお目こぼしされることも、この協会では厳しく取り締まられる。
船守たるもの高潔であるべし――それが、この協会の掟だ。
それを聞いた市香は人を騙しておいて何が高潔かと思わないでもなかったが、とにかくとぼけることにしたらしい者たちに何を言っても無駄だと悟った。
「なんで……こんな……」
全ては確認不足。
そう言ってしまえばそれまでだが、そもそも知らないことを知ることはできない。
であればやはりじっくりと契約書を読ませなかった協会に責務があるが、当の協会は知らぬ存ぜぬで流すことにしたらしい。
「こんなの契約違反よ。解除して」
「できかねます。船守が契約を破棄するのは、異性と関係を持ったときか、掟を破って破門されるときです」
そのどちらも、今の市香には無理だった。
すぐに職を失うわけにはいかないのだ。
例え自分の置かれた環境が悪くとも。