Chapter:0024
「……市香」
酷くあっけなく、全てが終わった。
城の者たちの洗脳は解け、死んだはずの王兄殿下が生きているのを見て偽物だと思い牢に入れ、やがてそれが本物だとわかるとどういう処遇にしたものかと議会が荒れる。
海賊たちはいち早くバーレスクと市香を担いで逃げ出したので、荒れた城と大量の血痕の理由を現場にいたものに聞く必要があったが、そもそも気が狂って独り言しか言わない者から正しい情報を引き出すのは無理だったのだ。
「いい加減に元気を出せ。早く元気にならないと、俺の船が襲われるぞ。ヨルダンを覚えているか? あれが十九日の十五時に俺の船を襲うと連絡をよこしたんだ。馬鹿だよな、あいつ」
今、市香たちは海の上だ。
バーレスクはふさぎ込んで話さなくなった市香を毎日抱きかかえ、海を見ながら話しかけている。
食事は無理やり口に突っ込めば、しばらくしてなんとか飲み込んでいる。しかしそれも一口二口食べるとやめてしまい、口に突っ込んだ物を飲み込まなくなる。
「……お前、俺のこと気になるって言っただろうが。他の男のことで落ち込んでんじゃねぇよ」
つい憎まれ口をきけば、ずっと聞きたかった高い声が小さく漏れた。
「気になってる=好きってわけじゃないけど」
一瞬誰が言ったのかと思った。
目を見開いて市香を見れば、ブスッとした表情で海を睨みつけている市香がいる。
「……久しぶりに喋ったかと思えば。怒りが原動力か? お前相変わらずいい性格をしているな」
市香は喋らない。
しかし眉間のシワが濃くなったのを見て、バーレスクは酷く安心してため息をついた。
「というかその言い方、卑怯くさくない? あんた昔の女のことで私に依頼をしてきておきながら、私にそんな言い方をするの?」
「昔の女?」
心底わからんという顔に市香の顔が引きつる。
「あんた……」
「ああ、まさかマリィのことか? 兄上も勘違いしていたが、そもそもあれの好きなやつは近衛騎士だ。俺は別に好きでもなんでもなかったが、指輪をそいつに渡してほしいと頼まれたので何度か二人で会っていてな」
「はあ……? まさかそのマリィって女の人の婚約指輪をあなたが? 全く無関係の男に? 渡しに行ったわけ?」
「は? 婚約指輪なんかじゃないが。どこの情報だそれは。まさか兄上だけではなく他のやつもそう思っていたのか……? 指輪は自分で用意したものらしい」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
「そんなクソみたいなことするからこんなに盛大に揉めたんでしょうが!!」
「……それを言われると耳が痛いが。俺だって断りはした。だが指輪を押し付けられた直後に事故が起こってな……一度作った指輪を兄に取り上げられたので、焦っていたようだったが。まあ、取り返した指輪を俺に渡した直後にマリィは帰らぬ人となるし、勘違いから兄上には話せないしで揉めに揉めた」
「なんてこと……」
顔を両手で多い、深呼吸をする。
溢れた涙はとどまることを知らない。
「そんなことで……ミールは死んじゃったの……?」
化物扱いをしてくる者が多い中、市香を一番理解してサポートしたのはミールだった。
歪んだ愛情を向けられていることには気づいていたが、それでも依存して離れようとしなかったのは市香の方だ。
そのおかげで大変なことに巻き込まれて方々へ迷惑をかけたので、バーレスクのことを強くは言えないが。
それでも、情がうつり心を許していたミールがいなくなってしまったのは、市香が思っていたよりもだいぶ辛いことだった。
それに、あの時のミールは記憶を全て奪われて市香のことをすっかり忘れていたのだから、自分が何故死んだかもわかっていなかったはずだ。
「最悪だ……本当に最悪だ……」
一体どこで歯車が狂ってしまったのか。
市香はどうしてもミールの愛情を受け止めることができないでいた。その歪んだ愛が、いずれ自分を壊すと知っていたから。思いを向けられるのは有難かったが、それに気づかないふりをしたのはそれが理由だ。
そんな関係をいつまでも続けてしまったのは、まさに自分のせいとしか言いようがない。
そしてそのせいで、市香はミールにつらい思いをさせて命まで奪った。
「市香……頼むから思いつめるな」
「だって私のせいで……」
「随分とおこがましい考え方をするのですね、イチカ」
聞き慣れた声に弾かれたように顔を上げる。
「まあ、あなたが私のことで頭が一杯になっているのは良いことだと思いますが」
空中の切れ目。
そこから顔をのぞかせた顔色の悪い男。
「……ミー……ル……」
その頬に触ろうとして、バーレスクに手を掴まれる。
後ろを振り向いて睨みあげれば、ミールが小さく笑う声が聞こえた。
「いや、バーレスクの判断は正しい」
「どういうこと」
「私は死んでいますから。今私に触れば生気を根こそぎ吸われますよ」
言っている意味がまるでわからず、市香は顔を歪める。
「あの悪魔、私に断りもなく下僕にしまして。前世の記憶まで引き継いだので、あのみっともない姿を全て強制的に思い出したという嫌な思い出付きです」
「そんな……嘘でしょう……?」
「まあ、こうして新たな生を受けたのはいいのですが、しばらくはこの空間から出られないんですよ。おまけに生きるためには定期的に――ああ……まあ、この話はいいか……」
やや遠い目をしながら、ミールがため息をつく。
「なんで……え、つまり……生きてるってこと……?」
「人間ではない者になってしまいましたが」
じわりと浮かぶ涙に、ミールが苦笑する。
「あなたを好きだという気持ちは変わりません。いずれ私がここから出られるようになったら、全力であなたを連れ去りに来ますので」
「なら俺はその前にこいつをものにしておこうか。なにせこれは“俺のことが気になっている”んだからな。すぐだ。すぐ」
「果たしてそうでしょうか?」
肩をすくめて顎で市香を示す。
それに従って市香を見れば、感極まった表情でミールを見つめる市香がいた。その目に恋情はまるでないが、今その視界におさまっているのはミールであってバーレスクではない。
「…………」
「だいたいあなた、別に今は市香を好きだと言うわけではないでしょう」
「はは、だったらなんだ? お互いに“気になっている”のだからこれからだろう?」
ふんと鼻で笑う。
一瞬遅れて、市香はその台詞を理解した。
「え、なんて……?」
ぽかんと口を開けている市香に、バーレスクは変な顔になる。
「おいおい、どうとも思っていない女の命を助けるか? 何のために俺が捨て身でお前を逃したと思っているんだ」
市香の顔が熱くなる。
「まあこれから仲良くしようや。契約は続きってことでいいか? 新たに海神協定を言えば良いんだよな。そもそもお前、協会でどんな扱いになっているんだ?」
「……え、あ」
そう言われて初めて市香は自分のことを話していなかったことに思い至り、焦り始める。
その姿を見て訝しんだバーレスクは、詰めるように睨みつけた。
「あのー、船守協会は掟を破ったのがバレてクビになったの」
「どういうことだ」
「市香の一番大事なものを私がもらったということだ」
突然の乱入に三者は周囲を見渡し、空中の切れ目に悪魔を見つける。
しかし反撃の体制を取る前に、悪魔はミールを引きずり込みながら楽しそうに笑って穴の中へと消えていった。
「ミール!」
名を呼ぶが、返答はない。
「…………」
次はいつ会うことになるのだろうと顔をしかめていると、ふいに背後から冷気が漂ってくる。
「なあ、市香。時間はあるんだ。ゆっくり話し合おうじゃあないか」
息を呑み、勢いよく振り返る。
そこには薄っすら笑顔を浮かべるバーレスクがいたが、目は全く笑っていなかった。
「掟を破ったってなんだ?」
それは言わないと駄目だろうか。
悩んだ末、逸れない視線にため息をつく。
「何を失った」
「……記憶、を」
「記憶?」
一番大事な記憶。
果たしてそれはどんなものかと眉間にシワを寄せる。
「あの、でも……一番大事なものは見逃してもらったの。だから奪われたものは二番目に大事なものだった」
「は? あの悪魔が見逃すなんてあるのか?」
一体どんな取り引きがあったのかと顔をしかめるも、市香の表情から語ることはないだろうと舌打ちする。
「何の記憶を失ったんだ」
再度同じことを聞けば、市香は諦めたように口を開いた。
「私の過去の一部を……もう家族のことも忘れたし、友達がいたかもわからない。記憶があるのはこの国に来てからのことだけなの。あの時は一番大事で、そのことについて寂しい思いをしていたはずなのに、家への帰り道ごと全部忘れちゃった」
アハハ、と笑う。
乾いた笑いはすぐ引っ込められて、気まずい沈黙が落ちる。
しかし次の瞬間、その気まずい沈黙は全て吹き飛ぶ。
「じゃあ、今のお前にとって一番大事なものってなんなんだ? 見逃してもらえたそれを教えてくれよ、あの時の無知なお嬢ちゃん」
急激に熱くなる顔。
「いやあ、すっかり忘れていて悪かったな。素顔を見たときから思い出してはいたんだが」
勢いよくバーレスクのあぐらの中から立ち上がると、市香はバーレスクを睨みつけながら最大音量で怒鳴りつけた。
「言わない!!」
あまりの音量に一瞬顔をしかめ、すぐに鼻で笑う。
「怒鳴るなよ、俺がお前のことを忘れていたからって。で、なんで怒っているんだお前は。失ったものはなんだ?
「知らない!!」
「全く理解できないので教えてくれよ」
ドスドスと足音を立てて逃げる市香の後ろを、ポケットに手をつっこみ右から左からと位置を変えながら市香の顔を覗き込む。
我慢の限界に達した市香がバーレスクに殴りかかるのと、笑いが堪えきれなくなったバーレスクが市香を抱きしめるのは同時だった。
「なあ、市香。徐々に知っていこうぜ、お互いのことを」
これにて完結となります。
お付き合いありがとうございました。




