Chapter:0012
ちょっと長いです。
「逃げたか」
引きつった顔でそう言う市香。
誰かに言ったわけではないが、あの負けた日から数日はあまりの悔しさに眠ることができず、今もあまり眠れていない。そのせいで目の下にはクマをこしらえていた。
市香が苛つくのも無理はなかった。
あの襲撃事件から、早くも二ヶ月が経っているのだ。
その間、とんと音沙汰なし。
「私に恐れをなして逃げたな」
「…………」
市香がわざとそう言っているのはわかっているので、船員たちは誰も何も言わない。
この一ヶ月間で起こったことと言えば、同業者の殲滅が三隻だけ。いずれも市香の言うように一秒で決着がついた。そう、一秒でガレオン船が海の底へと沈んでいったのだ。それをまるで普通のことのようにやるものだから、船員たちを始めとしたバーレスク一行は自分たちのほうがおかしいのかと思ったほどだ。
そしてこの一ヶ月で、海賊の間に“非常に機嫌の悪いキツネがバーレスクの傘下にいる”と広まってしまい、誰も近寄ってこないので旅は実に快適であった。
「新たに契約し直したはいいものの、成功報酬五千万は高すぎたかあ?」
そう茶化した船員は、その日一日をマストの上で逆さに吊られて過ごす羽目になった。それほどに市香は苛立っている。
「イライラしたって仕方ないさ。あの感じだと、そのうち向こうから見つけてくれるだろう」
そう慰めるバーレスクに対し、市香は不満げに鼻を鳴らす。
「それを待っていたら、永遠にこっちが一歩後ろを行くことになるでしょう。あ、航路ずらして。右の方に船一個分」
「いやまあ、そらそうだけどよ……おーい、聞こえただろ。航路ずらせ」
「へいへい、わかりましたっと。またかよ~」
実際、バーレスクが本気で「見つけてくれるだろう」と楽観的になっているわけではないことは理解していた。
それでも謎の焦りに襲われ、市香は落ち着かない毎日を過ごしている。
「……あーあ、誰か攻めてこないかなあ」
「おいおい、腹いせに他の船を潰そうとするのはやめろ。なあにが“サイコキラー”じゃないだ。お前十分にその素質があるぞ」
「まあ、そう言いたくなるのもわかるってもんだぜ。他の船だってなかなか出てこねぇからなあ」
そう言って笑うのは、初契約の時にバーレスクの横にいた足の悪い男である。
海上での出会いというのはそう多いものではない。だが全くのゼロというわけではないので、海に出る者たちは保険として船守を雇う。
だが商船を襲う海賊、海賊に襲われる商船は話が別だ。ただの漁船とはわけが違う。
船の多いこの世界では、ほぼ毎週誰かしらの船とぶち当たるのが正常である。それなのに、バーレスクの船は最後の襲撃から三週間、どの船ともかち合っていない。
これは単に市香が事前回避しているだけだが、それがあまりにも静かに行われるので、船に乗っている者は市香が何かをしているなど気づかないのだ。
あのマーカー商社もそうだった。
自分たちが類まれなる幸運に見舞われており、船守はその恩恵を受けて楽をして大金を手に入れると思い込んでしまった。
あの時だって支払いが滞りなく終わり、市香がしっかりと仕事をしていれば、沈んでいたのはバーレスクの船だったはずである。
「…………」
しかし、影で働いていることを依頼人に言ったことはない。
お金をもらって契約をしている以上、自分がどれほど苦労して仕事をしているかをアピールするべきではないと考えているからだ。それが正解かどうかは別として。
だが実際、世界というのはアピールが上手い者が得をする仕組みとなっている。そういう意味で、市香は陸での仕事の評価の方が高い。あれは目に見えて結果が出るからだ。
とは言え、船守は船を守るのが仕事だ。そちらで本領発揮できなくては意味がない。それに加え、市香は隠すべきことを隠そうとしない。
どういうことかと言えば、協会は裏メニューとして裏の仕事を取り扱っているが、血なまぐさい仕事が多いので実行できる船守は少ないということだ。
つまり、その数少ない船守は有名になってしまう。だからこそ表の仕事に影響が出るとして名前を変えたり、痕跡を丁寧に消したりする者もいるが、市香は表の仕事で損をすることの方が多いので、名前を変えたり痕跡を消す必要はないと言われていた。
だから悪しき噂が立ったりしているが、市香はなるべく細かいことは気にしないことにしていた。
――とは言っても、許せないことくらいはある。それが“今”だ。
「楽なもんだな。毎日海眺めて飯食って寝て。たまーに仕事してるふうを装って航路をずらせと言うだけだ」
「ははは、違ぇねえ。船仕事を手伝ってくれてもいいんだぜ? どうせ暇だろう」
「まさかわざと仕事を引き伸ばして依頼料を上げる気じゃあねぇだろうなあ」
男たちは気安い性格の市香に対して冗談で言っているようだったが、その一言一言はしっかりと“市香の地雷”を踏み抜いていた。無駄に、そして変な方向に職人意識の高い市香の地雷を。
「わざと? 私が?」
「期間が延びれば依頼料も増えるんだろう?」
しっかりとやっているのに仕事の手を抜いていると思われるのだけは、どうしても我慢ならないのだ。たとえ自分が“仕事をこなしたぞ”とアピールをしていなかったとしても。
察して欲しいわけではない。そこには市香なりのこだわりがあったが、理解できる人間はあまりいないだろうこともわかっている。
だから最初だけは見逃すのだ。
「ねえ、訂正してもらえる? 仕事は手を抜かない主義なの。船守人生で一度も仕事の手を抜いたことはないわ」
「おお~、そりゃ悪かったな」
ニヤニヤと笑う男たちに、市香の怒りが蓄積されていく。
バーレスクはつまらなそうにそれを眺めているが、何かを言う気はなさそうだった。
まさかコイツも同じことを思っているのだろうか――そう思った瞬間、さらに怒りのボルテージが上がっていった。
「……OK、わかった。私の力がいらないのなら、ここで船を降りる」
「よし、こうしよう」
今まで黙っていたバーレスクがポンと手を打つ。
「キツネ殿は今から俺が良いと言うまで仕事をしなくていい」
「は?」
「さあ、陣牢を消せ」
市香にはバーレスクが何を言いたいのかわかった。
それでもそれはあまりにも危険で、なかなかすぐには了承できるものでもない。
「あのねぇ、一応契約があるのだけど」
「これは俺の実験だから気にしなくていい。さ、遠慮なくはずせよ」
ひとつ深いため息をつくと、市香は言われたとおりに海中に張り巡らせた陣牢を消す。
船員たちはそれぞれが肩をすくめたりして、興が削がれたように散っていった。
事が起こったのは、その三日後の夜だ。
「敵襲ー!! 敵襲ー!!」
闇夜にその言葉が響き渡るだいぶ前から、市香は目を覚ましていた。
穏やかな波はこれから戦火がせまるとは思えないほどで、どこか現実離れした気持ちにさせる。
「思ったより見つかったのが早かったなあ」
市香のレーダーに引っかかったそれは、そこそこ名の通った海賊船――ローレイスター号。
それはまっすぐこちらに向かってきており、一瞬航路をずらした。しかし、すれ違う航路を行く船は気づいたのだろう。敵影にキツネの陣牢が見当たらないと。
つまりそれは、今なら倒すチャンスがあるかもしれないということ。
世間は未だバーレスクの船にはキツネがいるという認識なので、無事に船を落としたあかつきには“キツネの乗った船を落した”として名を馳せることができるのではと考えたようだった。
「大砲持ってこい!!」
「火をたけ!!」
「狙撃手並べ!!」
男共の怒声が聞こえる中、市香は大きなため息をついた。
「気が進まないけど見学しに行くか」
そう言って外していたマントを羽織ると、与えられた一室から出たのだった。
+ + + + +
「市香」
甲板に出て声をかけられたので振り向けば、そこには樽の上に座る楽しそうな表情を浮かべたバーレスクがいた。
「いつから気づいていた」
「三日前の昼過ぎからこちら方面に来ていたのは知っていたけど」
その一言に甲板は静まり返り、異様な空気が渦巻いていく。
「一度航路を変更して、そのあとこちらに向かってきたことも。あと、それがローレイスター号であることも」
それを聞いた船員の一人が目をむき、市香に怒鳴った。
「なんで言わねぇんだ!!」
「だってあなたのボスが仕事をしなくていいと言うんだもの。役立たずの私にできることなんかないわ。そうでしょう?」
静まり返った船員たちはようやくバーレスクの言いたいことを理解した。
このキツネは、今までずっと遥か彼方にいる船の位置を感知していたのかと。時折航路を少しずらせと言っていたのは、何も仕事をしているふうを装っているのではなく、本当に敵がいたのかと。
そしてそれを理解させるために、わざと仕事をさせなかったのだ。
しかしそれはわからなくて当然だ。世の全てを探したとて、市香ほど詳細を――それも遥か彼方まで察知することのできる船守などいない。
「さあ、行こうか。久々の戦争だ」
楽しげに笑うバーレスクは、市香に「そこで見ていろ」と指示を出すと帆先へ向かう。
「なあ、船守殿。我らの戦いっぷりを見ていてくれよ。驚くぜ?」
そのセリフに市香の顔がゆがむ。
なるほど、どうもこの男は船員たちに知らしめるためだけに市香をサボらせているわけではなさそうだと。




