第002話 初めてのキャッチボール
幼稚園の卒園式が終わった日の夜、私、永嶺紗友は不思議な体験をした。それはとてつもなく長いリアルな夢だった。
でも不思議なことにそれを単なる夢だとは思えず、私の前世だという確信があった。現に私の頭はそれを受け入れると、僅か六歳に過ぎない子供とは思えない思考力を発揮した。子供とは思えない、と感じる時点で私はもう子供じゃないのかもしれない。
現に夢の中、前世の私は三十歳前の男だった。しかも野球のスタープレイヤー。私は名前すら聞いたことがないから、お父さんに尋ねてみよう。
朝食の席でお父さんに質問する。
「お父さん、鳴沢恵吾って知ってる?」
「えっ、急にどうしたんだい紗友」
「知らないの……?」
もし知らなかったら記憶が統合された今、ちょっとショックを受けちゃいそう。
「いや、勿論知ってはいるとも。国民的な野球選手だった。紗友が生まれる前の年に事故で亡くなったんだよ」
「そうなんだ」
やっぱり前世の私は死んだのかぁ。それも記憶が正しければ選手としてのピークに。
「母さん、テレビで鳴沢恵吾特集でもやってたっけ?」
「してないと思うわ。きっとお隣のユウくんが野球好きだから、聞いたんじゃない?」
不思議そうに言うお父さんに、お母さんが私にとって都合のいい推測を口にしていた。
その発言で気付いて、私は永嶺紗友としての記憶を意識する。すると確かにお隣には祐一くんという幼稚園児ながらに野球を好む仲良しさんがいるのだった。一緒に野球できるといいな。
朝ごはんを食べ終えて、お母さんと二人で、会社に行くお父さんを見送る。小学校の入学式まで私は春休みみたいなものだ。
そこで私はお母さんにお願いして、お隣の家の祐一くんと近所の公園に遊びに行くことにした。この身体でもキャッチボールしてみたいんだ。
お母さんが祐一くんのお母さんに電話すると、すぐに祐一くんが来てくれた。手にはゴム製の野球用ボールがある。
それだけで笑顔が溢れてしまう私。早速二人で公園に行く。
公園についていざキャッチボール、というところで祐一くんが不満そうに言う。
「なー、おれ手加減した方がいいの?」
そっか、私は昨日まで大人しい普通の女の子だったから、祐一くんが本気で投げたら捕れないと思われてるんだ。
「本気で投げていーよー! 私ちゃんと捕るから!」
私がそう言うと、祐一くんは幼いながらに振りかぶって懸命にボールを投げた。
しかしそこはあくまで六歳児。連動性の無い非効率的なフォームから投げ出されたボールの軌道は山なりで、しかも私の前でワンバウンドしてから届いた。ハーフバウンド気味だったボールを難なく両手で捕る。
「おー! ほんとにちゃんと捕ったじゃん! すげー」
驚いた様子で口にする。
しかしこれくらいで驚いてもらっては困るのだ。
「私も本気で投げていいー?」
そう尋ねると、祐一くんは呆れた様子で答える。
「いいに決まってんじゃん。女子のボールなんて捕れないわけねーし!」
その返事を聞いて、私は前世と今の身体の違いを意識しつつ、ノーワインドアップで足から腕まで身体全体を使って投げた。
そのボールは重力に負けて落ちるものの、山なりの軌道ではなかったし、祐一くんより遥かにスピードも出ていた。自信満々だった祐一くんも手に当てて弾くのが精一杯だった程だ。
しかし私としては、野球用とはいえゴム製のボールだしこんなものか、と思っていると、祐一くんが驚いた様子で叫んだ。
「すげー! めっちゃ速かった! 紗友もっと投げて!」
どうやら感動しつつも、捕れなかった悔しさがあるよう。それから二十球くらい投げると、祐一くんはなんとか慣れて捕球できるようになった。それも私のコントロールの良さがあってこそだけどね。
お昼になって公園から帰る時、お互いの家のすぐ前で祐一くんが言った。
「俺、小学校入ったら野球やるんだ。グラブとバットも買ってくれるって父さんが言ってた!」
おお、なんて羨ましい。そう思いつつ、すごいねーと返すと「紗友の方が上手いんだから、紗友もやればいいじゃん!」と言われた。うーん、今後の身の振り方を考えないとだね。
家に帰って手洗いうがいを済ませた私はお母さんと一緒に昼食を食べた。会話はあったけれど私は心ここにあらずであまり内容を覚えていない。
その後も私は考え続けていた。これは鳴沢恵吾だった永嶺紗友、つまり私にとってとてつもないチャンスだ。
というのも、二〇一〇年に二チーム制で復活した女子プロ野球は、二〇三一年現在では一リーグ六チームとプロ野球には及ばないものの充分な球団数がある。更に世界大会でも日本代表が六連覇一度、五連覇一度と猛烈な強さを誇っている。そのような実績もあってか、今では日本の国民的スポーツの一つに数えられているのである。
つまり、私って野球をやれば将来有望なのでは。早速今晩お父さんお母さんに言ってみよう。
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