第93話 仏の顔も三度(後編)
これまで幾度となくオーゼスの侵略を跳ね除け、いつしか人々にとって抵抗のシンボルとなっていた、地球統一連合軍メテオメイル部隊“ヴァルクス”。
しかし今――――そのヴァルクスは、謎の第三勢力“エウドクソス”の刺客、コードκ(カッパ)のギルタブが制圧。
乗機の自爆を前面に押し出した彼の脅迫によって、部隊そのものが当面の交戦禁止を余儀なくされていた。
数日にも及ぶ協議の末、連合政府大統領が直々に下した苦渋の決断である。
犠牲を許容しておこぼれの勝利を頂戴するか、ラニアケアを航行不能にして犠牲を増やすか。
結局、そのあまりにも悪辣な二択から逃れることはできなかったというわけだ。
かくして現在のヴァルクスは、事実上、彼らエウドクソスの支配下に置かれたといってもいい。
だが、もちろんその屈服は、表面的なものに過ぎない。
少なくともヴァルクスのメンバーは、エウドクソスの手からラニアケアを奪回するため、独自に行動を起こしていた。
今回の件は、まだ市民には伏せられているものの、オーゼスの侵略が続く限り、いつか必ず明るみに出ることになる。
そうなれば、“正義の味方”の称号も、寄せられた期待と信頼も、二度とヴァルクスに戻ることはないだろう。
しかし、逆をいえば、まだ確かにここにある。
早い話が、次にオーゼスが現れる前に片がつけば、全てが丸く収まるのだ。
「まだタイムリミットまでには時間がある。それまでに絶対、奴には吠え面をかかせてやる……!」
危機的状況とは裏腹に、穏やかな快晴が広がる空の下。
瞬は、我が物顔で敷地内を闊歩するギルタブに向けて、遠巻きながら鋭く睨んでみせる。
泣き寝入りという言葉からは最も遠い、往生際の悪さの化身にとって、この状況はむしろ愉快ですらあった。
やり返す企てを立てている最中は、怒りと冷静さが程よく入り混じって、心身が異様に活性化するものだ。
この状況を覆して見せれば、かの“先生”とやらも盛大に泡を食うことだろう。
「おい、どこに行くんだよ風岩瞬」
瞬の姿に気付いたギルタブが、小走りで駆け寄ってくる。
やむを得ず、この青年の島内滞在を許すことになってから、はや四日。
とにかく他人に、とりわけメテオメイルのパイロットに興味を示し、暇さえあれば付きまとうというのが彼の日課であった。
メアラほどのしつこさはないが、そのにやついた表情もあって、鬱陶しさでは大きく上回る。
当然ではあるが、誰も、ろくな返答をしたためしがない。
拘留もできず、実質的に野放しの待遇となっているギルタブには、これくらいしかできる反抗はないからだ。
「外出だよ、外出。非番なんでな。これからヘリで送ってもらうところだ」
ぼかしつつも、瞬は珍しくまともに応じた。
自分に注意を引きつける目的もあったが、正直なところは、そろそろ我慢の限界だったからだ。
瞬にとっての無視は無抵抗と同義で、ともすれば無視された相手以上にストレスを溜め込んでしまうことがある。
言い返さなければ気が済まない性分であり、年頃なのだ。
「へえ……何をやるつもりなんだ?」
「旅行ついでの探しものだな」
「気になるね、詳しく聞かせろよ」
「あんたらの秘密、何か一つと交換ならいいぜ」
瞬は、肩に回されようとしたギルタブの腕を払い除けながら、答えた。
敵愾心より前に、まず純粋に気味が悪いからだ。
ギルタブの実年齢は、低く見積もっても自分より一回りは上のはずである。
なのに言動も立ち振る舞いも、瞬達中学生のそれと大差ないどころか、むしろ幼くさえ見える。
そのギャップが、底知れぬ生理的嫌悪感を瞬に抱かせている要因だ。
「それは困る。喋っていいものなら、俺達の機体のモチーフってのがあるけど……」
「仏様だろ。釈迦に菩薩に明王」
「へえ、さすがはジャパニーズってところか。全部正解だ」
「……そんなヘラヘラした顔ができるのも、今のうちだけだぜ」
エアポートを目前にして、瞬は背後のギルタブに冷たく言い放った。
これ以上は付いてくるなという合図でもあったし、事実上の宣戦布告である。
そこでやっとギルタブも察したのか、それまでは口の端から漏らし続けているだけだった笑声を、一気に吐き出した。
心から馬鹿にされているような気がして、これはこれで不快だった。
「ヴァルクスもラニアケアも、俺達から取り戻すってか……! いやあ……本当に面白いな、お前は。もしそうなったら、確かにヘラヘラじゃ済まないな。拍手喝采の大爆笑ものだ」
「止めたいなら、あれでヘリを叩き落とすんだな」
瞬は、エアポートの最奥に座するメテオメイル、ヴェンデリーネを顎で指しながら言った。
戦闘能力は未知数だが、自爆だけに特化していると考えるのは軽率だろう。
むしろ、過去の二機以上に厄介な能力を備えている可能性のほうが高い。
敵地に長期間待機し、あらゆる不測の事態に対処するという役割は、とても一芸だけではこなせないからだ。
「出入りは自由にさせろっていうのが“先生”の指示だから、それはできないな。せいぜい好きにやってくれよ」
「最初からそのつもりだぜ」
オーゼスの侵攻ペースは、井原崎との会談以降、最低でも一週間ほどの間隔が空くようになっているが、所詮は不定期だ。
時間的猶予は存在しないに等しく、四日目でようやく行動開始というのも、遅いくらいだった。
とにもかくにも、急がねばならない。
瞬はすぐさまヘリに乗り込んで、パイロットに出発を促した。
「どうしたんです? その右頬の痣は……」
「うるせー」
瞬がラニアケアを離れたのと、ほぼ同時刻のシミュレータールーム。
先に室内で待機していた優の脇を素早く通り抜け、轟は筐体の入り口に繋がる階段を登り始めた。
この痣を見られるのは、轟にとって恥辱の極みだった。
未だに残る鈍い痛みすらも、情動の熱が全て飲み込んでしまう。
「戦闘中に、どこかに打ち付けた……にしては場所が妙ですよね。風岩君と喧嘩でもしたんですか?」
「うるせーっつってんだろーが」
「なるほど、それ以外の方とですか。ひょっとすると、ここ数日訓練が中止になっていた理由と関係があるんですかねえ」
「黙らねーとブチのめすぞ、クソ霧島……!」
「よくわかりました。……ブチのめされたんですね。元凶となった、その誰かしらに」
「っ!!!」
気づけば轟は、相変わらず身動きの取れない優の顔面に、全力の拳を叩き込んでいた。
階段を駆け下りたのか、飛び降りたのか。
そんなことすら思い出せないくらい、頭に血が上っていた。
堪忍袋の緒が切れたという事実さえ、たった今気付いたばかりだ。
優が掘り返したのは、それほどまでに無念極まる、今なお受け入れがたい出来事だった。
他人がその話題に触れることを、我慢できるわけがなかった。
「腰の捻りが利いてませんね。駄目駄目です」
優は極めて残念そうな声色で、轟の一撃を、そう論評する。
論評できるほどに、平静を保っていた。
命中の瞬間に首を回すことで、浴びせられた拳の威力を殺しきっていたのだ。
いや、正確には少し異なる。
「ケルケイムさんの一発は、もっと効きましたよ。彼は激昂しても、正面から拳を打ち込むことだけは忘れませんでしたからね」
「くっ……!」
まさに優が説明するとおりだった。
優の超人的な護身技術を以てしても、今の状態で、そうまで威力を軽減できる道理はない。
轟自身の動作が拙かったことが、最大の要因だった。
風岩家での修行と、優直々の指導――――これまで培った技術を何も活かせていない、怒りに任せた、ただの横殴り。
そんな、誰にでもできるようなパンチを、轟は放ってしまったのだ。
「余計な時間を食っちまった……。とっとと始めるぞ」
「乱れた心のまま研鑽を積んでも、ひどく効率の悪い身体トレーニングにしかなりませんよ」
「テメー……!」
「今の君には、何を教えたところで頭に入らないでしょうし、でしたら僕が出る幕はありません。一人で勝手に頑張ってください」
たまらず、轟はもう一度優を殴りかけるが、その腕は振り上げたところから微動だにしない。
優の言い分が、この上ない正論であることを、心の奥底では理解しているからだ。
汚点をひた隠しにしようとして癇癪を起こすなど、弱者の典型例だ。
そんな、最も忌み嫌うはずの存在に、轟はなりかけていたのだ。
「よろしかったら、どうです? 何があったのかを僕に打ち明けてみるというのは」
「ああ……!?」
「どうせ自分の中に溜め込んだままなんでしょう、そのときの悔しさを。それではストレスが逃げていきませんよ」
またも正論を投げかけられ、轟は押し黙るしかなかった。
いったいどうしてこの痣が付いたのか、瞬やケルケイムにも詳しいことは話していない。
その二人とて、何となく察しはついているだろうが、だからといって、自分の口から語ることは憚られた。
今回の場合は、事実を羅列することが、そのまま心中の吐露に繋がるからだ。
仲間に対して、わざわざ自分の弱さを見せびらかすような真似は、轟には到底できなかった。
だが、それではいつまでも後悔が心の中で燻ったままだ。
「だけど、それでも俺は……!」
「強く見せたいというちっぽけなプライドのために、強くなりたいという本願を捨てる気ですか、あなたは」
「ちっ……」
これで三発目。
異論を挟む余地もない、完全なノックアウトだった。
それほどまでに、優の拳は歪みなく、美しい一本の線を描いていた。
逆に、そう思えるくらい、今の自分は“正しき道”から外れてしまっているともいえる。
轟は観念して、近くにあったパイプ椅子を開いて、どっかりと腰を落ち着けた。
「……言うだけだからな」
「もちろん、聞くだけですよ。残念ながら、僕は他人を諭せるほど人生経験が豊富ではありませんので」
「……負けたんだよ。負けちゃいけない奴に、負けちゃいけないことで」
焼け付くような喉の熱さに耐え、轟はようやく、三日前に起きた出来事を腹の中から引きずり出すことに成功した。
ただそれだけで、目尻から何かが零れ落ちそうになる、屈辱の記憶だ。
「あの女を、どうしやがった」
轟は、ドアを半ば蹴破るようにして、来島者用に設けられたゲストハウスの一室に踏み込んだ。
二十四畳近くはあろうか、最高グレードの隊員用個室よりもなお高級感のあるリビング。
その片隅でソファに寝そべり、悠々とコミック本を読みふけっているのは、金髪碧眼の青年――――ギルタブだ。
ギルタブの脅迫に従うかどうか、その会議を連合軍上層部と政府閣僚が行っている間。
場合によっては更に長期間。
彼はこの、本来は要人用に作られた、贅沢な空間で生活させることになっていた。
ケルケイムが決めたのではなく、元々ラニアケアの施設類を把握していたギルタブが、勝手に申し出た結果なのだが。
「ああ、悪い。聞いてなかった。……何? もう話し合いが終わったとか?」
熱中しているのが見て取れるほどページを深く覗き込んだギルタブが、おざなりに返答する。
なので轟は、飲みかけの缶ジュースと袋の空いたスナック菓子が幾つも乗ったテーブルを、爪先でひっくり返した。
どこぞの有名デザイナーが設計したであろう、洒落てS字型に作られたそれは、やかましく音を立てながら床を転がる。
「北沢轟、正確は粗暴で野蛮、イライラするとすぐ物に当たる……データどおりの奴だな」
「あの女をどうしたかって、聞いてんだぜ」
轟は、足元に転がってきたジュースの缶を、ギルタブの頭部側面すれすれを通るように蹴り飛ばした。
半端に中身が入っていたために、ほんの僅かだが、その飛沫がギルタブの服にも降りかかる。
だが、それでもギルタブの意識はページをめくる方に向いていた。
「あの女って、誰だっけ?」
「とぼけてんじゃねーぞ。ジュバの野郎が連れ去っていった、あの女だ」
「ああ、ジュバが連れ帰ってきた奴ね。あいつのコードは確か……」
「そんなことは、どうだっていい。テメーが喋るのは、あいつが今どこで何をやってんのか、その二つだけだ……!」
轟はジュバの胸ぐらを掴み上げながら、吠えた。
突如として豹変したセリアが、ヴィグディスと共にヴァルクスを去ってから、もう半月。
最初の内は、心を押し潰されそうなほどの激しい後悔に苛まれてきた。
セリア・アーリアルという少女に内包された謎を、何一つ解き明かせなかったどころか、ほとんどの謎を謎として認識すらできていなかったからだ。
だが、日が経つごとに、自分の失態を責める気すらも失せてきた。
代わりに轟の心中で膨れ上がったのは、言いようのない不安。
セリアは無事でいるだろうか、自分は大人達がエウドクソスについて調べ上げるのを待つだけでいいのか、のらりくらりとしている間に事態がより最悪の方向へ発展しないか――――
そんな具体性のある心配ではなく、ただただセリアがいないことが心細いという、赤ん坊が抱くような恐怖だけが増大していった。
その極めて本能的な焦りが、轟を、暴力を伴った詰問に駆り立てたわけである。
「どっちも、俺は知らないね。“優等生”の中ですら、ろくに情報が共有されてないんだ。あの子は別カテゴリーの生徒みたいだから、尚更さ」
軽く上半身が浮いた体勢になってもなお、ギルタブは手にしたコミック本から、手も視線も離すことはなかった。
器用に片手の指だけでページをめくりつつ、次の展開に目を輝かせる。
「ただ……あの子が“何者か”っていうのは知ってるよ。俺の立場上、概要くらいは把握しておかなきゃならなくてさ」
「言え」
「言えないね」
「だったら、言いたくなるようにしてやる」
轟は躊躇いなく、ギルタブを掴んだままの腕を真横に振り払った。
鍛え抜かれた肉体が生み出す凄まじい膂力は、自分より十キログラム近くは重いであろうギルタブを、数メートルと転がすに至った。
しかし、そのまま窓ガラスに激突して心地の良い破砕音が鳴り響くかせると思いきや、ギルタブは勢いを利用してゆらりと立ち上がる。
まるで猫のようにしなやかな体捌きだった。
「力づくでか? 無理だね」
ソファの上にコミック本を投げ込みつつ、ギルタブは喉を鳴らしてみせる。
やっと自分に向けられた、工芸品のような無機質さを感じさせる双眸に、轟は睨み返すことで対抗した。
空気が張り詰めていく過程を生身で味わうのは久しい、が、勘は衰えていない。
人機一体を実現するS3搭載型メテオメイルを操っている以上は、機械を介さず戦っているのと、感覚としてはほとんど変わらないからだ。
肉弾戦を主体とするバウショックは、事更にだ。
「だったら誓え。俺がテメーをブチのめしたら、今の話をゲロるとよ」
あのセリアが、エウドクソスの中でどのような立場にあるのか――――
それを聞き出したところでセリアとの再会が近づくわけではなかったが、しかし十分に価値のある情報だ。
それさえ知ることができれば、果てしない暗闇の中を彷徨っているような、この心のざわつきは幾らか静まる。
「じゃあお前にも誓ってもらおうかな。俺がお前に勝ったら、金輪際俺に質問しないことを。人と話すのは嫌いじゃないが、教えられないものを教えろと毎度しつこく突っかかってこられても、困るだろ?」
言って、ギルタブは軽めにファイティングポーズを取る。
フォームの移行は自然で素早く、さっきの動きといい、相当に場数を踏んでいることは明らかだった。
喧嘩慣れしている轟でなくとも、ズブの素人と誤認することはないだろう。
「喧嘩は腕っ節の優劣をきっちり決めるためにあるもんだ。そのくらいの条件は、当然だろ」
「いいね……! じゃあ始めようか。負けたからって、腹いせにヴェンデリーネを爆発させるだなんて仕返しはしないぜ。安心してかかってこいよ、北沢轟」
「言ったな?」
轟は、わざと右足で床を打ち鳴らして、一歩踏み込む。
それが、開戦の合図だった。
回り込むこともなく、歩調を変えることもなく。
轟はそのまま、堂々と正面からギルタブに接近する。
体格および、年齢差を加味した身体能力はギルタブに分があるものの、それでも構わなかった。
真正面からの殴り合いでは、ただの一度も負けたことがないからだ。
素手の喧嘩において、最も勝敗を左右する要素は、根性。
筋力と技巧の差は、激痛に耐える精神力さえあれば乗り越えることが可能だ。
(何かしらの格闘術の心得はあるみてーだが、達人の風格はねー。確実に、倒せる……!)
故に、我慢比べにおいては絶対の自信を持つ轟にとって、ギルタブは全く脅威として映らなかった。
いかなる想定外の小細工が繰り出されようとも、今の轟には、それら全てを凌ぐだけの覚悟がある。
骨の一、二本がへし折れようとも、それで少しでもセリアに迫ることができるのなら、安い買い物だった。
「さあて――――」
まずは土手っ腹に一撃をくれてやろうかと、轟は右腕を引き絞った。
しかし――――
その瞬間、ギルタブの右脚が消える。
咄嗟に左腕を振り上げ、頭部を守ることができたのは、実戦経験の賜物だった。
直後、盛大な破裂音と共に、ギルタブの爪先が翳した前腕を激しく打つ。
反射的な動作でなければ、まず間に合わない速度だ。
正確にこめかみを狙った蹴撃、防ぎ損ねていれば確実に意識を狩られていただろう。
「おっ、やるじゃん。一撃ノックダウンを狙ったつもりだったんだけどな」
瞬時にバックステップを取りながら、ギルタブがせせら笑う。
素早さも、遠慮のなさも、想像よりやや上といったところか。
轟はすぐさま、認識の脳内補正を行い、より神経を収縮させる。
「……それも“先生”とやらの教育で身につけたもんなのかよ」
「まあね。“優等生”は、一人で何でもこなせるように作られてるんだ。あの子みたいなただの頭でっかちじゃあ、到底務まらない仕事さ」
今度は、ギルタブの側から距離を詰めてくる。
軽い助走の後、強く床を蹴って。
その脚力は凄まじく、四メートル近く離れた場所から、ただの一歩で轟の間合いに入ってくるほどだった。
(バカが……!)
先の一撃で自身の有利を確信したのだろうが、そう思って強気に攻めてくる輩こそ、轟にとっては絶好のカモだった。
敵の間合いに入るまでの歩数が短ければ短くなるごとに、攻撃の予備動作を途中修正することが難しくなる。
つまり、今――――こちらも一歩前に出れば、ギルタブの計算を完全に狂わせられるということだ。
轟は迷うことなく、体勢を低くして、頭から全身を投げ出した。
大きく反らされた右脚を見るに、ギルタブは着地と同時に蹴りを放つ気でいたのだろうが、これで全てご破産だ。
「馬鹿だな、お前は」
「っ……!?」
だが、現実に目論見が崩れ去ったのは、轟の方だった。
ギルタブの笑声と共に、世界が一気に反転する。
そして、背中から床に叩きつけられる。
僅かも軽減できなかった衝撃に、脊椎が悲鳴を上げ、轟の肉体はしばし硬直する。
「お……あ……!」
脳機能の大半が、運動中枢の一刻も早い回復に努めている中。
数パーセントだけ使用を許された思考で、轟は、この一瞬に何が起こったのかを改めて再生してみる。
見えては、いたのだ。
(あの野郎……!)
渾身の力を込めた自分の頭突きが、ギルタブの腹部に突き刺さった感触はあった。
だが、問題はそこからだった。
既に着地を果たしていたギルタブは、轟の突進を利用して自分にブレーキをかけたばかりか、そのまま轟の胴体を掴み、フロント・スープレックスの要領で背後に叩きつけたのだ。
並の人間がやったところで、投げる前に自分が押し倒されるだけ――――よほど強靭な足腰をしていなければ、不可能な芸当だ。
何年もの間、ひたすら肉体を鍛え上げてきた轟でさえ、驚嘆するしかなかった。
「さっきのが空手、今のがレスリング。“先生”の指導方針的には、この二つさえ習得してれば、俺達の体なら十分らしい」
床板を砕かんばかりの勢いで繰り出された踵落としを、轟は直前に自由を取り戻した体でどうにか避けることに成功した。
「やってくれんじゃ、ねーかよ!」
轟は起き上がり、間髪入れずに殴りにかかる。
投げられるのも厄介だが、だからといって受け身に回るのも危険だった。
このギルタブは、戦闘スタイルが自分とよく似ている。
持ち前の身体能力で強引に攻めていくタイプだ。
その上で、自分より一段上のパワーと技術を持っている。
せめて型にはまっていてくれれば、力押しで攻略できるのだが、同類であるために完全な上位互換になってしまっている。
「遅いなあ、お前」
先に打ち込んだのは轟のはずなのに、先制したのはギルタブのそれだった。
化け物じみた威力の正拳突きが、みぞおちを深く抉る。
その衝撃は、これまでに受けてきたどんな重い拳よりも、轟の脳髄を痺れさせた。
意識が耐えられたところで、肉体の動きが毎度止まってしまっては、戦いにならない。
「こんなことがあってたまるかよ……! 生身の喧嘩じゃ、俺は誰にも……」
もんどり打ちたくなるような衝動を堪え、轟は前傾姿勢を維持する。
優に惨敗を喫しようと、サミュエルの守りを崩せずとも。
それでも、体一つの勝負では未だ無敗という誇りが、轟には残されていた。
残されているからこそ、何度でも立ち上がることができた。
しかし今、ギルタブの圧倒的なフィジカルを前に、その誇りさえも砕かれようとしている。
「もういいだろ、やめようぜ。誰がどう見たって俺の勝ちだ」
「ふざけんな……! 絶対に、勝たなきゃならねーんだよ……勝って、テメーから、あいつのことを聞き出す……!」
他の面々と違って、学もなく、不器用で、頭の巡りが緩慢な轟には、“力”しか取り柄がない。
逆をいえば、その一点で、瞬も、連奈も、そして何よりセリアも、自分に価値を見出してくれている。
唯一の見どころを失ってしまえば、もう見向きもされない。
仮に事態が上手く運んで、セリアを連れ帰ることができたとして、それでは駄目なのだ。
この喧嘩の敗北には、二度とギルタブへの質問が許されないこと以上の絶望が待っているのだ。
「そもそもさ、何でそんなにムキになってんだ、お前。俺もそうだけど、表の任務に回される“生徒”なんて、大した情報は持たされてないぜ?」
「テメーには関係のねーことだ!」
「ほう、余計に気になってきたな」
受け答えをしながらも、ギルタブは絶え間なく放たれる轟の拳を巧みに躱し続けた。
不規則に織り交ぜたローキックすらも、的確に足の付け根を蹴り飛ばされ、逆に轟の脚が痛めつける始末だ。
そして、幾十度目かの拳が空振りし、僅かに体勢を崩したところへ追撃の膝蹴りが炸裂。
激しく上腹を穿たれ、轟は、急速にこみ上げてくる胃液を床にぶちまける羽目になった。
「あの子じゃないといけない理由を聞かせてくれよ、北沢轟。俺、“優等生”だからさ。自分じゃ不適格と言われると、すっきりしないんだ」
「会って、話して、納得したいだけだ」
無様にも口元を拭いながら、それでも闘志の炎を絶やすことなく、轟はゆっくりと身を起こした。
まだ、決着はついていない。
ここからが本番だという気概さえある。
「……別にな、あいつがテメーらのお仲間として、俺達への嫌がらせに精を出してーと願ってるんなら、それで構いやしねーんだよ。だけど、どうもそんな風には見えねーから、本当のところを聞きてーんだ。本人の口からな」
今の解答には、大きな嘘が含まれていた。
セリア自身からそう告げられたとしても、納得など絶対にできない。
まず、あの日見たセリアが、彼女の本性だというところから轟は信じていない。
彼女がラニアケアで過ごした五ヶ月の中には、“メインオペレーターのセリア・アーリアル”を演じているだけでは、けして出てくるはずのない言葉もあったからだ。
「なるほど、あの子に裏切られたって現実が、未だに受け入れられないってわけか。だったら“先生”に確認してやろうか? そっちの方が確実だぜ」
「テメーらを躾けてる張本人のお墨付きなんざ……」
よろよろと、息も絶え絶えに前進して。
轟はギルタブまであと一歩という距離にまで戻ってきた。
しかし、疲弊は激しく、両足に込める力すらも消え失せ、とうとう膝をつく――――
「お……?」
という迫真のフェイントで、ギルタブの鋭敏な警戒心に針ほどの穴を開けた。
「何の証拠にもなりはしねーんだよ!」
爆発する怒りを、右腕一本に全て注ぎ込み、轟は前のめりになりながら最後の一撃を放つ。
狙いを定めている余裕はなかった。
ただ当たれと願って、体を宙に預ける。
そして――――
目論見どおり、ギルタブの反応は遅れ、その拳は確かに脇腹を打った。
それは間違いようのない事実だ。
もっとも、クロスカウンター気味に繰り出された、ギルタブの殴打を右頬に浴びながら。
ひいては、殴り飛ばされ、仰け反りながら、だが。
「か……っ」
「勝負ありだな。これで落ち着いてマンガが読める」
床に倒れ伏し、意識を失うまでの、コンマ数秒という時間。
轟は、心中で怨嗟の叫びを上げる。
こうまで徹底的に痛めつけてきたギルタブにではなく、自分自身にだ。
言い訳ではなく、事実として、今の自分は本調子ではなかった。
ガタが来てしまっている。
日常の中からセリアが欠けた影響が、いよいよ顕在化し始めたのだ。
知らず知らずのうちに、それだけ強く依存していたということだ。
否、依存どころか、もはや現在の北沢轟を規定する上での基準ですらある。
そんな、支柱のような存在がいなくなった結果が、この体たらく。
拳を振りかざして孤独を紛らわしていた頃にまで、自分のバージョンが巻き戻ってしまった。
(こんなにも、こんなにも弱かったのか、俺は……!)
誰の耳にも入らない呟きとはいえ、それ以上の弱音を吐かずに済んだのは、この状況おいて唯一の救いだった。




