第83話 別れの雨(その4)
(二人目の“優等生”か……)
黙々と歩き続けるゼドラの視線は、前方ではなく、手にした新聞の一面記事に向けられていた。
その口元は、普段以上に固く結ばれている。
紙面に書かれていたのは、数日前の出来事――――謎のメテオメイルによるラニアケアの襲撃事件だ。
基地施設自体の被害は軽微であったものの、屋外に出ていた隊員の一人が被拉致。
その前日に連敗を喫した挙句、パイロットの一人がMIAとなっているヴァルクスにとっては、踏んだり蹴ったりの結果である。
(“先生”からの事前連絡は何もなかったが、やはり通信が困難になりつつあるのだろうか)
市民の混乱を避けるためか、ヴァルプルガの件と同様、あたかもオーゼスの仕業であるかのように報じられてはいる。
だが、オーゼスに身を置き、侵略のスケジュールを把握しているゼドラにとっては、この件に彼らが一切関与していないと断言できた。
ほぼ確実に、ゼドラ本来の所属先である、エウドクソスの仕業だ。
公表されている外観の特徴も、ヴァルプルガ系列のカテゴリー“XXXシリーズ”のそれと一致する。
(しかし二度も連合を挑発した以上、計画の主部が本格的に動いていることは確かだ。だというのに、私は……)
ゼドラは、自分が相変わらず蚊帳の外に置かれている現状に、僅かばかりの焦りを覚えていた。
組織の指導者である“先生”は、特に有能な一部の“生徒”に対し、より苛烈な教化を実施――――その末に完成した傑作を指して“優等生”と呼んでいる。
“優等生”の数は、ゼドラが知る限り、全部で四人。
それぞれ、蠍座の二等星を関したコードネームが与えられている。
既に破れた男が、コードβ“アクラブ”。
他ならぬゼドラ自身も、コードθ“サルガス”を賜る、“優等生”の一員だ。
エウドクソス製メテオメイルのパイロットには、“優等生”が順次登用されることになっている。
そのため、いずれは自分もという淡い期待が過去のゼドラにはあったものだ。
だがゼドラに下されたオーゼス潜入の指示は、一向に解除される兆しがない。
その間にも、事態は大きく進展していく。
果たして今回出撃することになったのは、コードδか、コードκか。
全て“先生”の思惑通りということであれば納得するしかなかったが、その確認すら取れないという状況がゼドラを不安にさせていた。
「だからといって、こちらから接触を試みるのは最も愚かな行為だ。今は任務を続行するしかないか……」
ゼドラの呟きは、本人の意に反して、口から漏れ出る。
しかし、第三者に盗み聞かれる可能性は極めて希薄であった。
これから訪問する家の住人を除いて、この数十ヘクタールにも及ぶ空間には、ただ一人の人間も存在しないからだ。
ここは、オーストラリア北部の高原地帯。
既にオーゼスが制圧した一エリアの内側なのだ。
(ジェルミ・アバーテもそうだが、彼も……B4もまた、とんでもないスタンドプレーをしてくれたものだ)
数分の後、ゼドラはようやく辿り着いた豪邸の門前でインターホンを鳴らす。
この辺りの地形は、ろくに人の手が入っておらず、自然そのままの起伏に富んでいた。
オーゼスの大型輸送機“アルギルベイスン”を着陸させたのは、八百メートルも離れた場所だ。
小型の航空機ならもう少し近くに降ろせるのだが、南極から無補給で往復することを考えれば、それらの使用は論外だった。
「どちら様?」
「そちらの方こそ、部外者だろう。用件があるのは君ではない、早くB4さんに代わってくれ」
「はいはい……」
ゼドラをディスプレイ越しに応対したのは、ここの家主――――とはいっても無断占拠だが――――であるB4ではなく、まだ年若い少女だった。
名前は三風連奈。
オーゼスとは事実上の敵対関係にある、地球統一連合軍の特別部隊“ヴァルクス”において、オルトクラウドのパイロットを担当している人物だ。
正しくは、だったというべきか。
彼女は、先の戦いで乗機を破壊された後、なんと自らの意思でB4に同行。
自らヴァルクスと袂を分かったのだ。
その上、B4もB4で、各機を回収したアルギルベイスンが南極に帰還する途中、オーストラリアに確保した別荘へ自分達を降ろすように要求。
事後報告をゼドラに任せ、連奈と共同生活を送っている始末であった。
「まったく……何を考えているんだ、あの人は」
外で遊び惚けること自体は他のメンバーもやっているが、今回は少し、訳が異なる。
いつもの我が儘と笑って済ませるわけにはいかなかった。
ゼドラが今日、B4の自称別荘を訪れたのは、彼の意思確認を行なうためでもあるのだ。
白髭によれば、普段は寛容にも程があるオーゼスの真のトップですら『事と次第によっては除籍も大いにあり得る』と発言しているとのことだ。
(それでも口封じをしろとまでは命じられなかったが……。この件に関しても、“先生”に要相談か)
ゼドラがアルギルベイスンの艇内で連奈と対面した、あの日。
B4は数時間前に出会ったばかりの連奈に、もう頭が上がらない様子だった。
異性の扱いには疎いゼドラだが、それでも骨抜きという概念だけは知っている。
そして連奈は、まだ年端もいかない少女ではあったが、そうしたことができる類の人間であるような気がしてならない。
ますます、心労が溜まっていく事案だった。
「……やあ」
しばらく経って、なんとも頼りなさげな中年の男が、玄関のドアを開けてゼドラを出迎える。
やや垂れ目がちの双眸。
寝癖で無秩序に跳ねる、色褪せたキャメルブロンドの短髪。
雑な剃り方のせいで常に数ミリは伸びた顎髭。
袖まくりをした、よれたワイシャツ。
痩躯というわけではないが、それなりにある背丈に反して、肉付きが些か物足りない体つき。
この、ひどくくたびれた風体をした人物こそがB4であり、他ならぬ彼の手によって、人類は総数のコンマ数パーセントを消し炭にされていた。
「ご注文通りの生活物資を、お届けに参りました。いつも通り、コンテナの搬出と運搬は既に始めています」
ゼドラは溜息をつくのを堪え、事務的に、そう通達する。
元々十二分に覇気のないB4の容貌だったが、今日は輪を掛けて緩んでいたからだ。
併せて、際限なく漏れ出ていた悲しいまでの薄倖さも、幾許か和らいでいるように感じる。
――――つまるところB4は、この状況に大なり小なり満足しているのだ。
「ああ、先に新聞の方を渡しておきます。一昨日のものになりますが、搬入が終わるまでの時間潰しにお使い下さい」
「いつも済まないね、ゼドラ君。僕なんかのために」
「いえ……よりよいコンディションで戦いに臨んでいただくため、支援に糸目を付けるなというのが“あの御方”の指示ですから。こうすることがあなたの気分転換になるというのなら、それで」
「……ゲームを降りるつもりはないよ。それだけは、皆に伝えておいてくれ」
流石に言い方が露骨過ぎたのか、B4は苦笑しながらそう答えた。
そして、その言質が取れただけで、ゼドラの仕事は八割方終わったようなものだ。
水に食料、各種消耗品の類に、給水用タンクと発電用の大型バッテリー。
ダムも発電所も停止し、ライフラインが完全に機能していないため、ここでまともな生活を送るためにはほとんどの物資を外から持ち込むしかない。
そしてそれらは、オートメーション化された車両が勝手に運び込む手筈となっている。
ゼドラは作業の完遂を見届けるだけでよかった。
もっとも、適当に周辺で待機しようとして、B4に中で寛ぐよう勧められるのが毎度のパターンだ。
今日もその例に漏れず、B4は同様の誘いをゼドラに持ちかけてくる。
作業には二、三十分を要するために、いつもなら世話になっているところだが、今回だけはどうもそんな気分にはならなかった。
「申し訳ありませんが、今回はお断りさせて頂きます」
「ああ、連奈ちゃんがいるからかい……? というか、この局面でもやっぱり、オーゼスとしてはあの子を放置するんだね」
「メテオメイルを用いた侵略の外で他者を害することは、“あの御方の”……いえ、誰の望むところでもありません。そうすることによって得た結果では、彼らはけして満たされない。それが自身らと戦う連合のパイロットなら、尚更です」
拉致監禁、拷問、殺害。
一般的見地からすれば、身柄がオーゼスの手に渡るという事態は、そういった目に遭うことを想起させるのだろう。
現に、エウドクソスによって誘拐されたヴァルクス隊員についても、それらの可能性が示唆され市民の不安を煽っている。
「ジェルミさんは、その意味でかなり危ない橋を渡っているけどね……。彼も彼で、随分とひどいお叱りを受けたそうじゃないか」
「……困ったものです」
「ただ、まあ……これからも似たようなことはやると思うよ、彼は。僕らは反省というものができない類の生き物だ。そんなことをしても、もう二度とまともな世界には戻れないということを知っている」
B4の言葉は、この上ない真理だった。
彼ら九人のパイロットは、真っ当な人生という名の航路を逸れて、逸れて、ひたすらに逸れて――――その果てにオーゼスという終点に漂着した者達だ。
真のトップに対する敬愛の念や、この途方もなく馬鹿げた計画に対する意気込みを持ち合わせている一方、更に進路を逸れることへの強い恐れもない。
組織に残留する意思と、それすらも放棄して私欲に走る意思。
ジェルミやB4が極端なだけで、天秤皿を後者に傾けていることは誰も同じであった。
「そうそう……他に連絡はないかい。もう数が数だし、やっと僕もグランシャリオも復調したからね。これからはまた、しょっちゅう出ることになるんだろう?」
「次回の出撃については未定ですが、頻度は上がるかと。くれぐれもお怪我のないよう、お気を付けて休暇を楽しんで下さい」
「本当にまったく、そこだけが不安点だよ。僕はとにかくついてないから」
B4が苦笑すると、家の中から連奈の声が響いてくる。
詳しい内容までは聞き取れなかったが、早く来いとB4を呼びつける類の催促であることだけは、語調で理解できた。
「おっと……家の大掃除をしている最中だった。いけないいけない」
「雑多な連絡事項はファイル化してありますので、後で目を通しておいて下さい。荷物は家の前に並べておきます」
「助かるよ、ゼドラ君……じゃあ、そういうわけだから」
B4が軽く会釈すると、直後、その体は引きずり込まれるようにして家の中へと消えていく。
ばたりと閉じられた扉の前で、ゼドラは今度こそ遠慮なく大きな溜息を吐いた。
「長すぎ」
「いやあ、だって、僕らのためにこんな所まで色々と持ってきてくれたわけだし、ちゃんと応対はしないとさ……」
「長すぎなの」
露骨に不機嫌な表情をした連奈は、B4の袖口を掴み、早足でキッチンへと引き戻した。
そしてすぐさま、窓ガラス拭きの作業を再開させる。
何度もしつこく教え込んだ甲斐あって、ようやくガラス面だけでなく縁まで拭き取ることを覚えたようだ。
しかし、丁寧さがまだ足りない。
目を離すと、すぐ雑に終わらせて次に移ってしまう。
「こんな素敵な家で暮らすのが夢だって言ってた癖に……本当にだらしがないんだから。住人として相応しい、まともな生活をしようって心がけはないの?」
「面目ない……」
B4は力なく笑って、連奈の詰りを受け流す。
このやりとりをするのも、もはや十数度目だ。
「笑ってごまかすのもやめて」
本名、ブラウ・バルビエ・ベネディット・ボーイェン(Blau Barbier Benedetto Boeijen)――――それ故の、通称B4。
ついぞ自分を負かしたこの男が、一体如何なる人物であるのか。
その興味一つで、連奈はヴァルクスを離反した。
具体的には、どこか頼りない印象の裏に隠された、危険で苛烈な本性を期待して。
だが残念なことに、このB4には、連奈が思い描いていたような魅力的な側面は存在しなかった。
むしろ、想像を遙かに下回るほどの不精者だといっていい。
絶対に秘密を暴いてやるという一心で、B4が気分転換のために時折滞在するこの別荘に押しかけ、はや四日。
続々と判明するのは、いずれも知りたくもなかった真実ばかりだ。
「掃除どころか片付けさえろくにしない、料理は缶詰とフリーズドライだらけ、洗濯機がタンス代わり……こんなずぼらな人、初めて見たわ」
「おじさん、昔から家事はさっぱりでね……何かやろうとすると余計にひどいことになっちゃうんだ。頑張れば頑張るほど、二度手間、三度手間さ」
「不器用にも程があるでしょ、まったく……」
初めてこの豪邸に足を踏み入れたとき、連奈は十年近くぶりに阿鼻叫喚の声を上げたものだ。
リビングに散乱するゴミ。
積もりに積もった埃。
水場に大量発生したカビ。
幽霊屋敷よりもおぞましい光景が、そこには広がっていた。
あまりにも度を過ぎていたからであろう、不快感は、次第に怒りへと転化。
とうとう連奈は、B4を馬車馬の如くこき使っての一大クリーン作戦を開始した。
それから、実に丸三日をかけて、ゴミの片付けと自室の確保に奔走。
四日目になってやっと、遠く離れた隣家から掃除用具一式を拝借し、拭き掃除ができる段階にまで漕ぎ着けた次第である。
これまで下着以外の衣類は全てB4からの借り物で過ごしてきたが、汚れることが不可避な現状においては、逆に助かったといっていい。
手間を取らせた腹いせに、今着ているジャージには遠慮なく染みを作ってやる所存だ。
「ここさえ綺麗にすれば、普段使うような部屋の掃除は終わりね。ああもう……ほら、ある程度拭いたら、ちゃんと水に付けて汚れを落として!」
「ああ……ごめんよ、連奈ちゃん」
B4の手から引ったくるようにして、連奈は雑巾をバケツに沈め、きゅっと絞る。
人並みの家事すらできない中年の男がいるなど、連奈には到底信じられなかった。
ここまで深刻な怠惰さで、一体今まで、どうやって生きてきたというのだろう。
「そう思ってるならしっかり反省して。もういいわ……あとは私がやるから。おじさまは荷物を家の中に運んでちょうだい」
「わかったよ、そうさせてもらう」
連奈が呆れ混じりにそう言うと、のそりのそりと玄関に向かっていく。
連奈の勝手な同行を、B4が渋々ながらも承諾した時点で、既に力関係は連奈の側に分があった。
しかし、この大掃除を通じて、更に立場の優劣は決定的なものとなっていた。
そもそもにおいて、このB4という自活能力が極めてゼロに近い男は、逐一指示を出してやらなければすぐに惚けて何もしなくなるのだ。
揉める揉めない以前の話だった。
「おじさま、オーゼスにいるときもこうなの?」
「連奈ちゃんの代わりに、ゼドラ君や井原崎さんが身の回りの世話はやってくれているよ。もっとも、必要最低限のレベルだけどね……」
「甘やかしすぎよ、あの軟弱代表とむっつり執事は」
連奈は口を尖らせながら、B4の広い背中を見送る。
ひょろひょろとしている割に、その後ろ姿だけは、確かに大人の男としての力強さを感じさせるのが不思議だった。
「今日からはちゃんとした食材が使えるんだから、料理もどんどん教え込んでいくわよ!」
「お手柔らかに頼むよ……おじさん、物覚えもいい方じゃないからね」
返ってきた締まりのない声に、連奈はすっかり毒気を抜かれてしまう。
結局のところ、いま出た言葉こそが、この生活に対する連奈の思いを端的に述べていた。
現状に満足するどころか、更にのめり込もうとしている。
愚痴は漏らせど、胸の内から、それに勝る充実感が湧き出てくるのだ。
「……勘は信じてみるものね」
連奈は口元をほころばせて、そう呟く。
全てを放り出し、見知らぬ土地で、他の誰とも交わらず、B4と二人だけで送る非日常の日常。
これまでの鬱屈した気分を吹き飛ばしてくれる、とてつもなく刺激的なシチュエーションだ。
エラルドと過ごしたひとときが最高の理想なら、B4との暮らしは理想の外から舞い込んできた未知なる可能性といえる。
そもそも、無理があったのだ。
闘争で得られる刺激は、まずい栄養ドリンクのようなものだ。
効果は凄まじくとも、自分の求めるそれとは少し毛色が異なる。
顔も知らない市民のために戦うという大義も、殉ずるか否かに関わらず、そうした立場であるというだけで煩わしい。
初めて知った、身近な一人のために尽くす幸福感が、余計にそう感じさせる。
「どうして私は、あんな所に長々と縛り付けられていたのかしら。馬鹿みたい」
例え、両親や仲間を、そしてまともな人生を捨て去ってまで得た結果だとしても。
今この瞬間以上に、連奈を満たすものは、世界のどこにもない。
やっと、探し求めていたものが手に入ったという確信がある。
「やっぱり私の居場所はこっち側なのよ、エラルドさん……そっち側なんかじゃ、ない」
もはや連奈の興味が向く先は、どさりどさりと玄関に置かれていく、ダンボールの中身だけだった。




