第82話 別れの雨(その3)
「これでとうとう、二千冊達成か……」
一般隊員用の個室に備え付けてある、壁面と一体化したテーブル。
そこに積み重なったノンジャンルの書物の山は、ちょうど今、更に標高を増した。
そして、その高さこそが今回の登山における頂点だ。
残念なことに、セリアの手元には、もう歩くべき本が存在しなかった。
「まさか一巻まるごと一人語りとはね。随分と大胆な構成だったよ」
セリアが今しがた読み終えたのは、けして有名とは言い難い、アメリカ人男性が主役の冒険活劇。
シリーズもので、全四巻の構成だ。
第三巻までは、しがない中年の冒険家である男が、世界各地に存在する架空の遺跡を巡って旅をする物語。
複雑怪奇な構造をした遺跡の深部まで踏み込みはするものの、特に成果は得られず、命からがら帰還するというのが毎度のパターンである。
しかし最後の第四巻だけは、それまでとは大きく異なる展開が待っている。
三巻までの時代から数十年が経過し、晩年を迎えた男が、これから挑む第四の冒険についての計画を延々と語るエピソードになっているのだ。
地の文からは、男の肉体が年齢相応に耄碌しており、とても過酷な冒険に耐えられはしないことが読み取れる。
それでも意気揚々と、未知の財宝が収められた難攻不落の遺跡に思いを馳せる様子から、ともすれば三巻までのエピソードも作中において史実であったかどうかが疑わしくなってくる。
年老いても未だ冷めることのない情熱を描いた話と受け取るべきか、偽りの冒険譚を語る哀愁漂う老人の話と受け取るべきか。
何とも言えない読後感が押し寄せる、名作ならぬ珍作だった。
「どちらとも取れるような構成になっているのは作者が意図したものだろうね。どちらの説も否定できない、絶妙なバランスの人物描写と台詞回しだ」
ひとしきり所感を呟き、セリアは椅子の背もたれに体を預ける。
先程も漏らしたように、セリアはラニアケアに配属されてからの約五ヶ月で、二千冊もの本を読破するに至った。
その大半は外部から自費で取り寄せたもので、テーブルの上に限らず、室内の至るところに書物の山が出来上がっていた。
速読の技能を持ち、空き時間のほとんどを読書に費やすセリアにとって、一日十数冊という読書量は、気が遠くなるどころかむしろ物足りない部類に入る。
任務が多忙だからこそ、この程度の数に留まっているのだ。
「じゃあ、さて……無事に目標を達成できたところで、そろそろ行こうかな」
ほんのしばらくの休憩を挟んだ後、セリアはゆっくりと立ち上がって部屋を出た。
そして、その足で宿舎の外を目指す。
だが、エントランスを抜けた先。
中央タワーの方面へと続く、長い渡り廊下の途中で、軽快な歩みは微かな驚きを伴って停止することとなった。
この天候において、わざわざそこを歩くとは思えない方向から声がかかったせいだ。
「通信女……?」
「おや北沢君、どうしてそんなにずぶ濡れになっているんだい? 獣だって、雨宿りくらいはちゃんとやれるよ」
視界の端に映ったのは紛れもなく、すっかり濡れ鼠になってしまった轟だった。
ボリュームが多めで鬣のように広がった髪は、いつぞや見た謁見モードのようにしおれてしまっている。
「みっともない負け方をした雑魚には相応しい処遇だろ」
「自罰的だね。あのラビリントスBは、初見かつ標準装備で倒すのが無理な敵だったというのはデータを見ても明らかだし、誰も君を責めてないじゃないか」
「だからだろーが。だから、自分で自分を躾けてやらなきゃならねー」
「自分に厳しい人間は尊敬するけど、君のそれは扱い方が荒いだけだよ」
とても顔色の窺える雨量ではなかったが、轟のゆらりとした首の動きだけで、自分が睨み付けられていることをセリアは察する。
「風岩君の真似をしろとまでは言わないけど、もう少し自己評価は高くていいんじゃないかな。前から思っていたことだけどさ、君は強気な発言をよくする割に、自分に対して必要以上に冷たいところがある」
「こちとら命張って戦ってんだぜ。やりすぎなくらい気を引き締めて、それで丁度いいんだ。なんでもデスクワークの感覚で語ってんじゃねー」
戦う者の間でのみ通じる理屈を出されると、セリアにはお手上げだった。
パイロットであるか否かの前に、誰かと勝ち負けを争った経験すらない。
「……ところでだ、通信女。一つだけ聞きてーことがある」
「なんだい、北沢君」
「そういうテメーの方こそ、どういうことだ」
何も言い返せず、数十秒が経過した後。
轟が、二歩だけ近寄って、尋ねてくる。
「随分と曖昧な質問だね。できればもう少し具体的に頼むよ。質問者の意図とずれたことを長々と喋ってしまうのは、他人と会話をする上で一番恥ずかしいことだ」
言っておいて、こういう返し方こそがまさに不器用たる所以ではないのかと、セリアはうすらぼんやりと思う。
適当に流せばいいものを、余計に轟を確信へと近づけただけだ。
距離を詰めるという行為が、既に抱いた疑惑の最終確認であると推測できていたのに。
「とぼけてんじゃねーぞ。なんでテメーは……テメーが、私服で出歩いてるんだ」
ワンピース姿のセリアはそう問われても、一切の後ろめたさを感じることはなかった。
あまりに平静な態度で応じたためか、逆に轟の方が驚き、傍目にもわかる明らかな動揺で全身を硬直させた。
「そりゃあやっぱり、聞くよね……君でも」
「…………!」
微笑みかけると、尚更に警戒心か剥き出しになるのが、セリアの嗜虐心をそそった。
そう、轟の指摘通りなのだ。
ヴァルクスはれっきとした連合軍の一部隊であり、ラニアケアはその全域が軍事施設の扱いとなっている。
瞬達パイロットチームが擦った揉んだの末に黙認されているだけで、基本的に、宿舎の外では隊員制服の着用が義務だ。
そして、島内での任務に限り、セリアは今まで一度も、その規則を破ったことがない。
「ああ、そうそう。理由が聞きたいんだっけ」
勘とは無縁の、統計からそうと判断できる明らかな異常。
何故こんなことをしでかしたのか――――セリアは脳内にある無数の答えの中から、最も簡潔なものを選び取る。
「もう着る必要がないからさ。現状の予定においてはね」
「んだそりゃ……辞めんのかよ、ヴァルクスを」
「辞めることにはなるのかな、結果的に」
「……意味がわかんねーぞ。なんだって、こんな時期に、唐突に」
轟の顔がますまず困惑で呆然となる様子は、豪雨に遮られてなお、はっきりと見てとれた。
今の一言が随分とショックだったのか、現在の服装とそれは何の因果関係もないという事実すら、導き出せていないようだった。
想像以上の脆さにセリアは少しだけ失笑して、再び口を開く。
「私にとっては唐突なんかではないよ。元からそういう指示だったんだ。ここでの任期は『二千冊目を読み終えるまで』だって。上の人達は私のスケジュールと読書速度を正確に把握しているだろうから、タイミングは綿密に計算されていたんだろうけど、私にとってはいまいち終了時期の予想が立てづらくて難儀したかな」
同時に、手持ち無沙汰のまま、平然と雨の中に歩み出る。
結果として轟の傍に近寄ることにはなったが、目的地はその遠く向こうだ。
二分ほど余計な時間を食っている手前、少し急がねばならなかった。
「ここは一応軍隊だぜ……そんな適当な契約があるもんかよ」
「うん、もちろん連合との間に結んだ取り決めじゃない。君達にとっては、無断逃亡もいいところさ」
「……だったら、もうここから先には通せねーな。低気圧のせいで気まぐれ起こしてんならともかくそこまではっきり裏切りを断言されちゃあな」
「ほら、こういうことになる。我ながら、本当に困った性格だよ」
目の前に立ち塞がった轟を前に、セリアはやれやれと肩をすくめる。
セリアは、絶対に喋ってはならないと指示された情報は、一つたりとも口外しない。
反面、特に言及のなかった情報はいとも容易くあっさりと漏らしてしまう。
そして言い終えてから、常識的には隠すべきだったと後悔する。
自分の動作は、まさに欠陥品のそれだ。
だからこそ、こんな重要度の低い仕事しか回してもらえない。
「どこに行くつもりだ、誰の命令だ」
「前者は知らない、後者は説明できない」
「ふざけてんじゃねーぞ……! そんな、なんでもかんでもいい加減な奴のために動いてるってのか、テメーは」
「いい加減が利いてるからこそ、私には情報が降りてこないんじゃないか」
そう言って、セリアは視線を脇に向けた。
細かい打ち合わせはしていないが、こちらの動向を把握してくれているのなら、時間的にはそろそろのはずだ。
「言えることは一つだけ……“先生”の言葉は、他の何よりも優先されるんだ。私が私として生きていく上ではね」
「つまりテメーは、そいつの手先だったってことか……!」
セリアの返答に対し、轟は大きく目を見開いたが、それだけだった。
何かに思い至りはしたが、それを言語化する精神的余裕がないといったところか。
確かに、轟の立場と知識で説明しようとするならば、少し長くかかる。
「どうだろう。“先生”は万事に通じた存在だから、ただヴァルクスの機密情報が欲しいだけなら、敢えて私を使うまでもないんじゃないかな」
「あ……?」
「だからさっきも言ったじゃないか、教えようがないって。私はただ言われたとおりのことをやっているだけさ」
セリアは、ヴァルクスの一員として職務を全うするという任務を、この上なく忠実に実行した。
オペレーターとしての仕事は一切手を抜かず、潜入中に一切の極秘工作も行なわない。
そして、当たり前のように生活し、交友関係も当たり前とされている範疇に留める。
今日この日まで、あの妙に鋭い瞬や連奈の観察眼を躱してこれたのも、非の打ち所がない完璧な味方であり続けたことに起因する。
「おかしいだろーが……やってることの意味がわからねーのに、どうしてそいつに従えるんだよ」
「与えられた任務に対して疑問は持つなと言われているからね、“先生”に」
「まるで人形じゃねーか! お前は、そんな奴じゃなかっただろーが……!」
「“先生”の言葉に全面的に従うという意味では、これが私というキャラクターだよ。ここで君達との交流を育んできた私は、位置づけ的にはワンランク下だ」
セリアがそう答えた瞬間、ラニアケア全体に非常警報が鳴り響く。
もはや常態化した感のある、未確認の高熱源体を発見したという旨のアナウンスだが、今回に限っては隊員全てを青ざめさせる効果があることだろう。
なにせ出現場所は、世界のどこか遠くではなく、このラニアケアの近辺なのだから。
「テメー、まさか……!」
「そりゃあそうさ。まさか私が、これから呑気に船や飛行機でも盗んで出て行くとでも考えていたのかい?」
「オーゼスか、エウドクなんたらか、どっちだ」
「これでようやく一安心だよ。時間稼ぎは無事に成功ということかな」
セリアは轟の質問には答えず、僅かに視線を上げ、それが向かってくるであろう方角を見遣った。
合流地点への到達には失敗したが、そこは向こうが上手くフォローしてくれるだろう。
直属の“生徒”であれば、状況への対応能力は自分より遙かに高いはずだ。
「君との遭遇は完全に予定外の出来事だったけど、敢えて逃亡しないことを選んだのは正解だったようだね。力尽くで拘束されていたら、私にはどうすることもできない」
「なら、今からでも!」
「いや……もう遅い」
轟が咄嗟にセリアの腕を掴もうとした、その寸前――――
豪雨の中を貫くようにして飛来した一機のメテオメイルが、ラニアケアの大地に両脚部を擦りつけながら着地を果たす。
発見されてから、ほんの数十秒での上陸。
索敵レーダーの効果範囲内から出現したとしか思えない、到着の速さだった。
よほどステルス性能が強化されているのだろう。
もっとも、そうでなければ、セリアを連れて脱出することは不可能なのだが。
「こいつは……!?」
ようやくその機体が停止したのは、二人の間近も間近。
巻き上げられた石畳の破片や土砂が、少なからずセリアの体にも打ち付けられる。
が、おかげで轟の意識が自分から逸れたのだから、これも計算尽くということなのだろう。
セリアは、それの頭部から発せられる光信号が、味方間のみで用いられる特殊なパターンであること確認すると、差し出された掌に躊躇いなくよじ登った。
この機体はセリアにとっても初めて見る機体だったが、“先生”との打ち合わせ通りに現れた以上、不安は些かもない。
「やっぱり、あのヴァルプルガも“先生”が送り込んだ刺客だったということか」
かつて瞬達が交戦した黄金のメテオメイルと形状こそ大きく異なるものの、同じく仏像じみた意匠が随所に施されていることから、セリアはそう判断する。
機体色は青銅――――煌びやかさはないが、代わりに荘厳さを増し、更なる視覚的な威圧効果を獲得している。
本体の体格はヴァルプルガと同様の四十メートル手前。
背部の迦楼羅焔じみた複雑怪奇なパーツも、ヴァルプルガの後光並に広い面積を誇る。
眼部と額部のメインカメラ群は全てが円形であり、多くのメテオメイルが持っている表情という性質は削ぎ落とされていた。
敢えて例えるとするなら、ヴァルプルガが大日如来で、こちらが不動明王というところか。
「さてと……」
セリアが完全に掌の中に収まると、青銅のメテオメイルはすぐさま全身のスラスターを噴射し、離陸準備に入る。
その間、もう片方の手を地面のそばで左右にスライドさせているので、どうしたことかと身を乗り出すと、そこには必死で回り込もうとする轟の姿があった。
まるで釈迦如来に行く手を阻まれる孫悟空の図だ。
セリアは、そんな轟に、不躾ながらも頭上から声を掛ける。
もうこれ以上言葉を交わす道理はなかったのだが、セリアの中に眠る何らかの衝動が、そうさせた。
「ほとんどノーヒントの状態から、急な正体の暴露だったからね……伏線回収の仕方としては下の下だと思うよ。だけど現実はこういうものさ、ドラマチックでもなんでもない」
迎撃部隊が発進するより先に本拠地に乗り込んだ時点で、一般的な戦術概念における勝敗は決している。
ここで地下の格納庫と地上を繋ぐリフトを破壊してしまえば、ラニアケアを陥落させることは容易だ。
しかし、“先生”がそう望むのならば、もっと早くにそうなっているという信頼がセリアにはある。
実際、青銅のメテオメイルは何一つ武装を展開することなく、ただセリアを連れての離脱にのみ専念していた。
明らかに任務の邪魔をしている轟が、今なお生きているという事実こそ、攻撃の意思がないことの何よりの証明である。
「待てよ、通信女……!」
青銅のメテオメイルは、自身の推力で、既に何メートルか浮かび上がっていた。
だが轟は、機体腕部の突起にしがみついて、離れようとしない。
それでようやく、パイロットも轟のしつこさを面倒に思ったのか、腕を大きく薙いで轟を振り払う。
無傷では済まない高さだったが、限りなく水平に近い角度で飛ばされたために、落下それ自体のダメージで死ぬことはなさそうだった。
現に、盛大に地面を転がりながら、轟はその勢いを利用して立ち上がってすらみせる。
そして性懲りもなく、またも自分の元へ、全力で駆け出す――――
「君が何者なのか、結局はわからないままだったけど、それは君も同じだった。君もまた、私が何者なのかを突き止められなかった」
「待て……! 待って、くれ……! だったら、だからこそ……!」
「だから、さよなら」
今この刹那に通り過ぎたのは、互いの声が届く、最後の距離。
現時刻を以て、ヴァルクス隊員としてのセリア・アーリアルは終了の時を迎える。
懐かしい現在との別離を済ませ、過去への帰還を果たしたセリアは、今度こそ完全に自らを包む鋼鉄の掌へと収まった。




