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第211話 Back to square one(前編)

 瞬は、寒々とした暗闇の中を、ただひたすらに歩いていた。

 足元さえ見えない深い闇だったが、不安感や孤独感に苛まれることはなかった。

 瞬にとって闇とは、日常の風景の一部でしかないからだ。

 生家も山奥、学校も山奥、間の通学路も無論のこと山奥。

 道の両脇は高い木々で覆われており、街灯の設置はまばら、谷底への転落を防ぐためのガードレールも途切れ途切れ。

 日が沈めば世界は漆黒で塗りつぶされ、文字どおり、一歩間違うだけで簡単に行方不明者となることができた。

 そんな環境で十年以上も暮らしていれば、闇への畏怖など勝手に克服されるというものだ。

 にも関わらず――――瞬の表情は今、この異界の住人に相応しい、ひどく暗鬱としたものになっていた。

 今更のように闇が突きつけられること、それが意味するところを、とうに理解しているためである。

 闇は瞬にとっての、これ以上ない敗北の証なのだ。


「わかりきった話だってのに……まだ物足りないっていうのかよ」


 あれは三年ほど前のこと。

 季節はちょうど今頃、冬の只中。

 下校時刻を過ぎても校内で友人たちと遊びふけっていた瞬は、教師から何度目かの咎めを受けて、ようやく帰路についた。

 風岩家は、具体的な門限は定められていないにしろ、旧態依然とした家庭であるため、夕飯の時間に間に合わなければ厳しい叱責を受けることになる。

 夕飯が始まるのは、多少の誤差はあれど、おおむね十八時。

 現在時刻は十七時。

 帰宅までの所要時間は約一時間半。

 つまり三十分のマイナス。

 このマイナスを埋める方法は二つあったが、遊び疲れていた瞬は、ひた走る方の選択肢を捨てた。

 もう一つの方法は、大幅な近道。

 二、三キロメートルは続く長いS字カーブ地帯の手前で道路から外れ、下の森を突っ切り、最後に急勾配を駆け上がれば結構な時間短縮をすることができた。

 瞬間的には頑張る必要があるものの、体力の消耗は確実に少なく済む。

 その日ほど遅い時間に通ることは初めてだったが、過去に何度も使っているルートということもあって、当時の瞬は平然と森の中に入っていった。

 まだ日没までにはわずかながら猶予もあったし、瞬の通う分校特有の規則として、生徒には懐中電灯の携帯も義務付けられている。

 心配は無用のはずだった。

 だが、この日の瞬はとりわけ運がなかった。

 悪態をつきたくなるレベルの不運が、立て続けに起こったのだ。

 まず第一に、瞬の下校と並行して西から流れてきた広く分厚い雨雲が、視界が完全に塞がってしまうまでのタイムリミットを大幅に早めてしまった。

 第二に、懐中電灯の電池が途中で切れてしまった。

 第三に、盛大に降り出した大雨の影響で、予定していた急勾配を登ることがほぼ不可能になってしまった。

 そして最後に、それでもひょっとしたらと無謀な挑戦をした結果、登り終えるまであと数メートルというところで下まで滑り落ちてしまった。

 濡れた雑草の上を転がったことが幸いしてか、擦り傷以上の怪我はなかった。

 ただ、負傷とは別の理由で、瞬の体は満足に動かせなくなっていた。

 冬の山間部の気温は日中でさえ一桁、そこに日没と雨の要素が加わり、体温が急激に低下したためである。

 早朝に氷点下を記録することもざらにある土地ではあったが、それは外気が冷えているだけだ。

 内側の熱まで奪われ尽くした“この寒さ”とは、わけが違う。

 手足の感覚さえ消え、歩くこともままならない。

 凍えるほどの寒さだというのに、体はもはや震えもしない。

 本能と理性の両方で、己の死がもう間近に迫っていることを理解できてしまう、極めて危険な状況。

 考えれば考えるほどに、自分の力ではどうしようもないという現実が確固たるものとなっていき、焦りで心が満たされていく。

 パニックになった瞬は、ほとんど消去法ではあるものの、この状況において最も効果的ともいえる、叫んで救助を求めるという行動を取った。

 もっとも、出せる声量は完調時の半分以下。

 この土砂降りの中では、ほんの数メートル先までも届くかどうか怪しい。

 それでも“奇跡”が起こることを信じて、瞬は体内の熱量が持つ限り叫び続けた。

 そこまでは、よかった。

 よくなかったのは、そこから先。

 “助けてくれ”という端的なフレーズだけを繰り返せばいいものを。

 生命の危機に瀕し冷静さを欠いていた瞬は、特定の個人に助けを求めてしまった。

 両親でもなく、祖父母でもなく、家の道場に通う門下生たちでもなく、兄の名を呼んでしまった。

 このとき既に、例の一件を経て、兄弟間の仲が冷え切っているにも関わらずだ。

 生じた誤解から反発心を抱き、ろくに口も聞かない日々が二年も続いている中で、他の誰よりも優先して兄に助けを求めてしまう、壁に頭を打ち付けたくなるほどの惰弱さ。

 なにも語らぬまま自分と距離を置き始めた刃太を見て、どのみちもう兄の庇護が必要な年頃ではないのだとぬかしておきながら、結局は、このザマなのかと。

 振り返るたびに恥辱の熱がこみ上げる、最悪の思い出だった。

 なお、結果から言うと、“奇跡”が起こることはなかった。

 瞬が転落してから五分と経たないうちに、刃太が、その場に駆けつけたのだ。

 祖母の言によると、天気が荒れることを予め知っていた刃太は、五時を過ぎても帰ってこない瞬が心配になり自分から迎えに行くと言い出し始めたらしい。

 しかも、瞬が非正規のルートを使って危ない目に遭うことまで予想しており、父に車を出させた上に、救急箱やらバスタオルやらも事前に準備していたという。

 自分の行動を読み切られた、確かな計画性に基づく救出。

 認めざるを得なかった。

 自分と刃太との関係は、明確な主と副の性質のもと構築された、対立以前のもの。

 その事実を改めて思い知らされる、精神的敗北。

 この日を境に、瞬はますます、兄からも真実からも遠ざかっていった。


「いまさっき“兄貴みたいなもの”に負けたから、この景色が掘り返されちまったってことだろ。オレの中から。わかってんだよ、そんなことは。いや……わかってどうするんだよ」


 瞬は、自分自身の発言の無様さに苦い顔をする。

 わかっている――――が問題なのだ。

 どれだけ上辺を取り繕っても、深層心理では、兄と自分との優劣の差を受け入れてしまっている。

 どう足掻いても敵わないと、諦めきってしまっている。

 セイファートOと戦う前に、それらしい理屈を幾つも並べ立てて、さもこの瞬間を待っていたかのように振る舞ってみせたときから、正直なところ違和感はあった。

 どれだけ意気込み、強気な言葉を叫んでみても、どうも心が沸き立つ感じがしない。

 マッチの火をうまく付けられず、箱の側薬を何度もこすり続けているような気分。

 そうなった原因に、心当たりはあった。

 あれは、自分にとって本当に都合の悪い部分――――すなわち真実を覆い隠そうとする、いつもの悪い癖が出た結果だ。

 その場しのぎのために自分を上手く言いくるめてしまう、もはやいつ身についたものなのか判断しかねるほど、遠く昔からの付き合いとなる悪癖。

 もし本当に、自分が兄の化身であるセイファートOとの一戦を望み喜んでいたのなら、もっと重みのある言葉を言えていたはずなのだ。

 敵からも味方からも再三にわたって指摘されてきた“薄っぺら”という評価。

 瞬は、その真理じみた評価を最後の最後まで返上できなかった。

 際立った個性を持つ者たちと出会い、衝突し、ときには感銘を受け――――そうして彼らの特殊性を汲み取っていくうちに、自分もまた彼らと同じ特別な人間になれたような気がしていたが、どうやらそれはただの勘違いだったようだ。

 多少の技術を得はしたものの、風岩瞬という人間の根本は、セイファートに乗る前となにも変わってはいない。

 どんな苦難もどうにかなるという楽観主義と、大抵の苦難はどうにかできてしまう要領の良さの悪しき相乗効果の影響で、肝心なところでの勝利を逃す――――

 そんな、これまでの人生において何度も繰り返してきた過ちを、新たに一回犯しただけ。

 滑稽ここに極まれり。

 瞬は悔しさで握り拳を作るが、その悔しさは今しがたの敗北に対するものではない。

 あれだけの大敗を経ても、さしたる悔しさを覚えていない自分の負け犬根性に対する悔しさだ。

 気付けば、闇は終点を迎えていた。

 壁というほど垂直ではないにしろ、相当の傾斜が付いた地形。

 瞬が登り損ねた長い急勾配の再現。

 ここを終点と捉えることもまた、あの日から一歩も進めていないことの証明。

 かといって引き返す気力も残っておらず、瞬はしばし、その場に立ち尽くした。


「じゃあどうしろっていうんだよ……割とここまで頑張ってきたろ、オレ。色んな奴に勝ってきたし、訓練も途中からは真面目にやったし、轟も連奈もメアラもセリアもケルケイム司令も、ちょっとは助けてきただろ。絶対、精神的に成長はしてるんだよ。一回りどころか二回りも三回りも。なのになんで、兄貴に挑もうとすると、こうも一気にボロが出るんだ。なんでそこだけどうやっても克服できないんだよ……!」


 瞬は溜まりに溜まった鬱憤を晴らすべく、歩みを妨げる坂に向かって、ひたすらにまくしたてる。

 力量で遥かに勝る者との勝負を成立させるには、せめて心構えは同等か、それ以上の域に達している必要がある。

 なのにその心構えが、どれだけ手を尽くそうとも理想の数値にまったく届かないという理不尽。

 結果が同じ敗北だとしても、本当に打倒刃太の覚悟が決まっていれば、もう少しは粘れていた。

 そう言える局面が何度もあった。

 臆したばかりに先手を取られ続けて、押し切られたのだ。

 全力を出し切った戦いで惨敗を喫するのならば、それでも構わなかった。

 全力を出し切るための精神状態に、自分を連れて行くことができないからこそ、瞬はこうまで煩悶していた。

 自分に欠けているものを理解し、言語化すらできるというのに、改善だけが一向にできない。

 それほどまでに深く、刃太への劣等感が魂に刻まれているのだ。


「どうしようもねえだろ、こんなの……やめだ、やめ。どのみち最初から、オレは……」


 吐き捨てて、瞬はその場にどっかりと寝転がる。

 歩いている間はそうとは感じなかったが、地面は信じがたいほどに冷たく、あの日のように瞬の全身の熱を一気に奪い取っていく。

 その間、瞬は特に抵抗もしなかった。

 急激に襲ってきた疲労感と徒労感が、瞬を金縛りのように押さえつけていた。

 この低みばしょで、敗北を噛み締め続ける。

 けして叶わぬ夢を見て、うなされ続ける。

 それが風岩瞬の人生であり、相応しい末路だとでもいうのか。

 いや、この苦しみから逃れる方法は一つだけある。

 いつものように、いつもそうしてきたように、この苦しみからも目を背けてしまえばいい。

 いっそ兄への羨望も憧憬も、元々なかったことにすればいい。

 瞬は乾いた笑いを漏らすと、思考を止め、徐々に闇の一部と化していった。


「――――――――」


 昨日のことも、今日のことも、明日のことも。

 なにもかもを意識の外に締め出して、ただ寝そべる。

 これほど身軽な気分で休息を取ったのはいつぶりだろうか。

 ラニアケアで生活するようになってからは、夜眠るときも、常に余計な情報が頭の中にちらついていた。

 明日のスケジュール、一癖も二癖もある敵と味方、苛烈さを増していく戦いの中で自分の能力が通用するのかという不安。

 自分の行く末にしか興味のない無責任な自分ですら、闘争と競争に意識を割かれて消耗を余儀なくされる、息苦しい毎日だった。

 その息苦しさから解放されたという点においては、こうして闇に身を沈めるのも、そう悪いものではないのかもしれないと瞬は感じる。

 無思慮のまま生きてきた、八ヶ月前の状態。

 十四歳の少年の在り方としては、今の方が正常とすらいえる。

 この感覚を思い出したことで、いよいよ本当に、風岩瞬という存在はなにもかもが“元どおり”となった。

 複雑な、気分ではあった。


「しかし、それにしても、さっきから一体なんだ……?」


 瞬は渋面を浮かべ、面倒ながらも半身を起こした。

 全てを投げ出し、心を無にしようとしているのに。

 あるいは、そうしようと努めたばかりに神経が研ぎ澄まされてしまったのか。

 瞬の聴覚は、先ほどから、闇の何処かより発せられる雑音を拾っていた。

 水のせせらぎや木々のざわめきといった、耳心地のいいものではない。

 声だった。

 それも、騒ぎ声。

 更に補足するなら、恐怖に怯える者が発する狂騒の叫びではなく、祭りや宴会の場で聞くような馬鹿騒ぎの類。

 闇に潜む正体不明の存在となれば、本来なら警戒するべきなのだろうが、この状況においては不気味さよりも不快さの方が遥かに勝った。


「ここはオレの世界だぜ。どうやって入ってきたんだよ。つうか、なんでこんなところで楽しそうにしてやがるんだ……?」


 文句をつけるべく、瞬は声のする方へと早足で向かう。

 急勾配の他には遮蔽物など一切存在しない空間である。

 迷うわけもなかった。

 しかも、驚くべきことに、同一方向にはかすかな光源すら見て取れた。

 絶対の闇の中に生まれた光。

 こうまで現実に打ちのめされた自分に、まだなにかしらの希望が残されているというのだろうか。

 わずかばかりの期待を抱き、瞬は更に速度を上げた。

 そしていよいよ光源に迫り、そこにたむろする者たちの姿形が露わになったとき――――

 瞬は脱力して、思い切り、前のめりに転倒した。

 あまりにもひどい。

 拍子抜けどころの話ですらない。

 究極の期待外れだ。

 地面に突っ伏したまま、瞬は盛大に溜息を吐いた。

 そんな瞬の間抜けな様を見て、そこにいた者たちはいっそう笑い転げる。

 怒りに震える瞬は、ゆっくりと立ち上がり、自分を嘲笑う彼らを睨みつけた。

 だが、その後には、口元を歪める。


「なるほどな……そうだよな……ああ納得。納得しかねえぜ、これは」


 敗者が行き着く、行き止まりの世界。

 そこに光を見出し、楽しげに語らう者たち。

 確かに彼らなら、ここに住む資格はある。

 むしろ彼らのための世界とすらいえる。

 自分などよりも、よほどお似合いだ。


「そりゃあいるよな、あんたらは」


 ぱちぱちと音を立て、静かに燃え上がる焚き火。

 その周りで腰を落ち着けるのは、五人の男。

 屈強な体格をした白髭の男、アダイン・ゼーベイア。

 馬面の男、グレゴール・バルヒェット。

 暑苦しい顔つきの男、十輪寺勝矢。

 筆のように髪を逆立てた男、スラッシュ・マグナルス。

 黒縁眼鏡以外にはなんの特徴もない男、霧島優。

 かつて瞬が、激闘の果てに倒してきたオーゼスのメテオメイルパイロットたち。

 遠く彼方に行ってしまった、そんな彼らとの予期せぬ再会。

 彼らの姿を眼前にして抱く感情は、なにも落胆ばかりではなかった。


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