第207話 命運(その4)
当然すぎて、今更敢えて言語化する必要もないことだが。
氷上での戦いは、通常の陸地とは全く異なる操縦を求められる。
端的に言うと、機体が滑るのである。
氷の表面に発生した疑似液体層が摩擦係数を大きく下げてしまうその現象は、数百トンもの重量を誇るメテオメイルにも例外なく適用される。
むしろ、それほどの重量の物体が大推力を得て駆け回るからこそ、余計に始末が悪いといえた。
膨大な運動エネルギーを持つ物体に制動をかけるためには、同じだけの膨大なエネルギーを必要とするからだ。
そのため、動きたい距離だけ機体を動かそうとすると、どうしても速度は出ず、事前計算を多分に含んだ慎重な足取りになってしまう。
そうした悪条件の中で飛んだ跳ねたの近接戦闘を行っているせいだろう。
本気の殺し合いをしているはずなのに、なにかのリズムに合わせて適度に動作の間を調整しているような、どこか演劇じみた所作になってしまっていた。
「まさかこんな形で念願が叶うなんて、ついているのやら、ついていないのやらだわ」
「今度は一体、なんの話だい……?」
「秘密。絶対に教えたくない」
「つれないなあ」
「こういうときはね、秘密のある女の子は魅力的だよって答えるの」
「すまないね……。そういった気の利いた台詞は、おじさんには思い浮かばないよ。うちで言えそうなのはエラルドくんくらいかなあ」
「そうよ」
動きを止めるべく、バリオンバスターでグランシャリオの進行方向にある地面を攻撃。
射線を見切ったグランシャリオは地滑りしながら旋回して、百八十度の方向転換。
そうすることを見越していた連奈は、両膝の半自動迎撃レーザー砲で、またもグランシャリオの予測進路上を攻撃する。
しかしグランシャリオは右腕から伸びたレーザーソードを地面に突き立ててブレーキ代わりにし、数メートル手前で停止する。
お互いに、二手先、三手先の展開を踏まえた行動を取り続ける、未来に意識が置かれた戦い。
相手の性格と戦術的判断が自分の思ったとおりのものであると信じる、ある意味においては最も確かで、またある意味では最も不確かな思考法。
奇跡的に成立する、この絶妙なバランスに身を委ねる感覚は、けして悪いものではない。
例えそれが、命のやり取りをしている敵であっても。
ただ、悪いものではないからこそ、連奈の心境は複雑だった。
示し合わせずとも呼吸が合う、以心伝心の関係。
この、人と人との関係性の究極形に、自分とB4が至っている。
一生の中で二桁に到達するかどうかも怪しい貴重な枠の中に、この男が列席している。
連奈の理想の近似値たるエラルド・ウォルフとの戦いでは、終始翻弄されるばかりで、歯車が噛み合うことはなかったというのに。
連奈の理想の真逆に位置するB4とは、完璧なワルツを踊れてしまっている。
頭の中で事実を反芻すればするほど、複雑な心境にならざるを得なかった。
「最初はね……いえ、出会ってからしばらくはね。『この人かも』って本気で思ったのよ。恥ずかしいことに」
「恋に恋する年頃だというのはわかっているし、連奈ちゃんのその在り方を否定する気はないけれども……その感性だけはずっと心配だったよ。目が覚めてくれて、本当に良かったと思う」
「正反対だからこそ、惹かれるものがあったのかもしれないわ。人間はパートナーとの相互補完を求めるらしいじゃない」
「おじさんの対になる人が現れるなんて、数ヶ月前まで考えたことすらなかったなあ。おじさんの口から、それも今更になって、こんな単語を聞きたくはないと思うんだけど……やはりどこか、運命じみたものを感じるよ。おじさんたちは」
「そうね……それは認めるわ。今ここにいる私は、おじさまと出会えたからこその私。少しだけ変われた私」
連奈は一気に距離を詰めてくるグランシャリオを、胴体の機関砲で迎撃する。
温存していたわけではない。
ほんの数十発ほどの残弾を、B4の虚を突くために吐き出しただけだ。
しかしB4は、グランシャリオの胸部装甲でそれを受けながら、むしろ前傾姿勢になって数歩踏み込んでくる。
大した弾数が残っているわけもないという判断からか、ただの無謀か。
ともあれ、オルトクラウドへの肉薄に成功。
片腕両脚から伸びるレーザーソードを駆使して間断なく斬撃を放ってくる。
近接武器を一切持たないオルトクラウドにとっては、不利な間合いである。
にも関わらず、連奈は敢えて相対距離を一定に保ち続けた。
「変わる、か……。羨ましくもあるけど、それはこの世で一番面倒くさいことでもある」
「なにをそんなに臆病になっているの? 私の見立てじゃ、おじさまはむしろ、やろうと思えばなんだってできる人のように感じるのだけれど」
グランシャリオと向き合ったままスラスター噴射で後退し続けるという危険な操縦の最中、連奈は尋ねる。
思考と操縦系統をリンクさせるS3を搭載していないオーゼス製メテオメイルを平然と乗りこなす技量。
危うい綱渡りを常に成功させる戦闘センス。
価値観の根本的な相違による不理解は多々あれど、連奈の勿体をつけがちな言動から、その意図をすぐに読み解けるほどの思考の冴え。
いずれも非凡な才能である。
オーゼス以外でも、生きていける場所は山のようにあるはずだ。
だというのに――――
連奈は、疑問を呈したわけではない。
答えがわかっていてなお、口にせざるを得なかったのだ。
「“できる”というのは、ギャンブルに勝つことに等しいとおじさんは考えている。運が良ければ数回の試行でできるようになり、運が悪ければ永遠にできないまま……。もしも自分が後者だったらと考えると、ぞっとするだろう? 自分に能力があると自負している者なら、“できない”という結果に対しての絶望はなおのこと 大きい。だからなのかもしれないね」
「ここまで強くなった私とここまで弱くなったおじさまで、ようやく互角なのよ。それなのに……!」
連奈は、たまらず吐き捨てる。
自己弁護と責任転嫁と思考放棄を巧みに組み合わせ、なにもかもを諦めてしまうおぞましい悪性は、この一進一退の攻防の中でも密かに発揮されていた。
七基のレーザー発振器“ヘリケーフォス”を駆使して襲いかかってくるグランシャリオは確かに難敵だ。
まったく隙がない分、ディープ・ディザスター・ボウを主体とする戦術を用いていた頃より、格段に攻めづらい。
ダメージ効率だけで評価するなら、こちらの戦闘スタイルの方が明らかに優れていた。
ただ――――
一撃必殺の火力が消えたことで、連奈の側に、冷静に対処する余裕が生まれているのもまた事実だった。
連奈が最も対処に苦労したグランシャリオの攻撃パターンは、戦いの序盤に披露された、ディープ・ディザスター・ボウによる遠距離攻撃とヘリケーフォスによる近距離攻撃を切り替えて戦う併用型。
しかし今のB4は、なりふり構わず持てる力の全てを出すと宣っておきながら、ディープ・ディザスター・ボウを実質的に封印してしまっている。
恐れているからだ。
オート操作時の発射の隙を狙われることも、手動で操作して仕損じることも。
自分の命は平然とチップに替えるが、自分の失敗は絶対に直視しようとしない。
そんなB4の精神性が如実に顕れた、事実上のパワーダウン。
まともに戦うことを面倒くさがりディープ・ディザスター・ボウに頼り始めた男が、ディープ・ディザスター・ボウが通じないとわかってまたまともに戦い始めたという、それだけの話だったのだ。
例えるなら液体時計の油。
反発作用によって別方向へ流れるだけで、自分の意志ではなにも選んでいない。
不利になることを避けているだけで、有利になることを目指してはいない。
「人の持つ可能性は、所詮は可能性だよ。確率であって保証じゃあない。ついていなければ悲しいくらいに外す。外し続けるのさ」
「どこまでも卑屈なのね。……だったら無理にでも、勇気をひねり出してもらうわよ」
連奈は挑発的な口調で言い放つ。
結局のところは、ただ一つ。
とらえどころのないB4の精神を、逃げ場のない袋小路に追い込むためには、実力行使しか術はないのだ。
直後、連奈は覚悟を決めて突撃を開始。
グランシャリオとの氷上舞踏を再開する。
ただし今度の舞曲は、互いの攻撃を読み切り躱し合う優雅なワルツではなく、爆発音が絶え間なく轟く疾走感溢れるリゴードン。
オルトクラウドに残された通常兵器はバリオンバスター一挺、収束プラズマ砲一門、機関砲二門、半自動迎撃レーザー二門。
対するグランシャリオは、ヘリケーフォス七基。
これら全てを駆使し、獲物に食らいつく獣のような執念で、一手で一つ、必ず互いの武装と装甲を奪っていく。
そして、損傷箇所が増えるたびに、回避行動を取るメリットも徐々に失われていった。
いま退いたところで、態勢を万全の状態に立て直すことなど不可能だからだ。
先に相手を壊し切るべく攻めの姿勢の貫き続けることが、この場における最適解。
限界まで肉薄することで、グランシャリオの攻撃を避けられなくなる代わりに、こちらの攻撃も避けさせない――――連奈は自らの退路を断つことで、この真っ向からの潰し合いをB4に強いたのである。
下手をすれば先にオルトクラウドが撃墜されてしまう蛮行だったが、連奈は自らの可能性に賭けた。
九星気学に基づいて導き出した、今日の自分の運気を示す盤の位置は、自力転換を司る中宮。
吉方位も存在せず、本当に自分自身の力だけで道を切り開く必要のある、なんとも占いらしからぬ内容だ。
だが、一見してなんの面白みもないこの結果こそが答えだった。
自らの意思で一歩を踏み出すという判断が、この戦いの中で連奈を何度救ったかわからない。
だから連奈は、またも縋る。
流れを我が物とし、あらゆる困難を切り抜けていく、理想の自分に。
気づいたときには、六つの砲口と七つのレーザー発振器の全てが機能を失っていた。
思いのほか実力が伯仲した結果では、ない。
この状況を作り上げることが、連奈の当初からの目的だったのだ。
機体を包む蒼の装甲の大半が弾け飛び、焦げた鋼鉄こそが主色となった、オルトクラウドとグランシャリオ。
隻腕での格闘戦は重心バランスを大きく乱すため困難。
決着を付けるための手段は、両者がここまで温存してきた最強の武器に自ずと絞られる。
ゾディアックキャノンのフルチャージには、十数秒という長い時間を必要とするが、今の自分にはチャージ完了までグランシャリオの攻撃を凌ぎきれるという自信が連奈にはあった。
どのみち、仮に片方を潰されても、もう一門の発射は間に合う算段である。
そこまで熟考した上での、作戦だった。
「……初めての経験でしょ、こんなことは」
「そうだねえ。グランシャリオがこれほどのダメージを受けるなんて、今までただの一度も……」
「選択肢を一つに絞られたことがよ」
威圧の眼差しを向ける連奈の息遣いは、やや荒いものとなっていた。
量産機部隊との大乱戦を終えてから数時間の休息を挟んだとはいえ、実質的には連戦である。
グランシャリオを相手に全身の火器を撃ち続けたことで、連奈の体力と精神力は、いよいよ底をつきかけていた。
連奈が突出しているのは、あくまで放出可能な精神波の量であり、精神力自体が超常の域に達しているわけではない。
身体能力も、同年代の中では高い部類だが、年齢性別不問の無差別級試合においては中の下といったところだろう。
自分に与えられた特別さは、さしたるものではない――――その事実を突きつけられるようで、連奈は力を使い果たす瞬間が訪れることをひどく嫌ってきた。
そのはずだったのだが、今では妙な心地よさを覚えるに至っていた。
この枯渇は、与えられた試練に総力を以て挑むことができた証だからだ。
自分が特別な存在ではないと思えることが、そう思わせてくれる相手がいることが、どれだけ幸せなことか。
張り合いのある相手がいなかったからこその退屈に苦しんできた連奈には、今この瞬間の焼け付くような肺の苦しさと朦朧とする意識さえも愛しい。
初めての経験ということなら、それは連奈も同じだった。
「おじさまはこれまでずっと、立ち向かうことから逃げ続けてきた。逃げてしまえるほどの高い能力と、心の弱さを持っていたから。でも、この絶体絶命の窮地なら、逃げようなんてないでしょ」
「……正直に言って、連奈ちゃんがここまでやるとは思っていなかったよ。ああ、その、見くびっていたという意味じゃない。おじさんを倒すために、こうまで必死になるなんて思いもしなかったということさ」
「意気地なしのおじさまにあれこれと説教しているのよ? 意気地があるところを見せないと、格好がつかないじゃない」
「ああ、確かにそうか……」
ひとつ屋根の下で過ごしていた、あの頃のように。
B4は緊張感の欠片もなく、ただ自分の頭の回らなさを恥じ入って笑う。
連奈は、そんなB4の仕草が雰囲気がけして嫌いではなかったし、まだまだ見ていたいという気持ちもある。
しかし、だからこそ、B4との関係はここで終わらせなければならなかった。
過去を振り切り、前に進むために。
「ようやく袋小路に追い込めたわ。……さあ、見せ合いっこを始めましょうよ。お互いの、全力の」
「……逃げるということなら、連奈ちゃんも一つ、敢えて考えないようにしていることがあるんじゃあないかい?」
不覚にも、連奈の体がぴくりと跳ねる。
B4の指摘に対し、連奈はなんら一切、返す言葉を持たなかった。
図星を突かれたからではない。
B4が提示しようとしているのは、いま連奈が浸っている甘美な高揚感を台無しにしてしまう、考えうる限りの最悪の結末だからだ。
B4が自分の理想から程遠い存在だったとしても、その一点だけは、連奈の期待に応えて欲しいと願っていたというのに――――
「おじさんには、まだ逃げ道がある。全力を出すことを面倒くさがり、無抵抗のまま連奈ちゃんに討たれるという、ろくでもない逃げ道がね」
唾棄すべき――――しかしあまりにもB4らしい見解だった。
ことが首尾よく運んだ場合、結局こうなってしまうだろうという危惧はあった。
この男は、自身の生命やプライドに対する執着など、微塵も持ち合わせていないからだ。
そして、惰弱さを不運に置き換えているという本質までもを看破され、否定されたとなれば、もはや足掻く理由は完全に失われる。
夢のような時間の最後を締めくくる、試合放棄という選択。
危険を冒す必要がなくなった、無難な終幕だというのに、連奈が浮かべるのは端正な顔立ちの価値を著しく損なうほどの渋面だった。
噛み締めた奥歯が、異音を立てる。
B4とは音声だけの通信を行っているため、この無念さがB4に伝わることはない。
これが現実なのか、これで終わりなのか。
連奈は失意の底に沈み、静かにうなだれる。
だが、次の瞬間、まったく予想外の出来事が起こった。
連奈との出会いを経ても、自身の内にいかなる変化も起きなかったと断言した、あの男が。
どういうわけか、自らの意思で、自らの手で、ディープ・ディザスター・ボウの砲口をオルトクラウドへと向けた。




