第200話 孤独の相似形(前編)
あの男との出会いが、私の全てを狂わせた。
あの男の存在は、私の全てと相反する。
あの男に関わるたび、格別の充実感と虚無感が同時に押し寄せてくる。
それだけではない。
絶望と希望、快楽と痛苦、歓喜と悲哀、生と死。
あの男と交わる瞬間、ありとあらゆる正と負の概念が、そこに並列する。
私は、その感覚こそを、真理への到達と断定していた。
一人の視点では、世界の半分を視るのが限度。
しかし、私とあの男が揃い連なることで、表と裏の同時観測が可能となる。
極めて単純で、完成された理屈。
だから私はあの男を求め続ける。
奪略と喪失を繰り返し続けながら、尚も。
「逃れられると思うな、ケルケイム・クシナダ……! キミから正しさが奪われたというのならば、取り戻すまでだ。取り戻して、再び喰らうまでだ。結局のところ、ワタシとキミの幸福はそこにしかない。その絶対の真実を、必ずや思い出させてみせよう」
暗き水の底から、一匹の大蛇が這い上がってくる。
極限の狂気に彩られた、凄絶な笑みを浮かべて。
「グランシャリオ、やはりこの機体は別格か……!」
ラニアケア中央タワーの中層に位置する司令室。
数機のUAV(無人航空機)から送られてくる中継映像により、ロッシュ・ローブ本島での戦闘をモニタリングするケルケイムは、たまらず渋面を浮かべる。
オルトクラウド対グランシャリオ。
両陣営の最大火力がぶつかり合うこの一戦は、終始グランシャリオ優位のまま進行していた。
連奈が腕を上げているおかげで、以前より長く持ちこたえてはいたが、有効打を与えられず翻弄され続けているという部分は全く同じだ。
操縦技術や機体性能に未だ開きがあることも、この劣勢の原因ではあるのだろうが、最大の要因は別にある気がしてならなかった。
ケルケイムにそう思わせるほど、グランシャリオとB4の強さは異質だった。
「司令、北沢特尉が無断でゲルトルートの起動を! リフトを使わせろと要請しています!」
真剣勝負の場においては本人のプライドを尊重し、静観をなによりの信頼と考える轟すら、いてもたってもいられずに動き出す。
ケルケイムは反射的に立ち上がり、即座にオペレーターへ尋ねた。
「機体の修理状況は?」
「最終報告の時点では八十五パーセント。残りは、背面および両脚側面装甲の取り付け作業のようです」
「ならばいい、地上に出したらフロントデッキで待機させろ。指示は追って出す」
「りょ、了解……!」
オペレーターからの返答を聞くより前から、ケルケイムは制止ではなく、轟とゲルトルートをどのタイミングで介入させるかを考え始めていた。
けっして連奈を失うわけにはいかなかったし、それに、おそらく――――この一方的展開の末の敗北は、連奈自身になんの納得も残さない。
ロッシュ・ローブ本島の周囲には、七機もの無人メテオメイルが待機しており、オルトクラウドとグランシャリオの戦いに介入すれば全機が一斉に動き出すと通告されている。
その場合、艦隊全てを巻き込んだ大乱戦に発展してしまうが、もはやそうなることを前提に動かなければならない状況のようだった。
(まずは総司令官に艦隊の陣形を変更を要請。あとはゲルトルートの防御力低下を補うために、航空部隊との連携戦術も変更が必要か……。いや、オルトクラウドの後退支援はどうする? 第一、損傷の如何によってはそれも……)
ケルケイムは思索を重ねるが、どれも納得の行く回答には程遠い。
連合の艦隊は、ありとあらゆる事態を想定して、それぞれに対応パターンを用意してはきた。
が、メテオメイル以外の兵器が戦力としてほとんど機能しない理不尽なバランスの上では、万全の策など用意しようがないというのが実情である。
動かせる駒がたったの三機だけという都合上、必ずどこかで無理が出る。
そして、一つの無理が出るだけで全てが瓦解する。
結局のところ、連合側にできるのは、いずれ訪れる瓦解のタイミングを遅らせることだけだった。
「セイファート、未確認の機体と交戦を開始!」
そんな中、最大の不安要素である、急遽差し挟まれた未知なる一戦もまた幕を開ける。
司令室に送られてくる映像は、セイファートのサブカメラが撮影する一視点のものだけだ。
常に高速で飛び回るセイファートの機体特性上、現在位置は目まぐるしく変わり、画面は常にノイズで荒れている。
得られる視覚情報はごく僅かであったが、そんな状態ですら、オーゼスの首魁が用意した“自信作”とやらの大凡を理解するには十分すぎた。
オーゼス製セイファートとでも呼ぶべき、連合が運用するオリジナルと極めて酷似した姿形を持つなにか。
いかなる思惑のもとに開発されたのかは不明だが、しかしともあれ瞬の心理的動揺を誘うことには成功しているようだった。
セイファートの挙動自体もさることながら、モニター上に表示される精神波の放出量も不安定だ。
今は補助バッテリーが起動することでエネルギーの供給を補ってはいるが、尽きれば当然、そのときの生成量に依存することになる。
常に飛行状態にあるセイファートにとって、エンジンの出力不足は致命的だ。
墜落の可能性も大いに有り得る。
「地上戦に持ち込むように指示を! それが難しいようならせめて低速度域で……」
「パイロットからの応答がありません……。確かに電波状態は芳しくありませんが、こちらからのコンタクトがあることは機体のモニターに表示されているはずです」
「瞬にはあの機体が、別のものに見えているというわけか……!」
おそらく今の瞬は、自分や機体のコンディションに意識を回す余裕すらないのだろう。
ケルケイムは予想以上に早く訪れた危機的状況を前に、歯噛みする。
最悪なことに、セイファートと偽セイファートの戦力差は、オルトクラウドとグランシャリオのそれ以上に開きがあった。
苦戦どころの話ではない。
勝負として成立してすらいない。
兄が弟を力でねじ伏せるような、当然の結果を見せつけられるのみ。
しかもセイファートの交戦地点は艦隊の展開位置から十数キロほども離れており、いかなる援護も不可能な状態にあった。
この窮地からセイファートを救う方法があるとすれば――――それは、外部操作コマンドを用いたセイファートの強制帰還。
まずは瞬に冷静さを取り戻させるところから始めなければならない。
偽セイファートの追撃を振り切れるかどうかは五分だが、堅実な判断ではある。
ただし、その一手は、瞬の尊厳を踏みにじる行為に等しい。
まだかすかに存在するかもしれない勝利の可能性を、外野が無理に捨てさせるようなものだ。
愚直に信頼を貫くか、手堅く生命を優先するか。
ケルケイムの胸中で渦巻くのは、轟が抱いているものと全く同じ、葛藤。
とはいえ、ケルケイムは一部隊の司令官だ。
いや、指揮系統の上では末端の扱いをされていても、扱う戦力の関係上、実際のところはケルケイムの判断に人類全体の未来が委ねられているといっても過言ではない。
出すべき答えなど、最初から決まっているのだ。
「瞬、このまま続けても勝ち目は薄い。ここは一度――――」
「司令……! セキュリティルームから、島のウエストエリアでジェルミ・アバーテらしき人物を発見したとの報告が! 既に保安部隊も向かわせているとのことです」
それは、僥倖どころか、むしろその対極に位置する表現を用いるべき事態なのだが。
ケルケイムが決定的な一言を絞り出そうとしたとき、また別のオペレーターにより、新たな問題が持ち込まれる。
過去に何度も苦渋を飲まされてきた忌まわしき名前が響き渡り、司令室は一瞬にして騒然となった。
「一体どうやって上陸した……?」
ケルケイムは、自分の口から真っ先に出た言葉に――――それ以上に、ジェルミの侵入自体は微塵も疑わなかった、自分の思考回路に深く嘆息した。
肉体も、精神も、あの男の異常な所業にすっかり慣れきってしまっている。
その事実は、なによりおぞましい。
「……いや、とにかく映像を回してくれ。自分の目で確かめたい」
ケルケイムが命じて間もなく、机上の小型モニターに、それは映し出される。
ラニアケアが海洋リゾート施設として開発されていた頃の名残である、芝生地帯。
木造の展望台やベンチが設けられた、軍事施設には似つかわしくない憩いの場。
そんな楽園の中心部に。
舗装道を使わず、わざわざ緑を踏みつけるようにして直進する黒き影があった。
裾の長い漆黒のジャケット、柄物のストール、色素の薄まったブロンドの長髪。
外見のあらゆる特徴が、これまでに得られたジェルミのものと一致する。
唯一、監視カメラの撮影角度の都合上、表情を窺うことだけはかなわなかった。
しかし、そのとき。
なにかの間違いであって欲しいという、ケルケイムの淡い願望を打ち砕くように。
あたかも、カメラの向こうに立つケルケイムの気配を感じ取ったかのように。
画面の向こうにいるはずのジェルミが、愉悦と狂気に満ちた眼差しを向けてくる。
幾度もの醜態を晒し、高みから堕ちてなお、抗いがたい怪しげな魅力を宿した碧眼。
条理すら乗り越えてケルケイムを捉える、偏執的な嗅覚。
極めて遺憾なことに、あれは本物だ。
唾棄したくなる思いを堪えて、ケルケイムは司令官用の席からそっと立ち上がった。
もはやジェルミに対する執着は皆無だが、どうやら因縁は、未だ断ち切れていないらしい。




