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第166話 轟き、伝える(その6)

『私』は、名前を持たない。

 そして、何をすることもできない。

 限りなく透明で、空虚な存在だ。

 それでも私が他人に利用してもらえているのは、あまりにも中身が空白でありすぎるという、生まれ持った個性のおかげだ。

『私』は優れた記憶能力を有しているけれども、数多存在する逸材達のそれとは、少し性質が異なる。

 自我が極めて希薄であるがゆえに、本来空いてはならない記憶領域が空いてしまっているという欠陥の産物だ。

 “先生”はそこに着目して、『私』の中に、無数の人格パターンを刻み込んだ。

 自我を収めるための記憶領域に、任務ごとに異なる人格を据える――――そうすることで、擬似的に『完全な人間』を作り上げようとした。

 面白いことに、あるいは面白くないことに。

 幸いなことに、あるいは面倒なことに。

『私』とは違い、組織によってインプットさせられた『彼女達』には、それぞれの固有の名称が与えられていた。

 組織外での活動のために用意された、一個人としてのまともな名前であったり。

 味方間で用いる呼称として設定されたコードネームであったり。

 特定状況下での運用しか想定されていないため、ただの管理番号に留まっているものだったり。

 扱いの差に関わらず、『彼女達』は自身が何者であるのかを定義することができた。

『彼女達』になりきっている間、『私』は、世界と自分との歯車が噛み合っている安堵を味わうことができた。

 だけど同時に、ふと存在しないはずの我に返って、漠然とした恐怖に襲われることもあった。

 それら二つの感情の形は、潮の満ち引きのように、定期的に忘却と表出を繰り返し続けた。

 人生とは、そういうものかもしれないと。

 そういうものではなかったとしても、自分にはどうすることもできないと。

 半ば諦観のもと、『私』は何年も、エウドクソスの一員として様々な任務を遂行してきた。

 だけど、今年に入ってから、私の内外で大きな異変が起きることになった。

 地球統一連合軍の新設部隊『ヴァルクス』内部での潜入任務を行うため与えられた、もっとも新しく、もっとも脆弱な人格パターン。

『これ』の仮面を被ってからの私の生活は、未知の体験に溢れた、非常に目まぐるしいものだった。

 組織の人員、戦力、施設そのもの――――何もかもが不十分のままスタートした組織であるがゆえの、運営上の様々なトラブル。

 間接的とはいえ、人類の存亡をかけた戦いに参加し、それなりに重要な仕事を任されていることに対する緊張感。

 そして、同年代の人間との交流。

 近い年齢の人間と会話をした経験自体はあったけども、その相手のほとんどは、他人の命令でしか動くことのできない『私』の同族だ。

 自分の意志で生きる、『本物の人間』と接触するのは初めてのことだった。

『私』の記憶が確かであれば。

 風岩瞬は年齢相応のスケールで、三風連奈は年齢不相応の高みを目指したがために、メアラ・ゼーベイアは度の過ぎた願望を持ったせいで、それぞれ惑い悩み続けていた。

 現在進行系で、そうかもしれない。

 その様子は、『仮面の私』にとって、見ていてとても微笑ましく、そして心底羨ましいものだった。

 三人と同じように、自分だけの『真剣になれるもの』を持つ、ただの個人ひとりでありたいと何度願ったことか。

 だけど、最後の一人――――北沢にだけは、何の憧れも抱くことはなかった。

 身勝手、粗暴、無教養、非常識。

 人間の愚かさを一通り揃えたかのような、社会の純然たる不純物。

 第一印象は、『私』の中のあらゆる人格パターンが渋面を浮かべるほどに最悪だった。

 だけど『仮面の私』は、先に挙げた要素のどれとも異なる理由で、彼のことが気に入らないようだった。

 ようだったというのは、そう感じているのに、出会ってからしばらく、その理由が判然としなかったからだ。

 だから、『仮面の私』は疑問を解消するために、彼と接触する機会が多くなっていった。

 そしてしばらくの時間が経過し、『仮面の私』はようやく、一つの結論を導き出すことができた。

 北沢の根幹には、強固な自己否定の意志が存在している。

 自分というものに価値を一切見出しておらず、他者との関わりが他者の負担になると信じて疑わない。

 しかも、人付き合いに関して呆れるほどに不器用だから手に負えない。

 最初は、迷惑をかけるまいという信念から誰の手も借りようとしないのだと思っていたけれど、それは理由の一端でしかなかった。

 実際には、借りる勇気もなく借りる方法も知らないというのが、原因の大部分を占めていた。

 ここまで人間として生きることに不向きな存在は、他に知らない。

 こんなにも見ていてもどかしい存在は、他にはない。

 激しい苛立しさを覚えるほどに、彼は臆病が過ぎた。

 ただ――――世界でたった一人、『私』だけは、そんな彼を嘲る権利がなかった。

『私』は、名前を持たない。

 そして、何をすることもできない。

 限りなく透明で、空虚な存在だ。

 ――――そんなことを宣って、二重三重に予防線を張り、自分が自分であることを避け続けてきた『私』だけは。

 自己否定と臆病さ、その両方において、『私』は北沢轟の近似値。

 ここまで自己分析が出来ているにも関わらず、なおも自分を変えることができないとなれば、もう救いようがない。

 そう――――だから『私』は、シャウラや、そのバックアップが取る行動に一層強く同調を果たしていた。

 彼は『私』と同種だ。

 いや、同種であって欲しい。

 だというのに、彼は多くの人間との衝突を経て、冷たい檻の中から抜け出そうとしている。

 厳密には、もうほとんど抜け出してしまっている。

 それでは困る。

 自分と似た存在がもう一人いるという安心感の甘美さを、『私』は知ってしまっている。

 長年の孤独が埋まった、あの一時期の多幸感を知ってしまっている。

 だから彼には、もう一度檻の中へ戻ってもらう必要があった。

 自分が変わることも、他者を変えることもできないと、敗北を以て味わってもらう必要があった。

 ヴォルフィアナが最大の出力を発揮している要因は、人格パターンの持つ意志や、強制的に高出力状態を維持する制御装置以外にもあったというわけだ。

 だけど、ついぞ彼は私の思い通りになることはなかった。

 彼の執念は――――その結実たる神がかり的な戦闘技術は、『私』が幾度となく突きつけた絶対の壁を、打ち破ってしまった。

 四倍、ともすればそれ以上あったかもしれない力の差を覆し、そして凌駕した。

 その事実は、彼が『私』とは別種となってしまったことの、完全なる証明。

 自分の弱さは未来永劫不変のものであると諦め続けた『私』。

 自分の弱さに向き合い、それは必ず変えられるものと、ひたすらにもがき続けた彼。

 ヴォルフィアナの敗北という、たった一つの結果が、『私』と彼とを限界まで引き離した。

 そう、敗北だ。

 戦術的にも戦略的にもそうなのだが、それらとは関係のない、精神の部分においても『私』は屈してしまっている。

 あの万夫不当ぶりを見せつけられてしまっては、仕方がない。

 だから『私』は、考えることをやめた、いつものように記憶の深層に沈むことにする。

 そもそもにおいて、『私』がこうまで思考を巡らせること自体がイレギュラーだ。

 早く、主人格用の席が置かれたこの部屋から、退室しなければならない。

 もう、『バックアップ用の彼女』と入れ替わってから、数分が経過している。

 そろそろ、『シャウラ』を復帰させても大丈夫だろう。

 そう決定すると、『私』の心の内に散乱していた多量のノイズ情報は、部屋の外側へと押しやられる。

『私』もまた、『バックアップ用の彼女』と共に部屋を去り、彼の手が届かない場所へと避難を果たした。

 これでいい。

『私』にはこうすることしかできない。

 自分で背負いたくないことは、違う人格パターンに任せる。

 だから『私』は、何だってできるし、何だってできない。



「彼が期待しているようなことは、何も始まりはしない……」


 人格の切り替えが終了し無事にを果たしたシャウラは、脳内に残るむず痒さに苛まれながらも、操縦席の右側面の内壁に手をやる。

 その動作を感知した内壁の一部が回転し、入れ替わりに、大型の収納ボックスが現れる。

 シャウラがそこから取り出したのは、銃身の下部にレーザーサイトが装着されたオートマチック拳銃だ。

 任務の遂行のために万全を期すエウドクソスである。

 敵がヴォルフィアナの内部に乗り込んで来るという、万が一の事態もしっかりと想定に入っていた。

 ともすれば機体を奪取されかねないという、この状況における銃の使用――――

 無論、これからシャウラが実行しようとしているのは対象の射殺である。

 脳内で、今回の作戦に関する命令データを一言一句違わず正確に呼び起こしてみても、やはり何らかの例外事項には該当しない。

 対象がコックピットに侵入してきた場合、一切の警告なく発砲し沈黙させるという、基本形の指示だけが残った。


「……そう、何も」


 重すぎず軽すぎずの生々しい重量を確かめつつ、シャウラは拳銃を握り込んだ右腕をゆっくりと持ち上げ、前方に向けた。

 射撃の精度は体格や腕力に依存する部分も多く、さすがに植え付けられたデータだけで銃の名手になることは不可能だ。

 とはいえ、シャウラの射撃技術は、二メートル前後の距離で外すほど不得手には設定されていない。

 自身の身体能力に関する情報や、発砲時の反動などの知識を総動員させれば、最低限、体のどこかには命中させられるはずだった。

 あとは、彼がやってくるのを待つだけだ。

 機体表層からコックピットブロックまでの間に存在する三重の隔壁は、全てロックを解除し、手動操作で開放できるように設定してある。

 命令データ上では、ヴァルクスのメテオメイルパイロットはここで始末することが望ましいとされているため、接触を断念されるのは逆に困るのだ。

 コンソール上の、ハッチ開放状況に目をやりながら、シャウラは固唾をのむ。

 自身の射撃技術に対する不安とは異なる理由で、体が強張り、動悸が激しくなっていく。

 それではいけないと、シャウラは必死に自身の変調をねじ伏せる。

 栄えあるエウドクソスの“生徒”、コードλラムダ“シャウラ”には、そのようなエラーは起こらない。

 エラーが起きているということは、“シャウラ”の再現が不完全だということだ。

 より正確に、より鮮明に、より強固に――――人格データに、どこまでも忠実に機能する。

 そう言い聞かせて、シャウラはシャウラであることを保つ。

 そして、それから数秒と経たないうちに、とうとうその時は訪れた。

 もはやコンソールで確認するまでもない。

 コックピットブロックの正面に設けられた隔壁の向こうから、重苦しい金属同士が擦れ合う音が響いてくる。

 程なくして、正面モニターの中央部、縦に伸びる長方形状のスペースが暗転。

 その黒色の壁面は、向こう側から差し込まれた両手によって、少しずつ上下に押し開かれていく。

 指先に込められる力は見るからに弱々しく、ともすれば自力で開くことができないのではないかと思わされるが、心配は不要だった。

 しまいには片足さえ隙間に突き入れ、自身の脚力と体重をかけて、強引に体一つが通り抜けられるだけのスペースを作り出す。


「はぁっ、はっ……!」


 一瞬先に卒倒してしまいそうな危うささえ窺わせるほどの不安定な呼吸を伴って、少年がハッチの隙間に体を滑らせてくる。

 少年は、うなだれているような姿勢を取っているため、表情を見ることは叶わない。

 しかしシャウラが、彼が何者なのかを誤認することはあり得なかった。

 少年は、既に十分な射程圏内に入っている。

 発砲するにあたっての条件は、全てクリアされていた。

 シャウラは照準を少年の頭部に合わせ直すと、すぐさま、引き金に力を込める。

 と、そのときだった。

 やっとのことでコックピットに潜り込んできた、うつ伏せに近い体勢の少年が、最後の力を振り絞るようにして上体を起こしたのは。

 少年が動作を完了させるまでの、数瞬の間。

 シャウラの肉体は反射的に全神経を研ぎ澄まし、警戒心を引き上げた。

 冷静さを欠いてしまっていた自分の愚かさに、シャウラは心底辟易する。

 自分がそうしているように、少年もまた、何らかの装備を用意していて然りなのだ。

 そんな当たり前のことすら今の今まで考えが及ばなかったのだから、“劣等生”の評価はあまりにも適切。

 通常の銃器類か、あるいはテーザーガンか、催涙ガスか。

 最悪、爆発物である可能性もある。

 ともあれ、敵の機体に乗り込んでおいて手持ち無沙汰であるはずがない。

 もっとも、少年が何を目論んでいようが、問答無用の射撃で行動を封じてしまえばいいだけの話。

 エウドクソスによって作り上げられた人格パターンの一つ、“シャウラ”として、ただ機械的にタスクを完了させる。

 それで自分は、また静寂に包まれた虚無の心を取り戻すことができるのだ。

 押し込まれる引き金に連動して、撃鉄が、弾かれる寸前のところまで持ち上がっていく。

 しかし、最後の最後――――あとほんの僅かに力を込めれば弾丸が放たれるという、まさにそのタイミングで。


「……やっと、まで来れたぜ」


 少年の側から先んじて放たれた音速の一撃が、少女の内側に幾十幾百と敷き詰められた間仕切りパーティションの一切合財を、穿つ。


……!」


 面を上げた北沢轟は、表情筋を惜しみなく使って歓喜の感情を発露させ、幼子のように涙ぐみながら――――その一言を、大事そうにゆっくりと、柔らかな口調で放った。

 その瞬間、少女の中で大渦が巻く。

 内在する大小無数の人格データが、一つの例外もなく飲み込まれてしまうほどの大渦が。

 自身を構成する要素が盛大に荒れ狂い混ざり合う様は、天変地異どころか、もはや終末の様相。

 精神の均衡を失ったことで、拳銃を構えた右腕が、がたがたと震える。

 だが、脳を揺さぶる激情の波に比べれば、その程度はないも同然だった。


「北沢、君……!」


 大渦の中で混ざり合い一つになった情報の濁流が、逆流していく。

 北沢轟が口にした、その名前を持つ人格データ――――二度と使われる予定がなく、しめやかに埋もれていくだけだった、ただの支流の一つへ。

 そして当然、その浅く細い水道では、押し寄せる激流を受け止めることはできない。

 地形を塗りつぶすようにして、一気に源流まで――――意識の深層に身を潜める、少女本来の人格まで遡っていく。

 後付けされた人格は、どれほどのデータ容量であろうとも、結局は枝葉でしかない。

 少女に内在する全ての人格は、大なり小なり、少女の根底部分の影響を受けている。

 その根底に、あらゆる人格のデータが流れ込んだ今、もはやそこは根底ではない。

 何もかもが破壊され尽くして形成された、新たな表層だ。

 もっとも、区分けされていたものが強引に一箇所に集まっただけで、統合と呼ぶには程遠い状態だ。

 まさに氾濫、そこにあるのは完全な無秩序だ。

 だが、逆を言えば、無秩序はある。

 歓喜、恐怖、羞恥、安堵。

 自身の中を駆け巡る幾つもの感情に、少女は今このとき、確かに振り回されていた。

 そして、そんな自分の有様に、心地よさを覚えてしまっている。

 これまでずっと自我の発露を避け続けていたというのに、北沢轟のただの一言で、その意固地さが吹き飛んでしまうほどに浮かれてしまっている。

 そんな気分に任せて、少女は生まれて初めて、自分が思ったままのことを眼前の少年に発した。


「ずるいじゃないか。……今まで、ただの一度も呼んでくれなかったくせに、こんなときだけ」


 涙腺のみならず、顔中が熱くなっているのを感じながら、少女は脱力する。

 右手で握り込んでいたはずのものは、気づいたときには、床の上に転がっていた。

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