第152話 水圧の下で
「生まれながらに備える優れた素質か、あるいは研鑽の末に手にした高い技能か……。いずれにせよ、社会にとって有益な人間というのは、基本的には“持つ者”のことを指す」
遡ること半月前。
ラニアケアの内外で行われる激しい戦いの最中、誰にも邪魔されることなく、その場を後にするオーゼスの潜水艇“フラクトウス”。
その船室にて、恰幅のいい中年の男――――ロベルト・ベイスンが、備え付けのソファに身を預けながら、まるで授業でもしているかのうような口ぶりで語る。
ゼドラは、ロベルトの傍に控え、彼の言葉を拝聴する。
その光景は、第三者が見れば奇異に映ることだろう。
フラクトウスには現在、ゼドラの手引きよってラニアケアを脱走したスラッシュや霧島も同乗しているが、彼らはまだいい。
彼らは現時点の所属こそあやふやになっているが、元はオーゼスの構成員であるし、復帰の申請もおそらく通る。
一方で、ロベルトに関しては、オーゼスと何ら関連するところがない。
ヴァルクスの副司令官と、エウドクソスの最上級管理者、どちらの顔を適用したとしてもだ。
ラニアケアを脱出できたといっても、ここはここで、ロベルトにとってはまた別の敵地のはずなのだ。
だというのに、ロベルトはひどく寛いだ様子で、警戒心の欠片もない。
それでいて、油断もまるで感じられない。
少なくともこの状況下では、必ず自分の思惑通りに事が運ぶという、確かな根拠を抱いた上での余裕ということだろう。
実際、ゼドラが護衛に入っている時点で、ロベルトの身の安全は、この上なく保証されている。
スラッシュ、霧島以外の乗員は、操舵を担当する井原崎のみ。
その三人全員を同時に相手にしても勝利できるだけの白兵戦能力が、ゼドラにはあった。
もっとも、この一件に関して不満を漏らしているのはスラッシュのみだ。
あとの二人は、ゼドラが素性を明かしたにも関わらず、普段どおりの事なかれ主義を貫いていた。
「しかし、コードλ“シャウラ”……あれの場合において、この法則は当てはまらない。彼女は“持たざる者”……組織が区分するところの“劣等生”でありながら、“優等生”に比肩する有用性が発現していた」
「それは……?」
ゼドラは、視線をロベルトに向けて尋ねる。
ヴァルクスのラニアケア奪還作戦が、一定以上のフェーズまで進行してしまった場合の対応策――――つまるところ、ヴォルフィアナの実戦投入に関して、ゼドラに対しても事前の通達があった。
そのパイロットを務めているのが、かつてヴァルクスに潜入させていた“生徒”、シャウラであることも。
ただし、そのようなコードネームを持つ仲間がいること以上の情報を、ゼドラは知らない。
同じく“優等生”の、アクラブやジュバ、ギルタブについても、事前に数度、顔を合わせたことがあるくらいだ。
それほどまでに、“生徒”同士の繋がりは希薄だった。
「“無”だ。ただし、そこいらの無能とはわけが違う。あれは、本当に何一つ持ち合わせていないのだ。自己を形成する上で必要不可欠な、精神の根幹を成すパーツ……自我すらも」
「組織の教育の賜物……ですか」
「いや、組織が確保した時点で、既にその特性は確認されていた。先天的な異常か、あるいはかなりの初期段階で情動を司る神経回路が破壊されたか………ともあれ、筋金入りの欠落者なのだよ、あれは」
「それほどまでに精神に異常をきたしているものが、工作員として使えるのですか」
「使えるのだよ。それほどであるが故に、あれは無限の可能性を獲得した。心が完全な空洞となっているあれは、あらゆる指示に対し、肉体の機能を総動員して応える。……ということは、だ。その指示が、役割に応じた知識のみならず、日常生活の細かな挙動や受け答えまで緻密に設定されている場合、どうなると思う?」
「擬似的な人格の形成……ですか」
ゼドラの回答に対し、ロベルトはゆっくりと頷く。
ここまで来ると、ゼドラにも、シャウラの人的価値の途方もない高さが理解できた。
「そう、適正な人格データさえ用意してやれば、あれはいかなる人間をも演じることができる。多少の慣熟期間は要するが、上書きも可能。言ってみれば、OSの搭載されていないコンピュータのようなものだな。扱う者次第で、使い道が幾らでも増える」
つまりは、ヴァルクス在籍時のセリア・アーリアルのみならず、現在のシャウラという人格すらも、エウドクソスが与えた仮初のもの。
組織の今後の計画次第では、それを遂行する上で最適な、また別の人格に変更されることだろう。
本物の彼女など、どこにも存在しないし、存在できないというわけである。
「しかし、それほどの優れた特性となると、彼女の“劣等生”判定が疑問に思えますが。現に、あのヴォルフィアナのパイロットまで任されているというのに……」
「あれの特性は、エウドクソスにおいては評価対象外の能力だからな。……だが、それでいいのだよ。その二律背反というか、極めつけの頭の固さこそが“先生”の長所にして魅力なのだ。だから私も、生涯付いていくと腹を決めている」
「その、“先生”についてなのですが……」
ゼドラは、やや躊躇いがちに、珍しく自分から話を切り出した。
もう一つ、改めて確認しておきたい事項があったからだ。
それを尋ねることの意味は重々に承知していたが、ゼドラが自己を確立する上で、どうしても聞いておかねばならないことだった。
「やはり“先生”は、あなたとは別に存在していらっしゃるのでしょうか」
「無論だ」
ロベルトは目も合わせることなく即答する。
その声色には、そんなことは世界の基本法則だろうとでも言いたげな、呆れに起因する冷ややかさが含まれていた。
ゼドラはそこで初めて、常に余裕を崩さないロベルトの中に、僅かながら感情の発露を見た気がした。
そもそも、ロベルトと顔を合わせたこと自体、今日が初めてだった。
そして、その事実こそ、ゼドラが質問を投げるに至った最たる理由なのである。
「しかしそうだな。お前が未だに現状を正しく認識できていない原因はこちら側にある。ならば、この時間を利用して、もう一度説明を行っておこう。それで今度こそ情報のアップデートは済むはずだ」
「お願いします」
概要としては、ロベルトが話す通りだった。
ゼドラは長年、“先生”の指示という名目で、特殊工作員として活動してきた。
しかし、徹底した情報統制が行われているエウドクソスにおいて、組織の頂点である“先生”が、末端構成員と直に連絡を取り合うなどというリスキーな真似をするはずがない。
実際には、“先生”に最も近い立場にあるロベルトが、彼ないし彼女の代行として“生徒”達に指示を出していたことが先日になって明かされた。
その情報開示が、ゼドラがロベルトの救出にあたる上で混乱を防ぐための措置であったことは、理解できる。
だが、釈然としない気持ちもまたあった。
ロベルトは真っ当に“先生”の代弁者を努めており、その名を借りて組織を掌握しているということは、おそらくない。
もし彼にその気があるなら、今もなお、自身が“先生”であると偽り続けているはずだ。
その意味で、エウドクソスという組織は、未だ問題なく信用に値する。
わだかまりを覚えている理由は、どちらかと言えば、“先生”の直接の管理下に置かれていないという心寂しさの方にあるのだ。
何せ、ゼドラと“先生”の関係は、近年になって始まったことではない。
物心ついたばかりの段階から、ゼドラはオンライン上で“先生”による教育を受けてきていた。
万事に通じる幅広い知識と、個々人の適性を正確に分析した、極めて効率的なカリキュラムの構築――――流石にそればかりは、別の誰かがなり代われるものではない。
二十年以上の歴史を持つ、あの繋がりだけは、確かに“先生”との間に築いたものなのだ。
「組織の運営と、連合とオーゼスを利用した一連の計画の進行。加えて、数多存在する“生徒”の育成。“先生”は、それらの膨大なタスクを単身で処理可能な、真に万能たる存在だ。とはいえ、構成員各自の派遣先の関係上、決定事項を伝達する連絡役は必要となる。その仕事を担当している者の一人が私だったというわけだ。……これで納得はできたか?」
「……はい」
そう言われてしまえば、ゼドラには、そう答えるしかなかった。
実際、ロベルトの説明は理に適っていて、不明瞭な点も皆無だ。
それで心の靄が晴れないということは、問題があるのは自身の側――――そもそも、心などという概念を持ち出していること自体が問題だった。
エウドクソスに限らず、感情を抑制し理性のみで行動することは、組織に属する一員としての理想形。
末端の人員は、上の命令に従うだけでいいのだ。
そして、かつてのゼドラは、間違いなくその理想を実現できていた。
かつてできていたものが、現在できていない。
能力の低下に対して覚える不安は、単純な能力不足よりも重く、心にのしかかる。
(……オーゼスに、長居しすぎたか)
この上なくはっきりとしている原因に、ゼドラは思いを馳せる。
総合新興技術研究機関、オーゼス。
“先生”の命令により、その構成員となって組織の内情を探り始めてから、はや二年。
パイロット達や井原崎、そして組織の中核にして全ての元凶である“あの男”――――極めつけの人格破綻者達に囲まれた生活が、ゼドラの精神面に何らかの変化をもたらしているのは事実だった。
彼らは、彼らが本当にそれを望んでいるかどうかはともかくとして、自身の欲求に対してどこまでも正直な生き方をしていた。
構成員を単一の機能に落とし込み、一切の自発的行動を認めないエウドクソスとは、真逆の環境だ。
だからこそ、オーゼスという組織そのものの思想にしろ、そこに属する個人にしろ、深入りすることがないようゼドラは常に注意を払っていた。
だが、共に過ごした時間があまりにも長すぎて、価値観に多少の揺らぎが生じてしまったことは明らかだ。
実際に対面したことが一度もない“先生”と、その十分の一程度の付き合いではあるものの、毎日のように顔を合わせてきたオーゼスの男達。
自分の中で、もはや両者を乗せた秤がそれほど傾いていないことに気付いて、ゼドラの心中はますます複雑なものとなった。
「サルガス」
「……何でしょうか」
組織の上級管理者を目の前にして、一拍遅れた返事をしてしまうことからも、自身が異常をきたしてしまっていることは明白だった。
最近は“先生”とも、その代役を努めていたロベルトとも連絡を取り合うことが少なくなっていたため、コードθ“サルガス”という本来の名前で呼ばれることも稀な事態だった。
所詮はゼドラ・フォーレングスなど、正規の戸籍すら用意されていない仮初めの存在。
それを己の基準点に定めてしまうことは、今後のことを考えれば、非情に危うい。
だからいっそ、今回とうとう自分の正体がオーゼス側に知られてしまったことを理由に、潜入任務から外してもられば楽だった。
ゼドラは、若干の期待を込めた眼差しでロベルトを見る。
だが、現実は僅かたりとも、推移の気配を見せることはなかった。
「まだ当分、連合とオーゼスとの戦いは続く。いや、我々が継続させる。連合側が、立て直しの利く限界寸前まで疲弊する、そのときまでな……。無論、お前の任務も、しばらく変更はない。オーゼスは極めて高い確率で、依然変わらずお前を組織の一員として扱う。咎めの心配も皆無だろう。残り少ない“優等生”として、上手くやり遂げてくれ」
「了解しました」
どのみち、変われという命令が出ない限り、変われなどしない。
自分はそういう風に、長い年月をかけて矯正された存在だ。
ならば、自らの内申に起きた変化は些細なこと―――――精神の自浄作用による自然解決にせよ、外部からの強制修正にしろ、どのみち“先生”の定めた枠内に収まる。
懸念の全てを思考の外に放り出すことこそが妥当。
それをひとまずの正解として、ゼドラは機械的に首肯した。




