第134話 解放作戦(その6)
「はあ、ひい、ふう……」
ロベルトは息を荒くしながら、鉄骨製の螺旋階段をひたすら駆け昇っていた。
最下層に存在するコントロールルームでの作業は完全に終了したが、まだ気を抜くには早すぎる。
一刻も早く司令室に戻り、ケルケイムの補佐を行うという本来の仕事が残っていた。
今回の作戦は、各員の動きと指示を出すタイミングに関して、普段以上に注意を払う必要がある。
瞬がぎこちない動きをすれば、オルトクラウドの現在位置を逆算されてしまうおそれがあるし、連奈がゾディアックキャノンによる奇襲をしくじれば、ヴェンデリーネの撃破が一気に厳しくなる。
だというのに、今のケルケイムは、戦闘員の指揮と基地施設の防衛に関する諸事を同時に引き受けざるを得ない状態にあるのだ。
「歳は取りたくないものだ。この程度の段数は、市街戦の訓練で日に何十往復もこなしていたものだが」
ロベルトは、疲労とは由来を別にする深い息を吐き出したい衝動に駆られた。
最下層と地上エリア間の距離は、約百メートル。
その高さだけ伸びる窮屈な螺旋階段を、三、四分で半ば近くまで来ているのだから、五十五歳という年齢としては上出来の部類ではある。
それは弁えていても、半分の時間で同じことができていた若かりし頃の自分が、どうしても脳裏にちらついてしまうのだ。
しかし今は、感傷に浸っている場合ではない。
意識とを割くべき事項は他に幾らでもあるし、本気を出せばもう少し急げるはずだった。
が、そんな意気込みとは裏腹に、ロベルトは途中でぴたりと足を止めた。
正確には、止めざるを得なかった。
あとほんの数十段先にある螺旋階段の中腹―――――工法の関係で設けられた広めの踊り場で、男が一人、待ち構えていたからだ。
男は、表情に何の色も浮かべることはなく、ただ静かに眼下のロベルトへ視線を向けていた。
男が瞬間移動でもして唐突に現れたのでもなければ、ロベルトの不覚だった。
確かにこの場所では、心理的も体力的にも、真上に視線をやることは中々ない。
「……なぜ君がここにいるのだね。この状況下で君が持ち場を離れる理由など、何一つないはずだが」
予想外の事態に対する驚きはあったが、ロベルトは、それを表に出すことはせず、まずは男を諌めた。
苦笑を一切交えないどころか、任務を放棄していることに対する厳格な怒気すら含ませた、真剣な面持ちで。
もっとも、それで男が態度を変えるようなことはなかった。
依然変わらず、監視カメラのような無機質さを伴った双眸で、男はロベルトの動きを冷静に観察し続ける。
ロベルトの極めて自然な振る舞いを前にしても揺らぐことのない、絶対の確信を持って、ここに来ているというわけだ。
「この状況下だからこそです。あなたを抑えてしまえば、目下の脅威であるギルタブの行動に、大きな制限を課すことができる。投降は望めないでしょうが、少なくとも、戦闘の一時中断を促せるくらいには」
「すまないが、何か緊急の報告だというのなら、一度腰を落ち着けさせてくれ。脳に酸素が回っていないせいか、話が頭に入ってこないのでな……」
そう答え、再び歩を進めようとしたロベルトに対する男の返事は、鈍い輝きを放つ金属の塊を取り出すというものだった。
地球統一連合軍で制式採用されている40口径の拳銃である。
男との距離は、まだ五メートル近くあるものの、照準がしっかり自分の眉間を狙っていることくらいは、過去の経験からわかった。
こちらが少しでもおかしな真似をすれば撃つという、男の明確な意思を感じ、ロベルトは気を引き締め直す。
味方に銃口を向けるというのは、軍法的にも倫理的にも多数の問題を孕んだ行為だ。
表沙汰になれば、重い罰則が下る可能性もある。
ただし、向ける相手が本当に味方であれば、だが。
そう――――
本件に関して言えば、男が咎めを受けることは、おそらくない。
「演技は、やめていただきたい。状況は既に、もはやそんなものが通用しないところまで来ている」
「……だろうな。動きに迷いがなさすぎる」
「こうするに至った根拠も、こうできるだけの証拠も、あなたが望むのであれば、幾らでも提示します。ともかく、まずはあなたの口からギルタブに戦闘の中止命令を。無論……」
「メテオメイルを用いた攻撃だけでなく、ヴァルクスの隊員やラニアケアに被害を与える行為の一切を禁止にしろ、だろう? 心配せずとも、ちゃんと行間は読めるさ。私はエウドクソスの一員ではあるが、組織謹製の“生徒”ではないのでね」
ロベルトが、悪びれもせずにそう返すと、ようやく男の表情は人間味のあるものとなった。
寄せた眉根の中に、どれほどの感情が押し込められているのかは、ロベルトが一番よく知っている。
男が次々と大切な人間を失っていく様を、そしてその悲しみを正しく処理しきれずに苦悶する様を、ずっと間近で眺め続けてきたロベルトが、一番よく知っている。
「では、アレに通信を試みてみようか。とりあえずは君の要望通りにしてみせるが、既に犠牲者が出ていたのならば、すまないな」
言いながら、ロベルトは懐に忍ばせていた携帯端末を取り出す。
外見は、通常の業務で使用している軍からの支給品と同型のモデルだが、内部構造は全くの別物――――味方との通信および基地内の盗聴・盗撮に、機能が特化していた。
ホーム画面とそこに置いたアプリケーションだけは本物と遜色ないため、例えこれが衆目に触れたとしても、ロベルトの立場と話術を以てすれば、どうとても言い逃れはできた。
だが、その上部に外付けされた、いかにも特殊任務用といった無骨なアンテナ装置は、たまたま持っていたでは到底済まされない代物である。
ロベルトは自ら、いよいよ何もかもを確定的にしてしまったのだ。
それにより、男の―――――ヴァルクス司令官、ケルケイム・クシナダの眼光は、オーゼスに対して向けるそれと同質のものに転じた。
慈悲と躊躇いを完全に捨て去った、復讐者としての鋭さが、ロベルトを突き刺す。
「できれば疑いたくなどなかった。軍に入る前から付き合いのある人物がエウドクソスに与しているなど、考えたくもなかった。……だが、あなたが内通者であると仮定すると、辻褄の合う事柄があまりにも多すぎた」
「ふむ……」
「最たるものは、ギルタブの行動です。あなたが島内に滞在している場合とそうでない場合で、あの男の取る対応の早さと柔軟性に大きな差異が見受けられた」
「イレギュラーな状況を意図的に作り上げ、何度も揺さぶりをかけてきていたものな。少々あからさますぎるきらいはあったが、実際に通用したわけだから、及第点といったところか」
不信感を抱いた最初のきっかけは不明だが、ともあれケルケイムはそれ以降ずっと、自分を確実確保できる状況を思い描いていたのだろう。
その末に考案したのが、どこにも逃げ場のない、この地下エリアで孤立させる策だったというわけだ。
無理に誘導するのではなく、他の作戦――――それも必ず実行する必要のあるものに混ぜ込んできたのが、実に巧妙な点である。
ここで仕掛けてくるのではないかという予想はロベルトにもあったものの、ケルケイムの味方という立場を完璧に演じ抜こうとすれば、単身コントロールルームに行かざるを得なかったのだ。
異を唱える余地のない圧倒的な合理性の檻に、ロベルトは閉じ込められたのである。
「たった今、指示の送信が完了したよ」
これ以上抵抗する意志がないことのアピールも兼ねて、ロベルトは端末を掲げてみせる。
操作している間に、一切会話らしいことをしていないため、ケルケイムが訝しむような目つきになるのは仕方のないことだった。
「そう怖い顔をしないでくれ。この端末は、暗号の送受信しかできない仕様でね」
「その言葉を、信じるとでも?」
「逃げ場のない私が、今ここで嘘をついても仕方がないだろう。打ち込んだコマンドは、攻撃の即刻中止と安全な距離までの後退。そちらから追撃しない限り、アレが反撃に出ることはない。おめでとう、ケルケイム君……これでとうとう、ヴァルクスに自由を取り戻すという君達の念願は叶ったわけだ」
「まだ完全に膿を取り除けたわけではありません。私の読みが正しければ、隊員や基地職員の中に何人か、あなたの息がかかった者がいるはずだ」
「その調子だと、既にある程度のところまでは絞り込めているようだな」
「何がおかしいのですか」
ロベルトが思わずこぼしてしまった笑みに、ケルケイムがいっそう目を細める。
どうやら、嘲弄の意図があるものと受け取られてしまったようだ。
確かに、素直な称賛が送られていると考える方が難しい状況ではあるのだが。
「いや……ここしばらくの間に、随分と狡猾な男に成長したものだと思ってね。私の目が届かないところで、司令官としてやるべきことを、しっかりとやれている。一人前とするにはまだまだだが、常に二重三重の策を張り巡らす姿勢が身についているのならば文句はない。あとは時間の問題だ」
「これも全て、あなたのおかげ……ということになるのでしょうね。そう、最初から全てが」
「そうだな、そうなるな」
ロベルトが軽々しく発した肯定の言葉は、ケルケイムにとって途方もない重みを持つ。
ロベルトがかねてよりエウドクソスの一員であったのならば――――
ケルケイムは、実に二年近くに渡ってエウドクソスの用意したシナリオの傀儡になっていたということになるからだ。




