第123話 Snowdrop(その7)
初めて顔を合わせ、その為人を知ったときにはもう、ノルンは確信を得ていた。
自分の全ては、ケルケイム・クシナダという一人の男のためにあることを。
それから間もなくして、確信は、揺るがぬ覚悟へと転じた。
自分の全てを、ケルケイム・クシナダという一人の男のために捧げると。
「私は、浅ましい女です。最初にお会いしたときから気づいていました……あなたの抱える歪さにも、いずれそこから生まれ出る弱さにも」
機械仕掛けの巨人が入り乱れて戦う中、ノルンはスノードロップ号のデッキ上に作り出された檻の中で、ただ懺悔するように呟いた。
オーゼスが本格的な活動を開始し、世界が一方的に蹂躙され続けた一年前。
社会全体が混迷の極みにあり、力を持つ者の多くも保身に務めていた時代。
そんな恐怖と怯懦のはびこる世界で、たった一人、大々的に打倒オーゼスを、ひいては連合製メテオメイル建造の声を上げる者こそがケルケイムだった。
ケルケイムの背後には、ノルンの父であるヴィルヘルムや、その知己であるロベルトなど、軍の内外に強い影響力を持つ後援者が幾人も控えている。
ほどなくして計画が動き出すことになったのも、彼らの尽力あってこそ――――所詮は、矢面に立ちたくない彼らの代わりに担ぎ上げられた男であろうというのが、当初のノルンの見解だった。
しかしケルケイムは、ノルンの想像を遥かに上回る形で、あるいは下回る形で、並々ならぬ異常性に満ちた存在であった。
例えるならば、自らのことを孵ったものと錯覚している、孵らぬ雛。
まだ生まれてもいないのに、人生を歩んだ気になっている、その悲しいまでの愚かしさ、救いがたさにノルンは初めて絶望に近い感覚を味わった。
「ですが、それゆえに、あなたを救わなければならなかった。あなたこそが、世界で最も救われなければならない人だったから」
誰よりも悲しみを背負った存在であると勝手に断じ、その救済のために、誰よりも心血を注ぐ。
言葉にしてみれば、自分がケルケイムを愛する理由の、なんと独善的なことか。
無論、本人の前で直接語ったこともある、人並み外れた清廉さや誠実さに惹かれたという動機も嘘ではない。
だが、それらの要素を空虚な魂の上澄みと考えている時点で、不躾であることに変わりはない。
ノルンの胸中には常に、自らの利己的な部分を伏せている罪悪感があった。
表向きはケルケイムのための献身を謳っておきながら、その実は、自分が幸福感や満足感を得るための行為。
聖者には程遠い、どこまでも俗な嗜好と思考。
相手が救われればそれで、では終われないのだ。
『伏せててくれ! 今、そいつをぶっ壊す!』
ガンマドラコニスBへの攻撃を止め、急ぎスノードロップ号の元へやって来る鋼鉄の剣士――――セイファート。
その体のいずこかに設けられている外部スピーカーから、ラニアケアで何度か会ったことのある少年の声が響く。
名前は、風岩瞬といったはずだ。
くだけた人柄で、言いたいことははっきりと口にする、負けん気の強い少年。
責任を負うことを嫌う一方で、他人が困っているところを見捨ててはおけない面倒見の良さも持ち合わせる、いかにもな若人という精神構造は、見ていて微笑ましいものがある。
最後に言葉を交わした半月前よりも、声に頼もしさを感じられるのは、戦闘中であることを差し引いても気のせいではないだろう。
それだけ、一戦ごとに多くのものを得て、成長を遂げているというわけだ。
言われるがままノルンが体を丸めた矢先、セイファートの突き出す長大な刃が、自分を閉じ込めていた電磁フィールド発生装置を次々と刺し貫いて無力化する。
気分の問題だろうが、次に肺が取り込んだ空気は、どこか新鮮に感じられた。
『今のうちに壊しとけって、司令がよ』
「ありがとうございます……」
『後で必ずちゃんと助けてやるから、ちょっと待っててくれ』
こちらの声が聞こえていたかどうかは定かではないが、瞬はそう発して、機体を再びガンマドラコニスBの方へ向ける。
船内には、ノルンだけでなく、まだ数十名もの操舵スタッフや作業員が残されている。
だが、ヴァルクスの投入した戦力は僅かに二機。
彼らには、ただの一人も、戦場の外に運んでいられる余裕はない。
(やはり、ケルケイムさんは……)
直後、ノルンの双眸が捉えたのは、ガンマドラコニスBに猛攻をかけられたバウショックが海中に沈む光景であった。
まず間違いなく、こちらにセイファートを差し向けたせいであろう。
装置を破壊し、自分が生きながらえても、戦闘に敗北するのならば本末転倒。
素人目に見ても、ケルケイムの采配には疑問が残った。
その原因が自らにあることは、先程の瞬の言動を思い返してみても、単なる自意識過剰ではないと言い切れた。
最近になって、ケルケイムの側から好意を向けられているという自覚はあった。
不思議な話だった。
これまで散々、愛する、尽くすと言っておきながら、逆に向こうから愛されることを、ノルンはまるで想定していなかったのだ。
ノルンとしては、ただ純粋に、ケルケイム個人やヴァルクスの活動を円滑に進めるための便利な道具として使ってもらうだけで良かったのだ。
(……あの人は今、ひどく揺れている)
遠く向こうで発せられる、強烈な光の明滅とは関係のない理由で、ノルンは視線を落とす。
揺さぶってしまったのは、他ならぬノルン自身だ。
ケルケイムの内面に大きな変化を求めているという一点においては、ジェルミと何も変わらない。
例えその願いが、己の殻を破り、真に強靭な精神を持つ男になって欲しいというものであっても。
過程だけに着目するなら、ノルンのしていることは、ただただ余計な真似だった。
歪んだ形であるとはいえ、既に一つの塊として成立してしまっているものを、わざわざ解きほぐそうとしているのだから。
ケルケイムという形式的な正しさに支配された人格を、より強固に鍛造しようとするジェルミと、再構成してあるべき姿に戻そうとするノルン。
前者は短期的目線で数々の悪逆に手を染め、後者は長期的目線で対話による干渉を続けているが、実のところ、ケルケイムを導く上で、どちらが正解なのかはわからない。
ノルンのやり方は犠牲者こそ生まないものの、より強く成長を促せるかどうかという部分において、ジェルミのそれより優れているとも言い難いのだ。
結局は、実際に証明できた側が正解であり、勝者。
ただそれだけの、至極単純な話。
そしてノルンは、その勝負において、ジェルミに敗れるつもりは微塵もなかった。
「だから、私は……!」
時間にしてみればほんの僅かとはいえ、無意味に立ち止まってしまっていたのが悔やまれる。
ノルンは、すぐさま船体側面に設けられた階段を駆け降り、テンダーボートが格納された場所へと向かった。
近くの操作盤で懸架装置を作動させ、右端の一隻を海面へと下ろすと、更に階段を降りて手早く搭乗を果たした。
無論、船内に残れと指示した他の乗員を残し、一人逃亡するためではない。
逆に、他の全員が生還するための確率を限界まで上げるための行動だった。
ノルンが知りうる限りの、ジェルミ・アバーテという人物の性格、嗜好。
そこから予測できる、ジェルミの次なる一手は、ほとんど一つに絞ることができた。
そして次の瞬間、ノルンの思い描いていた状況が、眼前でそのままに再現される。
スノードロップ号を目標として、残存する首の主砲を全て撃ち放つガンマドラコニスB。
そこに割って入り、盾となるセイファート。
船を守ることを諦めるか、守りきれる可能性に賭けて危険を犯すか――――ノルンを閉じ込めていた檻が破壊された今、ジェルミがケルケイムに選択を迫るのならば、これが最も効果的な方法なのだ。
ほとんど反射的に、ノルンはボートのスロットルを全開にして、スノードロップ号から離れようとする。
「くっ……」
セイファートが何らかの防壁を展開し、放射される雷の直撃こそ免れているものの、膨大なエネルギーの生んだ余波が、荒波となって船体を襲う。
あと数秒動くのが遅れていたら、搭乗することさえ極めて困難になっていただろう。
そして無論、そんな状況では、一般的な性能のボートなどほとんど前進しない。
秒速一メートルか二メートルか、ここが陸上であれば今すぐ飛び降りて走り出したいくらいの遅さだ。
だが、それでもノルンはボートを操り、ただひたすら向かう。
セイファートより前の空間――――安全圏の外へと。
ケルケイムのために。
ケルケイムが守ろうとしている、自分以外の、全てのために。
今日こそが、ノルン・エーレルトという人間の何たるかを示す、その日だった。
「あともう少し、もう少しだけ持ちこたえてください。セイファート……!」
焦りが生まれる。
セイファートが頑強とは対極のところに位置する機体であることは、これまでの戦いで幾度となく衆目に晒されてき確たる事実であり、もはや世界の共通認識となりかけている。
どう贔屓目に見ても、三十秒より長く持ちこたえられそうにはない。
ノルンが越えるべきラインまで、まだ数十メートルの距離があるものの、既に全身の皮膚に激痛が走るほどの熱量が防壁を超えて届いている。
ここから先に進めば、例え次の瞬間に砲撃が止んだとしても、ノルンの体は無事では済まない。
だが、なおもノルンは、光の迸る白き彼方を目指す。
すると直後、その確固たる意思に、とうとう世の理が根負けする。
これまでノルンの行く手を阻んでいた波が揺り返し、今度は逆に、引きずり込むような勢いで前へ前へと誘い始めたのだ。
自分の無謀で愚かな願いに応えてくれたのか、あるいは呆れ果てられたのか。
それはわからないし、どちらでも構わなかった。
ただノルンは、世界を統べる何者かに無上の感謝を送る。
そう、これで全ては――――
全てが――――
「ジェルミ・アバーテ!」
一切の憂いも後悔も露わにすることなく、ただ前を見据えて。
ノルンは自分の真向かいに立つ者へ、高らかに勝利宣言を放った。
成すべきことは、これで終わりだった。
「ジェルミ!」
その光景を目にして、瞬の口から真っ先に出てきたのは、怨敵への嘆願を意味する叫びだった。
滞空し、ストリームウォールを展開し続ける、満身創痍のセイファート。
その足元の空間を抜け、ノルンの搭乗する小さなボートが防壁の範囲外へ飛び出そうとしている。そんなまさかの事態に、直前まで積み重ねていた思考の全てが消し飛んでしまった。
だから、ラスタバンによる砲撃を止めろという、何の強制力もない反射的な要望しか言えなかった。
「今更、何を……」
「ノルンさんが!」
慌てふためく瞬の表情に、たまらず愉悦の笑みを浮かべるジェルミだったが、続く一言を受けてたちまち表情を険しくする。
だが、そのときにはもう、何もかもが手遅れだった。
ライトブラウンのセミロングヘアと、チャコールグレーのビジネススーツを着込んだ細身の体。
別の誰かと見間違えた、ということはない。
その姿が、風圧防壁の効果が及ばぬ海面間際を潜り、怒涛のごとく押し寄せるプラズマ光の中に消えていく。
メテオメイルの装甲すら容易に撃ち抜くほどの破壊力。
人体が浴びればどうなるかなど、言うまでもない。
照射時間が限界を迎えたのか、ジェルミが途中でトリガーから手を離したのか、程なくして、ガンマドラコニスBがラスタバンの放射を停止する。
「おい瞬、今テメー、何つって……」
かすかな動揺を見せる轟の問いに、瞬は無言を貫いた。
どう答えるべきか、当分、整理が付きそうにないからだ。
だがそれ自体が返答となって、轟もまた押し黙る。
大きな波紋を生んだ後、徐々に穏やかさを取り戻していく、ビスケー湾。
そこには、何も浮かんでいなかったし、浮かんでもこなかった。
そのことを十分に確認するだけの時間が、瞬と轟、ジェルミの間で流れていた。
誰もが、たった今起きたことを信じられず、ただ呆然としていた。
轟もジェルミも、自分と同じように、完全に戦意を喪失していた。
「あの女……!」
長い長い静寂を破ったのは、ジェルミだった。
言葉と同時に漏れ出るのは、くぐもった笑み。
しかし、そこに普段のような不気味さ、不穏さはない。
代わりに含まれていたのは、狂気すら感じさせる、むせるような息遣い。
予想外の出来事とはいえ、結果的にノルンを排除できたことに対しての喜びかと瞬は勘ぐるが、違っていた。
ジェルミの表情に色濃く出ていたのは、恐怖と絶望。
他ならぬジェルミ自身が、ケルケイムを始めとした大勢の人間に与え続けてきたものある。
ノルンの大英断によって、それらはようやく、ジェルミの懐にも抉りこまれた。
やっと、あの最も悪辣非道な男の精神に大きな罅が入るときが来たのだ。
「こんな手が……こんな手があろうとは……! ワタシの目論見を、願いを、望みを……! 風岩瞬でもなければ北沢轟でもなく、ケルケイム君でもない、あの何の力も持たない外野が! ただワタシに命を奪われるだけの女が!」
「ノルンさんの代わりに言ってやる。……あんたはもう、司令から何も奪えねえ」
操縦桿に乗せただけの両腕をわなわなと震わせながら、瞬は断言する。
たった今、答えは導き出せた。
ノルンが命を賭してまでやろうとしていたこと、そして、本当にやり遂げたこと。
それは、ケルケイムという人間の中身を詳らかにすることだ。
ジェルミに対してだけではく、ケルケイム本人に対しても。
「司令が正しいことばかりする奴なんかじゃないってことを……あんなものが正しさなんかであるわけがないってことを、ノルンさんは、体を張って見せつけたんだ。これ以上なくわかりやすい形で、司令の間違いを補ってみせたんだ」
ノルンを助けることに気を取られすぎて右往左往した結果、ケルケイムが執ってしまった不合理な指揮。
ともすれば有耶無耶になっていたかもしれないその失態を、ノルンは自分自身をケルケイムの選択肢から取り除くという極端な方法で、間接的ながら間違いとして断定した。
同時に、おそらくは、あまりにも手本に乗っ取りすぎた生き方そのものも。
今にして思えば、この戦いにおけるケルケイムの動揺ぶりは、どこか大げさすぎた。
その反応すらも、そうすべきの範疇で行われたものだったのだろう。
『……その通りだ』
この事態に誰よりも驚愕し、誰よりも悲しみの中にいるであろうケルケイムが、やっと声を上げる。
あくまで音声通信のみであるため顔色は伺えなかったが、その面持ちに、もう以前のような無機質さがないことは明らかだった。
大きな変化が起きたことを確信するには十分すぎる、熱のこもった一言だった。
ケルケイムは今このとき、義務感で心と体を動かす生き方と、完全な決別を果たしたのだ。
『これまでも、自分に至らない部分が多々あることは、再三にわたって公言してきた。だが今、そこで狂乱の極みにある男に向けて、敢えて、改めて言おう。それらは正確な表現ではなかった。何かが不足しているのではない。私は根本から、進むべき道を違えていた。ジェルミ……貴様と同じで、間違いに塗れた存在だったのだ。いや……ともすれば、貴様以上にだ』
「ふざけるな……! そんなことが、あっていいはずがない! キミがそれほどの大きな間違いを抱えているなど、あってはならない! あってはいけない! だとしたら、ワタシは何なのだ!? キミから正しさを奪うためだけに、五年もの間、心血を注いできた、このジェルミ・アバーテの存在意義は!」
「そんなもんは、ねえよ。元々なかったようなもんだけど、ノルンさんのおかげで完全になくなっちまった」
「ワタシの乾きを潤してきた悦楽も全て、正しい正しさではなかったというのか!? 間違った正しさを奪ったことに歓喜していたというのか!? ワタシの間違いとは、正しさの何たるかを見極め損ねるところから始まっていたというのか!? 馬鹿な、馬鹿な……馬鹿な!」
「負けだよ、あんたの」
ジェルミの虚しくも正確な自己分析を肯定することもせず、瞬はただ、冷ややかに通告する。
結局のところ、ジェルミに打ち勝つには、ケルケイムが自発的に居直るだけでよかったのだ。
ジェルミを昂ぶらせていたのは、どれだけ打ちのめされてもなお正しくあろうとするケルケイムの、その姿勢なのだから。
ジェルミの最終目標は、ケルケイムから正しさを奪い尽くし、その果てに間違いを認めさせること。
ゆえに、ケルケイムが途中で自らの間違いを認めさえすれば、企みは一挙に破綻するというわけである。
あまりにも強固で、しかしこの上なく簡素な呪縛。
それが解かれた今、完全に勝敗は決した。
戦い続けるための理由と原動力を奪われるという、この上なく奪略者に相応しい報いを受けて。
「もっとも今の段階じゃ、あんたが負けて、ノルンさんが勝ってるだけだ。オレ達ヴァルクスは、何の成果も挙げてねえ」
『ああ。我々の戦いは、まだ終わっていない。セイファートは決戦兵装を使用可能な適正高度まで上昇。バウショックは後退、スノードロップ号に船体の後部から取り付け。壁となりつつ、転覆も阻止しろ』
ケルケイムが、堰が切れたかのような勢いで、一息も入れることなく言い放つ。
それは、敵を討たんとする確かな意思が介在した、血の通った言葉。
聞く者の情動に作用し、心の底から従わせる力を内包した、本物の命令。
内容自体に特別なところはないが、感じられる頼もしさは、以前とはまるで別物。
あたかも、強い追い風を受けている気分になる。
瞬は指示された位置――――分厚い曇天を抜けた先一気に飛び上がり、背面に装着された補助翼兼斬撃兵装“天の河”の一本を引き抜く。
そのときになってようやく、ジェルミも再び動き始める。
「だが……まだ奪えるものは残っている。風岩瞬、北沢轟、そしてスノードロップ号に取り残された有象無象……!」
残る三頭に備わるラスタバン、その砲口に、またも禍々しい光が収束していく。
先の一射から、もう数分近い時間が流れている。
当然、冷却は既に完了しているというわけだ。
首の向く先は、三頭全てが上空――――セイファートに。
スノードロップ号の防衛に戻ったバウショックのクリムゾンショットは、その位置からの投擲ではガンマドラコニスBに対する有効打とはならない。
この状況において、ジェルミが対処に専念すべきなのはセイファートのみ
冷静さこそ失ったジェルミだが、判断力は未だ健在というわけである。
「そうとも、難しい話ではない……! ワタシのケルケイム君が何者になろうと、近しき者と守るべき者、全て屠れば心も折れよう。それは絶対の理、けして間違いなどではない!」
対し、セイファートのストリームウォールは完全に破損し、風圧防壁の展開は行えなくなっている。
どのみち、内部の金属粒子が枯渇しているため、ラスタバンのような非固体タイプの攻撃は防げない。
もう一度、最大出力発射の直撃を受ければ、今度こそセイファートは消し炭である。
だが、瞬は攻撃の予備動作を止めることはしない。
ケルケイムが止めることもない。
気の逸った轟が、迂闊に動き出すこともない。
既に、決定しているからだ。
これからジェルミの辿る道は、さながら運命のごとく、強固なまでに。
何かがジェルミにとって有利な方向に傾くとしたら、それは誰かが臆したとき。
しかし、今この場において自分たちの勝利を疑う者は、ヴァルクスの中に一人としていない。
『瞬……』
ちょうど瞬が、ガンマドラコニスBに対して突撃する軌道の調整を終えたとき、ケルケイムが今一度通信を入れてくる。
ともすれば、絶大な火力を誇るラスタバンに迎撃されかねない、極めて危険な行為。
部隊としても、貴重な機体とパイロットを失ってしまいかねない、リスキーな判断。
一撃で仕留めるか、仕留められるか。
多大なる恐怖と緊張を伴う、慎重かつ精緻な観察眼と鋼のごとき精神力が求められるはずの一手。
しかし――――ケルケイムが瞬に投げかけるのは、不安を和らげる類の言葉ではなかった。
ただ静かに、生命の境界線に向かって飛ぶことを命じる。
『やれ』
「了解」
痛快さすら覚える端的で力強い一声を受け、瞬はセイファートの全スラスターを最大出力で噴射。
刃を携えたまま、眩い煌めきを放つ流星となって、一瞬の内にガンマドラコニスBの元へ堕ちた。
同時に放たれた三条の電光は、その全てが、虚しくセイファートの真上を通り抜けていく。
海中から突如として浮かび上がってきた、三基の紅き球体―――クリムゾンサテライトに頭部を跳ね上げられて。
そう、これこそがケルケイムの打ち出した策。
勝利を瞬達に確信させる理由。
ラスタバンの迎撃を躱しきり、セイファートの奥の手“流星塵”を命中させるための条件は、見事なまでに整っていたのだ。
ガンマドラコニスBに、他にセイファートを一撃で葬る手段は残されておらず、そしてその巨体では、神速で襲い来る斬撃を回避することは不可能。
勝負は遂に、決着の時を迎える。
「言ったはずだぜ……あんたが司令から奪えるものは、もう何もないってな」
幻想的な白光が戦場を照らした刹那、砕け散って舞い荒ぶ、銀灰色の塵。
数瞬前まで刃の形を成していたそれは、ガンマドラコニスBの胴体を抉るように激しく炸裂して、最終的に両断してしまえるほどの盛大な破壊を生み出していた。
脱出装置の起動もできないほど、徹底的に削り取られた内部機関。
天の河を振り抜いた後、物言わぬ五頭竜の躯の元へと引き返してきた瞬は、その最奥部から球形の結晶体――――HPCメテオを引きずり出し、天高く掲げた。
ケルケイムの魂を解放し、此度の勝利の立役者となった、運命の女神へ見せつけるべく。
「皆さん……やっぱり、ここでしたか」
ラニアケアの東端、リゾート施設として開発されていた頃の名残である芝生地帯。
そこで無為に時間を過ごしていた、瞬、轟、ケルケイムの元へメアラが歩み寄ってくる。
もっとも、無為ではあったが無意味ではない。
心の休息が、今の自分達には必要だった。
フェンスにもたれかかっていた瞬は、メアラの声で我に返り、それでようやく、日が沈みかけていることに気づく。
見えてはいるのだが、見ることに、まるで意識を割いていなかったのだ。
ベンチに背中を預けている轟、立ち尽くしているだけのケルケイムにしても、同じだろう。
寂寞とした空気が、もう何時間も三人の間に流れていた。
「すまなかったな。ともすれば一番酷な仕事を、一番若い者に任せてしまって」
「いえいえ。大事なことですから、とっても」
ねぎらいの言葉をかけるケルケイムに、メアラが薄く笑って返す。
その気丈な態度は、傍から見ているだけの瞬にとってもありがたい。
「……結局、ノルンさんは見つからずじまいでした。ジェルミさんもですが」
「そうか……」
メアラの報告を受けるケルケイムの表情は、複雑な心境をそのまま写し取ったかのように、なんとも言えないものであった。
ガンマドラコニスBとの戦闘が終了してから、既に丸一日が経過していた。
その間、ヴァルクスは湾内に留まり、追加でロリアン基地から派遣された部隊と共に、事後処理にあたっていた。
具体的には、ガンマドラコニスBの残骸と、そのパイロットであるジェルミ・アバーテの遺体の回収。
そして、ヴァルクスに先だって交戦した艦隊の生存者や、自ら船外に飛び出したノルン・エーレルトの捜索および救助。
ヴァルクスは純然たる戦闘部隊であり、これまでもそうであったように、諸々の後始末は領分の外。
今回の協力は、参加者それぞれが名乗りを上げた、あくまで自発的なものであった。
そんな彼らに対し、ケルケイムは、「またいつ戦闘が始まるかもしれないという状況で、そんなことに時間を割いている場合ではない」と即答。
司令官の立場としては、そう言わざるを得なかった。
だが、セイファートとバウショックの修理が完了するまでという期限付きで、ケルケイムは特別に申請を認可、上層部からの許可も取り付けた。
メアラも協力を買って出た一人で、ゲルトルートを用いて、探査機材の届かない深海を何時間も動き回ってくれていた。
瞬や轟にしても、未だ心身ともに疲弊はしていたが、必要とあればメアラと交代するくらいの意思は示していた。
結局、ケルケイムも、それ以外の人間にしても。
ノルンに関わる決定的な何かを発見しない限りは、気分に区切りをつけることなどできなかったのだ。
メアラの報告によれば、まだ該当するものは発見できていないとのことらしい。
ただ海中に転落したのとはわけが違うのだから、当然といえば当然の結果だった。
だが、その当然を聞けたことで、胸中にかかっていた靄は幾分だが薄らいだ。
そろそろ、撤収の頃合だということだ。
「ジェルミについては、もう、どうでもいい」
仇敵の生死について話しているとは思えないほど、ケルケイムのそれは、ひどく淡々とした口調だった。
「おとなしく死んでくれているのならば、それで良し。万が一、再び現れるようなことがあっても、それは私達に幾度となく苦渋を味わわせてきた“オーゼスのジェルミ・アバーテ”ではない。風格も僅かばかりの誇りも失った、取るに足らない別の何かだ」
「どのみち、エウドクソスに尻尾を振ってやがったわけだから、名実ともにだな」
言いながら、轟はジーンズをはたいて、ゆっくりと立ち上がる。
だが、その場から去ろうとはしない。
まだケルケイムには、語るべきことが残っているからだ。
ケルケイムにそんな素振りがあるから待つのではない。
吐き出してもらいたいからこそ、待つのだ。
それは瞬もメアラも、同じ思いだった。
無理に言わせたくはなかったが、だからといって、このまましまい込んで欲しくもなかった。
三人は、体の向く先をそのままに、ただ冷たい海風を浴び続ける。
「……昨晩、最高司令部のエーレルト中将と話をする機会があった」
しばしの時間が流れた後、ケルケイムがようやく最初の一言を絞り出す。
低く、掠れた、本当に苦しげな声だった。
「先だって事の顛末を報されていた中将は、『君が気に病むことはない。あれはきっと、いずれこうなることをわかっていた。わかっていた上で、止まらなかったのだ』と仰られた。それは事実なのかもしれない。だが、そうだったからといって、私の手落ちであることに変わりはない」
「馬鹿言え、オレ達だろ。司令が取り乱してたことを差し引いても、それでも、やりようによってはどうにかなる範疇だったんだからよ、ノルンさんのことは」
「指揮官があてにならなくなるという事態そのものが論外だというのだ。そうでなくとも、ヴァルクスの部隊運用において生じる責任は全て、司令官の私にある」
それこそ、ケルケイムがたったいま口にしたばかりの、“そうだからといって”だ。
責任の所在が他にあったとしても、自分達の胸中にある後悔が消えるわけではない。
誰か一人が引き受けることも、誰か一人に押し付けることも、できはしないのだ。
「だったら八割だ。司令が八割、オレと轟で一割ずつ。それ以上は譲らねえ。なあ轟」
「俺はテメーほど負い目を感じちゃいねーが、かといって無関係を気取るつもりもねー。そのくらいなら、貰っておいてやる」
相手の意を汲みつつ、こちらの意も汲んでもらう――――これが瞬のやり方だった。
相変わらず自分の請け負う割合の方が低いが、状況的にも、アダインに宣言したときより格好はついているはずだった。
「そうだな……そのくらいならば、いい」
ケルケイムが寂しげな表情のままとはいえ、呆れ混じりに苦笑するのを見たのは、おそらく今日が初めてだった。
そして、気持ちが少しだけ緩んだ勢いに任せてか、今度はそう間を置かずに言葉を紡いだ。
「人生の中で初めて……私という人間の、私さえ知らない本質の部分を理解してもらえたような気がした。それだけで彼女は、私にとっての、かけがえのない存在になった。自分自身すら自分の支えにできない男が見つけた、初めての、心の拠り所だった」
ケルケイムが、中身のある言葉をこうも立て続けに発するのは、未だに不思議な気分だった。
今の二言三言だけでも、重みの合計において、昨日を除いた過去半年分に勝ることだろう。
それほどまでに、以前のケルケイムは空虚な存在であった。
いついかなる時であろうと、誰にでも言えてしまうようなことしか言えていなかった。
「軽蔑してくれて構わない。私が彼女に惹かれた理由は、その根源にあるのは、庇護の心ではない。むしろその真逆……守られたい、支えられたいという甘えの心だ」
不意に聞こえてきた軋み音は、ケルケイムの拳から発せられていたものだ。
口調こそ静かであったが、込められる力から、ケルケイムが自分自身の情けなさに対してどれほど憤っているかは瞭然だった。
瞬達の中に、その様子を笑うことができる者はいない。
理想に溺れ、甘えるための存在を自ら作り出そうとしたメアラ。
甘えようとした相手から別れを告げられ、もどかしさを抱える轟。
そして瞬にも、無意識かつ不躾に全身を預けてしまっているような、そんな相手に心当たりがないわけではない。
「彼女を遠ざけようとしていたのは、彼女の身を案じる以上に、そんな自分の弱さが露呈することを恐れていたからだろう。だが、弱い人間に、突き放す力があるわけもない。あの日、お前達が割って入ってこなくとも、どのみち私は彼女の熱意の前に折れていた」
「仕方ねえよ。あの人より押しの強い奴ってのは、想像がつかねえ」
「それが彼女の美点であり、魅力だった。だから大切にしたかった。大切に、されたかった」
「司令……」
「なのに……! 私は、みすみす、最後まで……!」 」
とうとう我慢できなくなったのか、呪詛にも似た悔恨の念がその口より吐き出された。
辿々しく、そして裏返った、壊れたラジオのような声。
いたたまれなさを覚えながらも、瞬達は、ケルケイムの悲痛な嘆きを全身で受け止める。
「ノルンは、あれで満足だったのか? 自分の命を擲つことに後悔はなかったのか? 生き残った我々が、のうのうと彼女を追悼する権利などあるのか? こんな事態を引き起こしてしまった自分達の愚鈍さを、もっと恥じるべきなのではないか? 一体何が彼女の意思に対する尊重で、何が冒涜なのか……私には、わからない」
その自問自答は、ケルケイムの胸中に残る最も大きなわだかまりを婉曲的に表現したものであった。
なにしろケルケイムは、スノードロップ号がジェルミの襲撃を受けて以降、ノルンとただの一度も言葉を交わしていない。
もっと言えば、あのとき、どんな装いで、どんな表情をしていたのかさえ目にしていない。
気付いたときには、何もかもが終わってしまっていた。
つまりケルケイムにとっての、ノルンが最期を迎える様子は――――その際の姿や心境は、ほぼ十割が空想の産物。
瞬がもたらした最低限の情報から逆算して導き出した答えなのだ。
もっとも、だからといって、ケルケイムが本当に何もわかっていないということはない。
ノルンの示した行動はけして、どうとでも受け取れるような、あやふやなものではなかったのだから。
ノルンの思いを確かに受け取り、自分の殻を打ち破った現状を見ても、それは明らかだった。
しかし、その大前提を踏まえても、ケルケイムには躊躇いがあるのだ。
その場に居合わせることが出来なかった自分程度が、さもわかったような口ぶりでノルンのことを語ってもいいのかという躊躇いが。
「なんでもいいんじゃねえのか。誰にでも言えそうな、薄っぺらい言葉以外ならなんでも」
だから瞬は、再びノルンの代弁者を気取ることにする。
それこそが、たった一人、昨日のノルンと直に接触できた者の責務であると信じて。
確実性、正確性については、もちろん瞬とて、絶対の保証など出せはしない。
だが、欠けた歯車を補い、人間として正常に稼働してほしいというのがノルンの願いなら、それで及第点くらいは貰えるだろう。
例え一生悩み続けようとも、それが真剣に熟慮した結果である限りは。
今のケルケイムに必要なのは、今のケルケイムの出す答えは全て正解だという肯定なのだ。
「ああ……」
そんな瞬の意図を察してくれたのか、頷くケルケイムの渋面は、少しだけ和らいだものとなっていた。
とはいえ、依然として沈痛の色も濃く、総合的には、けして大丈夫とは言い難い。
しかしケルケイムの場合は、それ故に、もう心配はいらないと言い切れた。
存分に悲しむことができなければ、本当に立ち直ることなどできないのだ。
「……いつか、気持ちの整理がついて、私だけの答えを出せるときが来たら、もう一度ここに来る。そして供えよう。彼女の好きだった、スノードロップの花を」
ケルケイムが僅かな落涙とともに放ったその宣言は、自分自身に向けたとりあえずの回答であり、長い長い吐露の締め括りでもあった。
四人は、消えかかる夕日が放つ細く眩しい光を背に受けながら、めいめいの速度で帰路へと着く。
冬の終わりに、うつむくようにして咲く白い六弁の花――――スノードロップ。
自宅の庭園に専用の花壇を作り、組織の顔ともいえる客船に独断で命名してしまうほど、ノルンはそれをいたく気に入っていた。
あくまでメアラ情報にすぎないが、その花言葉は、“希望”と“慰め”。
そして、“初恋の訪れ”とのことらしい。




