第121話 Snowdrop(その5)
「お前が常に正しいのは、何も愛していないからだ」
遠い昔――――ケルケイムは、知人の誰かにそんな言葉を投げかけられたことがあった。
誰だったのかは、まるで思い出せない。
その人物とのおおよその間柄も、それを聞いた場所も、時間もだ。
何故なのかは、この上なく明白だった。
発言内容そのものの印象があまりにも強烈すぎたからだ。
そこに紐づく他の要素は、忘れてしまったのではなく、そもそも記憶し損なっているというわけである。
「人も、物も、事象も、概念も……お前は全てを一歩引いた場所からフラットに見ている。お前が大事にしているのは、大事にすべきと他人が決めたものだけだ。お前自身には、大事なものがない」
その人物の、そこから先の発言に関しては一気に朧気なものとなるが、しかしニュアンスとしては、おおよそそんな風に続いた。
大事なものがないというのは、語弊があった。
ケルケイムは、いついかなるときでも規範を遵守する誠実な生き方を、大事にしているつもりだった。
まだ人間として未熟であるために、他のものに手を出す余裕を持てていないというだけの話なのだ。
それに、規範に順ずることは、少なくとも人として及第点の生き方ではあるように思う。
当時のケルケイムも、そのように反論した気がする。
ケルケイムは、低俗な侮辱や理不尽な罵倒の類は、まるで意に介さない。
しかしさすがに、自分が愛という概念を蔑ろにしているとも受け取れる一言には、物申さざるを得なかった。
何故なら、何かを愛することは――――何かを特別に好むことは、人間に備わる基本機能なのだから。
そのくらいは、やろうと思えばいつでもできるはずだった。
しかし、そう返したことで、その人物の声色は余計に切実さを増した。
「だからお前は、人の上に立つのに向いているようで、その実、どこまでも向いていない。物事に、自分自身の手で優先順位をつけたことがないからだ。指揮を執る者として、こんなにも危ういことは他にない」
その一言について、当時のケルケイムは何も言葉を返さなかった。
わずかほども、その人物の言わんとすることを理解できなかったからだ。
今になって振り返ってみれば、どれほど過去の自分が愚かであったのかが、よくわかる。
慚愧の思いで、全身の血潮が肉体を焼き尽くさんばかりの熱を持つ。
自らの抱える重篤ものの欠陥を長年に渡って見逃した上に、これほど適切なものがあろうかという注意喚起を聞き流すという失態。
怨敵であるジェルミを呪っている場合などではなかった。
「こういうことか……!」
攻勢に出たガンマドラコニスBの猛攻を受け、海中に転落するバウショック。
その光景をモニターで見ながら、ケルケイムは切歯扼腕する。
一時的なものとはいえ、セイファートとバウショックを分散させてしまったが故のミスだった。
卓越した判断力を持つジェルミならば、その隙を突いてくるに決まっているというのに。
瞬は、その状況を把握しつつも、ケルケイムの指示通り、まずは船上のノルンを取り巻く電磁フィールド発生装置の破壊を優先する。
ジェミニソードの切っ先が半数ほどの発生装置を刺し貫くと、展開を維持するだけのエネルギーが供給できなくなったためか、フィールドは一気に解かれる。
これで、三十分という時間の制約は消失した。
だが――――
「だから言っただろう。今は、二機がかりで攻撃に徹するべきだと。今の一手……全くの無駄ではなかったが、クリムゾンサテライトと引き替えにする価値があったとは到底思えない」
口調の端々にケルケイムへの失望を垣間見せながら、ロベルトが冷たく言い放つ。
全くもって、正論だった。
セイファートとバウショックが敗れるようなことがあれば、ノルンを始めとしたスノードロップ号の乗員は助からない。
つまるところ、装置の破壊は目下の最優先事項ではない。
タイムリミットを迎えるまでは、まだ二十分近くの猶予があった。
実行するとしても、後回しにできたはずなのだ。
なのにケルケイムは、絶好の機会であると軽率に食いついてしまった。
「申し訳ありませんでした。副司令の仰る通り……私は何を優先すべきか、見誤っていたようです。その自覚はあります」
「自覚があるからまずいというんだ。君の場合は」
「っ………」
「君が常に正しく在るのは、他の誰よりも己の本心に無頓着だからだ。理性と感情が切り離されているからこそ、君はいかなる状況でも正しい判断ができた。願わくば、ずっとそうあって欲しかったものだが、君も結局は人間だったということか」
そう――――ケルケイムの手中にあった正しさとは、理性に縋ることでどうにか維持されてきた、あまりに心許ないものだった。
これまで下してきた決断は全て、そうあるべきと語る、既存の規範をなぞっただけにすぎない。
ケルケイム自身は、何一つとして自らの意思で選んだことがない。
いや、決断に限った話ではなかった。
日常の中の些細な決定すらも、正しいとされているものに、あるいは正しいであろうものに、もたれかかってきた。
その是非を問う葛藤さえも、この状況ならば葛藤するのが人間らしい心の向きであるという、どこか他人事のような観点から生まれたものだった。
どれだけの実績を重ねても一向に己に対する自信が生まれてこないのは、ある意味で当然のことだったのだ。
信じているのは、自分ではなくルールだったのだから。
そして現在、内に芽生えた本物の愛情の影響で、ケルケイムの完全性は瓦解することになった。
重さで規範と競り合う、自分だけの大事なものを手に入れてしまったからだ。
ケルケイムは今、二十七年も続いた人生の中で初めて、心の底から迷うという経験をしているのだ。
「私もジェルミ君やメアラ君を笑えないな。君にいささか、理想を抱きすぎた」
そんなロベルトの呟きは、今のケルケイムにとって、鼓膜を震わせる以上のことはしなかった。
ああまでロベルトに諫言を受けておきながら、まだノルンを安全な場所に逃すことを思考の中心に置いてしまっている。
他のことに、意識を割けないでいる。
視野が狭まっているだけならまだしも、視点そのものが個人の側に寄りすぎてしまっているのは、指揮官として失格というほかなかった。
(他ならぬ私自身が、発したことだというのに……!)
かけがえのない存在を得てしまった場合、きっと判断を間違えてしまう自信がある。
世界のあらゆる場所が戦場になり得るこの時勢において、謀略に巻き込まれないという保証はない。
だから、愛してはならない。
ノルンが初めてラニアケアを訪れた際、付き合いを拒む方便として、ケルケイムはそんな一般論を並び立てていた。
過去の自分の、なんと優秀なことか。
しかし今は、悲嘆にくれている場合ではない。
もう既に自らの判断で動き出してはいたが、ケルケイムはそれでも瞬に、ガンマドラコニスBに対しての攻撃再開を命じた。
「揺さぶりをかけたのはワタシだが、正しさの権化たるケルケイム君らしからぬ過誤……本当に誑し込まれていたのだな、あの女に」
バウショックを海中に沈めた後、スノードロップ号に再接近するガンマドラコニスB。
そのコックピットで、ジェルミが静かに呪詛を吐く。
ジェルミ自身、ケルケイムの明らかな判断ミスに、若干の戸惑いを覚えているようだった。
おかげで、周囲に張り巡らされた警戒心も、やや薄らいでいるように感じる。
大急ぎで引き返した瞬は、セイファートを急上昇させ、ほとんど真上に近い角度からガンマドラコニスに斬りかかった。
今しがたまでの、バウショックを攻撃の要としたフォーメーションに戻せない以上、従来どおりに瞬も攻めに回るしかなかった。
「あんたは、司令を間違わせたいのか、間違わせたくねえのか、どっちだ!」
「どちらもだよ。ワタシは彼の正しさを奪うことを渇望すると同時に、ワタシの企みに屈しない高潔さも求めている。前者が勝るときもあれば、後者が勝るときもある。故に、どちらの望みが叶っても、興奮もあれば失望もある。キミには到底理解できぬ心情だろうな」
「わかりたくもねえ、そんな面倒な性格は!」
放射式から単発式へと切り替えられ、次々と撃ち放たれる雷球。
その全てを躱しきりながら、セイファートはガンマドラコニスBに凄烈な斬撃を浴びせる。
「四十三式、“風車”!」
従来は、上段からの振り下ろしを放つと共に前方へ宙返りを行い、更に続けて二度三度と最大威力の一刀を見舞い続ける技である。
しかし、全身にスラスターを持つセイファートの場合は、着地を差し挟むことなく、技の名通りに空中で回転斬りを持続させることが可能――――チェーンソーのように相手を連続で斬り刻む、より強力な攻撃へと転じていた。
「おらよ!」
六度目か、七度目か。
続けざまにジェミニソードが叩き込まれ、ついにガンマドラコニスBの首の一つが斬り落とされる。
レイ・ヴェールの副次効果によって、コックピット内部にかかるGは大幅に軽減されるものの、内側から発生する遠心力はほぼ据え置きでパイロットを襲う。
血流の乱れによる目眩に耐え、瞬は再び上空へと逃れた。
そして、バウショックも海中に沈んだままではない。
クリムゾンサテライトは先の攻撃で半数ほどが失われ、浮遊台座を形成することは不可能となってしまったが、まだ別の連結パターンが残っている。
「俺を忘れてんじゃねーぞ……!」
海中から飛び出したバウショックが、ラビリントスBを下したときと同じく、クリムゾンサテライトを縦一列の鎖状に繋げて力強く振り回す。
合計にして数十トンもの重量を持つ巨大な球体鎖は、海面近くまで高度を落としていたガンマドラコニスBの胴体を激しく打った。




