第103話 果てに待つもの
南極大陸のとある場所に存在する、オーゼスの本拠。
連合の管理下にある観測基地が全て破壊された現在、人間が居住している空間としては、そこは間違いなく世界の最果てに位置する。
そして――――
「あの、その、はい……私です。井原崎です」
施設の最深部にして最奥部。
たった一基の専用エレベーターで何層も降りた先に存在する、事実上の独立区画。
静かで暗い、底の底。
今、井原崎が訪れているのは、そんな場所だった。
「失礼します」
井原崎は、その区画に存在する唯一の部屋に、おそるおそる踏み入った。
そこは、人が暮らす、ただの一室。
人体に悪影響を及ぼす汚染物質や放射能の類を扱っているわけでもなく、厳重に管理する必要のある希少な何かが秘蔵されているわけでもない。
では一体どうして、こうまで他の区画から隔離されているのか。
その理由は至って単純だ。
部屋の主である“彼”が、遊びの最中に邪魔が入ることをひどく嫌う性格だからである。
他でもない本人が、そう公言している。
だが、一度でも“彼”の部屋に招かれた者は、また別の理由で深く納得してしまう。
ある意味で人としての終点に辿り着いた“彼”と、岸に流れ着いただけの自分達とでは、この距離感こそが適正だと。
まさしく南極のように。
同じ最果ての地でも、極点への到達と上陸の成功では、成果の重みが違う。
「失礼、します……」
背後で自動的に扉が閉まると、井原崎は、もう一度断りの言葉を発してしまう。
なにせ、目の前に広がるのは、淡い白光に包まれた空間。
白塗りの壁と床に照明が反射しているだけだとわかっていても、その非現実的光景に対して臆せずにはいられない。
そして何より――――部屋の中心で横長のソファに腰掛け、鼻歌を口ずさみながら読書に没頭する男は、組織の創設者。
オーゼスという組織を、メテオメイルという兵器体系を作り上げた、全ての始まりなのだ。
「おはようございます、“オーゼス”様」
“彼”のことを、井原崎の場合は、そう呼んでいた。
“彼”は、初めて顔を合わせる人間に対し、こう語る。
自分という存在は、“オーゼス”そのものである――――だから、自分ことはオーゼスと呼んでほしいと。
とはいえ、自分たちの所属する組織と同じ名称では、会話の際に混乱を招くだけだ。
だからかパイロットたちは、“彼”のことを好き勝手に、思い思いの名で呼ぶ。
ある者は“ボス”、ある者は“長”、中には大胆に“お前”とさえ。
そして“彼”は、それら全ての呼称を受け入れた。
不躾であるとも、不遜であるともしない。
誰にも本名を明かさない上に、名前のある役職にも就いていない自分の秘密主義に、そもそもの原因があることを自覚しているからだろう。
加えて、“彼”は自分が組織の最高権力者であるとは考えていないようだった。
そう、“彼”の望む立ち位置は、頂点ではなく中核。
“この指止まれ”を言い出した発起人にして、遊び道具を用意する提供者なのだ。
ゆえに“彼”は、少なくともパイロットたちに対しては、首魁として命令を下すことはしない。
“彼”はただ、この壮大に馬鹿げたゲームを観戦していたいだけなのだ。
とはいえ、井原崎は井原崎である。
他になにが思い浮かぶでもなく、期待の整備や修理を行う技術者たちに倣って、“オーゼス”様という呼称を使い続けていた。
「ええと、はい、何でしょうか」
義郎、と。
親しげに己の名を呼ばれ、井原崎は早足で“彼”の元へ歩み寄る。
“彼”は全ての構成員を、自分と対等な関係にある同志として見ていた。
本人が拒まない限りは、組織内の誰しもをファーストネームで呼ぶ。
“彼”は、すぐ傍までやってきた井原崎に、脇のテーブルに置いていたスティック型の端末を渡す。
端末側面のスリットから立体映像の画面が投影される、この時代ならどこでも買えるような代物だ。
「これは、その、メテオメイル用の構造材の調達ですか。……あの、いや、はい、承りました」
スイッチを入れて画面に目を通した井原崎は、いつものように、淀んだ口調で淀みなく答える。
今回入手を指示された数種類のレアメタルはどれも、既存の仕入れリストに該当するものがない。
その事実は、これからまた、既存機体の改良か新しい機体の建造が始まることを意味している。
いや、“彼”直々の依頼である場合は、大半が後者だ。
最近になって続々と実戦投入された、既存機種の強化発展機。
その開発に“彼”も関わってはいるものの、現場発案の設計プランに口添えをするのが殆どで、自ら生み出したものは一つ。
グランシャリオに与えられた新装備“ディープ・ディザスター・ボウ”だけである。
だからこそ、井原崎の気分は重い。
“全く新しい何か”が生まれ出ようとしている事実を知る者が、当面の間は、“彼”と自分の二人だけということになるからだ。
「……ただちに、方方をあたってみます」
だがどのみち、井原崎はそうとしか答えられない。
提示された素材の、あまりにも高い入手難度に意見する度胸などは持ち合わせていない。
言われるがまま、頼まれるがままに、雑務をこなすだけだ。
こうした受け腰の性格だからこそ、井原崎は組織の中で下り詰めた。
就きたくない役職を回され続けてきたからこその、代表理事という地位。
やりたくない仕事を任され続けてきたからこその、役職に似合わぬ雑用三昧の日々。
だが、皮肉なことに、それ故に井原崎は“彼”からの信用を勝ち取った。
“彼”の部屋に入室することが許されているのは、組織内において、たったの十人。
“彼”に素質を見定められた九人のパイロットと、井原崎のみ。
連絡役としてなら、唯一の存在といってもいい。
ゼドラは似たような立場でこそあるものの、“彼”からの扱いは、井原崎に大きく劣っていた。
“彼”の価値観や、基準としているものは、未だ井原崎にとって謎が多い。
そしておそらくこのまま、未来永劫、理解できぬままに終わることだろう。
それで、困る者もいない。
「では、はい、ええと……私はこれで、失礼します」
頼む、と。
“彼”は端的に一言、頭を垂れた井原崎に告げる。
その口調に、自分が従うことを前提としたぞんざいさが含まれていないことは、井原崎にとって救いだ。
彼には、誰かの力を借りているという自覚がある。
その一点だけは、“彼”と出会う前の人生よりも、遥かに幸福であるといえた。
何故オーゼスに残り続けているのかと尋ねられれば、井原崎は、三番目くらいには“彼”の存在を挙げる。
面向かえば多大な緊張感を強いられる、得体の知れない相手ではあるが、惹かれるものも確かにあるのだ。
(しかし、果たして……私はいつまで、あの方と共にいられるのだろうか)
退室し、現実に引き戻されると。
唐突にそんな考えが、井原崎の脳裏をよぎる。
もはや、総合新興技術研究機関O-Zeuthに、春先までのような絶対的優位性はない。
エラルド・ウォルフのダブル・ダブル。
スラッシュ・マグナルスのスピキュール。
霧島優のプロキオン。
グレゴール・バルヒェットのシンクロトロン。
そして、アダイン・ゼーベイアのエンベロープ。
既に、ゲームの駒である九体の内、五体ものメテオメイルが撃破されてしまっている。
一方で連合は、一度は運用を停止したはずのセイファートを、大幅な改良を施した上で再度実戦投入。
保有機数においても、いよいよあちらと互角となってしまった。
来年度を待たずして達成されると思われていた計画は、今ではもう、来年度まで持ちこたえられるかどうかという状態にまで変転を遂げている。
また、最近になって現れた、両陣営に対して妨害を行う謎の第三勢力も気がかりでならない。
だがオーゼスは、そんな不安要素だらけの状況にあっても、あまりにも平常運転だった。
“彼”に限った話ではない。
サミュエルも、十輪寺も、ジェルミも、B4も。
見ているものは、常に現在、そして自分自身。
誰が消えようと気にも留めず、堕落の日々を送り続ける。
きっと、自分が最後の一人になっても、彼らは微塵も動じることはないだろう。
(……ああ、そうだ。答えは、とっくにわかっている。彼らこそが答えなんだ。不安を覚えるには、もう遅すぎる)
そう結論づけて、井原崎は今この瞬間だけ楽になることを選ぶ。
どうせ、いくら足掻いたところで、この深遠から抜け出すことはできない。
それでも暗闇から逃れたいのなら、目を閉じるしか方法はなかった。
ここでは皆が、そうしている。
「風岩ぁ! なんだ、あの無様な負けっぷりは! テメエは三歩進んで十歩戻るバカ犬か!? ああ!?」
「違うんだって! まだ慣れてねえんだよ、こいつでの地上戦によ!」
「基本コンセプトは同じだろうが! 細けえスペックの違いくらいとっとと順応してみせろや!」
「細かくねえよ! 結構大胆に変わってんだよ色々と! まだ詳しく知らねえだろうが、あんたはあれを!」
シミュレータールームの端に設置された大型モニター。
そのすぐそばで、瞬の弁解とスラッシュの罵倒がやかましく飛び交う。
流れている映像は、つい先程まで中国南部の平地にて行われていた、セイファート対バウショックの模擬戦を撮影したものである。
不定期に視点が切り替わるのは、無数に用意された定点カメラと空撮カメラの中から、最も適切な距離で機体を捉えている一つに表示を絞っているせいだ。
おかげで瞬は、自分の、そしてセイファートの動きの悪さがよくわかった。
「開発段階から言われてたことではあったけど、まさかこうまでとはな……」
瞬はモニターに視線を戻しながら、軽く唸る。
模擬戦は合計五セットが行われ、結果は〇勝五敗。
ぐうの音も出ない、瞬の大敗であった。
ただ――――今回の模擬戦は、慣らし運転もされずに実戦投入された、新型セイファートの運用データ収集を目的として行われたものだ。
ヴァルプルガにⅠ型のOSが盛大に書き換えられたこともあって、やむなく新規のOSを搭載している新型セイファートは、いわば赤子も同然。
まだ機体の動作に、操縦者の癖を反映した自動補正がほとんどかかっていない。
だが、その状態でもエンベロープBを倒せてしまっている以上、それを根拠にするのは一番みっともない言い訳だ。
今回の勝負における最大の敗因は別にあったし、瞬の反論もそちらを指してのものだ。
「まだ、スターフォームの速さを掴みきれてねえんだ。オレも、セイファートも」
それが現時点における瞬の結論であり、早急に克服しなければならない課題だった。
改修されたセイファートは、従来のそれを大きく上回る最高速度を叩き出す、超高速飛翔形態“スターフォーム”への変形を可能とする。
比較的シンプルな可変機構であるがゆえに、形態移行に要する時間はごく僅か。
移動と並行して変形を行えるため、細かく変形を繰り返すことが戦術的には望ましい。
そうすることで、セイファートの持ち味である一撃離脱戦法は、更に強力なものとなる。
だが――――なまじ速度が出ることで、地上に近い場所での戦闘は、より一層精密な操作が求められるという問題も発生していた。
今までと同じ感覚で機体を下降させると、すぐに地上に激突してしまう。
そして、激突するかもしれないという恐怖が、加速を躊躇させる。
バウショックに何度も叩きのめされたのも、接近時と離脱時の速度がぬるかったからこそなのだ。
優れた動体視力に、繊細な注意力までもが備わった最近の轟は、もはやそんな小さな隙すらも見逃してはくれない。
「だから、ちょいと機体の向きを意識すりゃあ、それで解決だろうが! 五戦もやってんだから、わかってくるだろうが!」
「模擬とはいえ、実機で戦闘やってんだぞ! 覚えることばっかりに意識を集中させられるか!」
「覚えるのが最優先だろうが、バカが! ……動きを見りゃあわかる。テメエ、のっけから北沢を倒しに行ってやがったな」
「ぐっ……」
「最初の半分は捨てて、テメエが有利に動けるよう、調整に時間を割きゃあ良かったんだ。セイファートはハメて勝つ機体なんだから、尚更だ」
スラッシュの言葉はあまりにも正しく、瞬は何も言い返すことができなかった。
轟にどうしても勝ちたかったというよりは、スターフォームの機動力を見せつけてやろうという部分で、つい躍起になってしまったところはある。
だがそもそも、単体でのテストを行う時間が設けられていれば、こんなことにはなっていなかったはずだ。
しかし、もう一段階のそもそもとして、新型セイファートという機体は本来の運用計画には存在しない異物だ。
そんなもののために、無理矢理スケジュールを都合してもらったのだから、中身に文句は付けられない。
用意された時間を有効利用するということなら、やはりスラッシュが言う通りにすべきだったのだ。
「テメエはそういう、“先の見通し”がまだまだなっちゃあいねえ。目先のことばっかり考えていやがる。多少は腕が上がっちゃいるが、所詮はまだまだガキだ。クソガキだ」
「見透かしてんじゃねえよ……。つーか、最後のは余分だろ」
「いいや、クソだね。全面的に。特に、霧島に鍛えてもらってる北沢に負けやがったところが最高のクソだ。ったく、俺様に恥をかかせんじゃねえぞ」
「へいへいへいへいへい」
だったらもっと教え方を工夫しろと言わないのは、今のスラッシュの指導法が、瞬の性に合っているからだ。
雑な目標設定と、雑な指示。
教えを受けるためだけの時間は一切なく、ひたすら実戦形式の訓練。
感覚的に物事を覚え、細かい手直しは実戦の中で施すというタイプの瞬にとっては、理想の環境だ。
スラッシュは剣術に関しては門外漢だが、しかしスラッシュの得意とする奇襲の立ち回りは、剣術に幾らでも応用が利く。
できうることなら――――戦時中のみとは言わず、それ以降も、何らかの形で指導を受けたいところだ。
しかし、それは叶わぬ夢だ。
彼らもまた、アダインと同じく、史上最悪の大罪人。
特別コーチという立場に就くことで、裁きの場に出ることを長引かせてはいるものの、いつかは必ずその時が来る。
世界の誰もが望む未来に、彼らは辿り着けない。
戦いはまだまだ続くだろうが、しかし、相当数の敵を瞬達は倒してきた。
メテオメイルを操るパイロットの絶対数が減っている以上、着実に終局は近づいている。
だからか最近は、そういうことを考えてしまう。
「……そろそろ、もう少し口を割らなきゃならねえかもな」
瞬が黙り込んでいるそばで、スラッシュがぽつりと呟く。
話題は転換していない。
これまでの会話から地続きになっていることは、少し考えれば、察することができる。
だがそれでも、わかりたくないことはある。
だから瞬は、画面から視線を逸らさぬまま、敢えて尋ねる。
「……何で、そんなことを、今」
「もう俺様は……霧島もだろうが、ある程度は自分の技術をテメエらに仕込んだ。もちろん完成度としちゃあ、まだまだだ。だが、ここで切っても、もうぶっちゃけ、今後の戦いの勝敗には影響しねえ。だからあとは、今まで以上のペースでゲロって食いつないでいくしかねえのよ」
「念には念を入れて、できるかぎり腕は上げておいた方がいいだろ」
「そりゃあ確かだが、今もそう思ってるのは、世界でテメエら二人だけだ。他の連中は、早く俺様達の首を落としたくてしょうがねえのよ。奥地に引っ込んでるお偉方だけじゃねえ。ケルケイムちゃんも、その脇にいる食えないオッサンもだ」
そう。
情報源としても、コーチとしても。
もはや現時点ですら、スラッシュと霧島の、人材としての価値は希薄なのだ。
実際、瞬にしても轟にしても、短期間の内に成果の出るようなトレーニングはあらかたやり尽くしてしまっている。
ここから先は、それこそ風岩流剣術の修行のように、年単位で研鑽を積まなければ効果が出ない領域だ。
最後までラニアケアに置いておくとしても、一人で十分と考える者は多いだろう。
スラッシュの呟きも、おそらくは、そこに起因するものだ。
「どれにするかな……根城の場所はやべえし、物資調達のルートもやべえ。あとは、どうやってオーゼスが接触してきたか……ああこれだな、この辺ならイケる」
「変に義理堅いところがあるよな、あんたらは」
「あ……?」
「本当にやばい情報はともかくよ……ましな扱いを受けたいなら、仲間の情報、一人くらいは売るもんだろ普通。いや、嫌がらせが好きなあんたのことはどうでもいいんだ。護身護身とうるせえ、あの霧島すらそれをしねえのが、不思議でよ……」
それは瞬が、ずっと抱えてきた疑問だった。
霧島ならば時間の問題だと思っていたことが、二ヶ月待っても起こらない。
スラッシュにしても、いよいよという段階ですら、どうにか白状することを避けようとしている。
アダインも、きっといかなる尋問を受けても、その一点だけは守り抜くだろう。
連合に少しでも抗いたいという理由で、そうまで頑なになれるものなのか。
結末が同じならという諦観で、残された猶予を削ることができるものなのか。
瞬にしては珍しく、解答を導き出せなかった。
スラッシュは、そうやって本気で思い悩む瞬を横目に喉を鳴らして、笑う。
「はっ……だからテメエはガキなんだよ。幾ら察しが良かろうと、人生経験が足りてねえ」
「関係あんのかよ、それが」
「大ありだ。……俺様達にだってな、いるんだよ」
「何がだよ……いや、誰がだよ」
その問いに対して、スラッシュは手がかりの一つすら漏らすことはなかった。




