20話 意地と後悔
朝。
目が覚めたら、丁度一時間目が開始される時間だった。
疑う余地なく遅刻である。
走れば間に合うんじゃね、的な選択肢すら選べない。
「はぁ」
急ぐのではなく、俺はただため息をついた。
自分がどれだけ自堕落か理解したためだ。
同時に菜月の有り難みも身に染みた。
俺は毎日菜月が起こしてくれたから、寝坊せずにすんでいた。
だけど、家庭的な菜月はもういない。
あの後、菜月は意固地になって一切口を聞いてもらえなかった。
ケンカした後の菜月モードである。
子供の時から、菜月はケンカをすると、俺が折れるまで一切合切俺を無視するのだ。
おかげていつも最初に謝るのは俺だ。
まあ、その後に菜月も謝ってくるんだが……。
だけど、今回ばかりは別だ。
俺は絶対に折れない。
朝から決意を固めて、ベッドから起き上がった。
学校に行く途中、朝食にコンビニでパンを買い、学校に着いたのは一時間目が終った後の休み時間だった。
俺が自分の席でパンを食べているとレンが話しかけてきた。
「買い食いとはめずらしいな」
「まあな。こんな日もあるさ」
キザなことを言いつつ、パンにかじりつく。
レンは俺に近づくと、小声で囁いた。
「……黒川さんとケンカしたのか?」
「……なんでわかった?」
横目で睨み付け、忌々しく訊ねるとレンは平然と応じた。
「今日黒川さんと一緒に学校に来なかったこと、朝食を家ではなく学校で食べていること、凪沙の顔がいつもよりも五割増しで不機嫌だったこと、これらのことから導き出した結果だ」
「そうか。ご丁寧にどうも……。で、誰が五割増しで不機嫌だって?」
「凪沙」
威圧感を込めて言ってみたが、そんなの知ったことではない、とばかりに堂々と答えるレン。
俺は呆れてため息をつき、パンに再度かじりつく。
そんな俺を見据えながら、レンは言った。
「もしかして、ケンカの原因て昨日のことか?」
「……ああ」
「そうか……それはすまなかったな」
「……レンが謝る必要なんてない。むしろ、俺はレンに感謝しているくらいだ」
珍しく本当にすまなそうにしているレンに、俺は素直な言葉で応じた。
昨日のことに関しては、レンが感謝されることはあっても、責められることはない。
レンは俺の大切な人を守るために、自らを犠牲にして協力しようとしてくれたのだから。
こんなことをしてくれる友人は他にはきっといないだろうな。
「そうか、……ありがとう」
そう言ったレンは、顔を上げ真剣な眼差しで俺を見据える。
「それで、凪沙はやるかやらないか決めたのか?」
問いかけに、俺のパンを食べる手は止まった。
そして、自分自身を奮い立たせるかのように、言った。
「……やる。菜月を守るために……」
俺の覚悟を聞いたレンは目を閉じて頷いた。
「……わかった、んじゃ昼休み一人で体育館裏に来てくれ。そこで後のことは話し合おう」
「わかった」
レンは俺から離れ、自分の席に戻っていく。
俺はパンを食べようとして……やめ、振り返った。
視線の先にいるのは、本を読んでいる菜月。
幸い俺が見ていることは気づかれていない。
菜月……。
心の中で名前を呼んだ。
大切な人の名前を。
俺が絶対お前を守ってみせる……。
決意を固めて前を向く。
そして、朝食のパンにかじりついた。
〈菜月視点〉
わたしは凪沙くんの視線に気づいていた。
だけど、無視した。
今朝だってそうだ。
いつもなら、起こしてあげたり、朝ごはんを作ってあげたりするのにやらなかった。
そのせいで凪沙くんは遅刻して、朝食がコンビニで買ったパンという始末。
酷いとは思っている。
同時に凪沙くんが悪いと思った。
わたしは凪沙くんには傷ついてほしくないと思った。
なのに、凪沙くんはわたしの気持ちを無視した行為をした。
海道くんの協力を得て、わたしを巻き込まず自分だけ傷つこうとしたのだ。
凄く腹が立った。
わたしの気持ちを知った上で、自分の気持ちを押し通そうとしてきたのだ。
そして、わたしは意固地になった。
凪沙くんが謝るまで、絶対に口を利かない断固たる決意があった。
経験上、凪沙くんはいつも謝ってくれることを知っていた。
だから、わたしは待つことにした。
凪沙くんが謝ってくれることを……。
〈凪沙視点〉
昼休み。
俺はレンを連れて、体育館裏にきた。
周りを見渡すが、相変わらず体育館裏には誰もいなかった。
「さて、始めるか」
そう言うと、レンは持ってきたバックからデジタルカメラと三脚を取り出した。
何に使うんだ、とは聞かない。
この作戦の重要な部分、絶対的証拠を撮るためだ。
つまり、俺は今からレンとキスをするわけだ。
いざそう考えると、恥ずかしくなってきた……。
「じゃあ……? どうした顔が赤いようだが」
「な、なんでもないっ!」
俺は誤魔化すようにレンに背を向けた。
実際は恥ずかしくて堪らないが、そんなことを元男とこのレンに言えるわけがない。
だけど、レンは俺とは違った。
「まあ、元男とはいえ今は女の子だ。女の子とキスをするのが恥ずかしいと思うのは自然なことだとボクは思うよ。現にボクも……その……恥ずかしいし」
俺は恐る恐る振り返る。
レンの表情を伺うと、微かに赤くなっていた。
心なしか、目を逸らして、拳を強く握り締めているようだ。
滅多に見ない、レンのはじらいの態度に、俺は一層顔を赤くした。
「……」
「……」
沈黙が流れた。
客観的に見れば、初々しい恋人のように見えるだろう。
無論、そんな事実はない。
だが、このままの空気は居心地が悪い。
しかし、どうにかできる術がなく、大体五分が過ぎたところでレンが上目使いで言った。
「そろそろやらないか?」
これまた客観的に見れば、誤解されそうな言い方だが、俺とレンの狙いが『俺とレンが付き合っている』という噂を証拠付きで流すため、仕方がないことだ。
「……ああ」
「タイマーは十秒だ」
レンはデジタルカメラを操作した後、俺を見据えた。
俺は頷きレンに近づく。
俺とレンの身長差は頭一つ分レンが小さいので、レンは俺を上目使いで見詰めた。
レンの両肩に両手を置くと、レンの身体が小刻みに震える。
きっと、レンのやつも緊張してるんだろう。
俺も恥ずかしいし……。
しばし、レンと見詰め合っていると、レンはゆっくりと瞳を閉じた。
そして、俺は気づいた。
これって……もしかして、俺からキスするのっ!?
俺は動揺した。
おそらく、顔にも出ていただろう。
だが、それは当然のことだ。
なぜなら、俺は一度も自分からキスしたことがないからだ。
キスする時はいつも菜月からしてきたためだ。
そうだよな……。
普通に考えれば、キスをする時背の高い方が背の低い方にするんだよな……。
それに、レンがこんなに頑張ってくれているんだ。
それを無駄にすることなんて出来ない!
そう結論づけ、勇気を振り絞り、目を瞑って顔を近づける。
レンの吐息が唇に感じ、後少しでキスしようとした瞬間、顔を近づけるやめた。
恥ずかしさが原因ではない。
もっと、強い何かがレンとキスすることを止めさせたのだ。
俺はレンから顔を離した。
その瞬間、シャッター音がした。
レンがゆっくりと目を開け、罵る。
「……へたれ」
「……すまない……」
レンがジロリと俺を睨み、俺は申し訳なくて目を逸らした。
レンは俺から離れ、デジタルカメラの操作をしながら、言った。
「実際こうなる気はしていたが……はぁ、仕方がない。凪沙、目をつむれ」
「えっ、えーと……」
こ、これって、レンからキスするってことだよな……。
動揺しながら、渋っているとレンから一喝。
「ボクからキスをするから目をつむれと言ってんだっ!」
「は、はいっ!」
レンの気迫と飾りのない言葉に気圧され、慌てて目を瞑った。
無意識の行為か、気配を探るため耳を澄ませる。
すると、足音が聞こえた。
近いからレンの足音だろう。
だけど、離れていっている。
どういうことだ……?
さらに、聞いていると今度は地面を蹴るような足音が。
疑問に思って目を開けるとそこには、レンがいた。
それに関しては問題はないだろう。
キスをするなら、近くにいなければならないからだ。
ただ一つ問題を上げるとすれば、キスならば唇を近づけるはずなのに、なぜか、両足が俺に向かって近づいてきていることだ。
これでは、キッスではなく、キックではないか。
そんなつまらないシャレが思い浮かび、ツッコミを入れるかの如く腹にキックを見舞われた。
レンのキックはそれほど強くなく、俺は仰向けで倒れる程度ですんだ。
だけど、痛みはあるもので、少しの間仰向けになっていると、青空に影がさした。
影の正体は、俺に覆い被さっているレン。
「いきなりなにすんっ!?」
文句を言おうとしたら、遮られた。
物理的に、唇によって。
唐突の事態に俺はレンを突き飛ばそうとするが、それよりも早くレンが唇を突破し、口内へ舌を入れてきた。
濃厚なキスにより身体から力が抜けて、小刻みに身体が震えだす。
それと同時にさっきの感覚が明確のものとなり、呼び覚まされた。
いやだ……。
菜月以外とはキスしたくない……。
その想いを、体現するかのように閉じた瞳から涙が流れた。
それと、同時に腕に力が入り、レンを退けようとする。
しかし、それよりも早くレンが舌を抜いて、唇を離した。
「……」
「……」
押し倒した姿勢のまま、互いに乱れた呼吸を整える。
その間、俺は手で涙を拭った。
だけど、涙は止めどなく流れてくる。
そして、レンが口を開いた。
「……すまない」
突然の謝罪に俺は疑問に思った。
一体、レンは何について謝っているのだろう。
だけど、口には出せなかった。
涙と共に、呼吸の乱れがまだ治らないからだ。
「ボクはこうなることは予想していたんだ」
レンから聞かされた衝撃の告白に、疑問感じたが、すぐに納得した。
だから、レンは二回聞いたのか……。
一回目は昨日の昼休み。
二回目は今朝。
あの今朝の問いかけの本当の意味は、俺と菜月がいじめを受ける心配ではなく、こうなることを予想してかけた俺個人に対する問いかけだったてことだ。
それを俺は、キスをするまで気づかないなんてな……。
なんて、バカなんだよ俺は……。
「だから、すまない。凪沙を傷つかせてしまって……」
手の隙間から見えたレンの表情は、今にも泣きそうで、悲しげだった。
俺は早退した。
今の精神状態でまともに授業を受けられる自信がなかったからだ。
あの後、レンは淡々と事務的に説明をしてくれた。
キスした画像と共に、俺とレンが付き合っているというデマの噂を流すこと。
しばらくは、レンと偽物の恋人を演じること。
それだけ伝えると、レンは去っていった。
「……」
静かな部屋の中、俺はベッドに顔を埋めた。
幸い涙は出ずにベッドを濡らすことはない。
俺はベッドの柔らかさを感じながら、後悔していた。
菜月以外とキスすることがあんなに嫌なんて知らなかった。
もし、知っていたらやめただろうか。
自問し、答えを呟く。
「……それでも、やっていただろうな」
結局のところは変わらないのだ。
例え、知っていたとしても、気づいていたとしても、俺はレンとキスして傷つく結末を選択するだろう。
菜月を守るために。
そして、その信念だけが俺の後悔を和らげてくれる、支えであった。
〈菜月視点〉
昼休み、凪沙くんが酷く落ち込んでいた。
わたしは心配になったが、声を掛けれなかった。
普段のわたしなら、凪沙くんを励まして上げられる、凪沙くんの力になって上げられる、でも、現在、わたしは自分でも忌々しいと感じるほどの意固地であった。
ゆえに、無視した。
そして、凪沙くんが早退したと知って後悔した。
なので、現在、わたしは凪沙くんの家の前に立っていた。
凪沙くん、大丈夫かな……。
声には出さずに、心で呟く。
表面は意固地モードだが、内面は心配で仕方ないのだ。
わたしは玄関を開けようとした、が、
「……」
止まった。
凪沙くんが謝らない限り、口を利かないという意地があったためだ。
わたしは玄関に伸ばした手を下げる。
嫌なやつだな、わたし……。
わたしは背を向け、隣の自分の家に帰った。




