吸血鬼パーティー
バグパイプの音が緩慢に広がっていき、そのあとを追って、軽快な旋律を奏でるバイオリンとトランペットが続いていく。
ドラムが統一感のない即興のリズムを刻みだし、何人かがタップダンスに興じ始める。
リズムが競い合い、徐々に意味を刻みだす。本来は不似合いなはずのスコットランド民謡とビートルズの合唱隊が、それぞれ滑稽にも張り上げる歌声が愉快なハーモニーとなっていく。
誰かが獣のような奇声を発した。
それに対抗して、誰かが「女王陛下万歳!」と叫ぶ。
ほんのわずかな時間で、あらゆる音という音が騒音や雑音の区別なく、相乗効果でもってストリートを溢れ出るほどに満ちていった。
流れていく音に色を彩れるとすれば、この通りが今や輝かしいばかりの黄金で覆いつくされているのが見えただろう。
通りを埋める人々の熱狂が一ケ所に集中して、高い密度を構成し、すぐにも弾けだしそうな危うさを持ちながらも、荒ぶりはじめる。
自分の感性がリズムに酔いしれ、ついつい肉体が一定の間隔で動き、最後には隣にいる者の迷惑さえも顧みずに踊りだす。
だが、最初は嫌がっていた隣人も、気がつけば脊髄反射みたいにそれに従いはじめる。
そして、隣人たちは手をつなぎ、ペアとなり、さらに輪となり、繋がりは増殖し続ける。
ダンスの輪はますます広がっていき、遂には密集した全員がなにかをせねばいられなくなるほどに狂おしさを増していく。
舞踏病、とでも呼ぶべきだろうか。
本来の祭とはこんなものだったのだろう。
神を慰めるためと称して、溜りにたまった鬱憤と欲求をただただ爆発させる。
見果てぬ自由への思いを解放するために。
中世において、堅固な社会構造に完全に束縛されていた農民たちが、年に数回の祭のために過酷な労働を我慢してきたのは、この魂の開放のためであったのか。
ひいてはその後に起こった市民革命も、彼らにしてみればそんな祭りの一種だったのかも知れない。
ワインの瓶をひっさげた男が呂律の回らぬ舌で卑猥な繰り言を喚くと、後ろから来た何者かに蹴り飛ばされた。すでに泥のごとく酔っ払っているらしく、男の足取りは完全にふらふらだったので、踏ん張ることさえもできず、隣接する大通りへと転がりでてしまった。
いきなり飛び出してきた酔っ払いと鉢合わせしたカップルが思わず息をのんだ。
別に酔っ払いを見るのが、初めてという訳ではなく、男の着ている服装とメーキャップに驚いたのだ。
黒い革をなめしたマントにタキシード、気障な蝶ネクタイをつけた場違いな服装と、何よりも紅を塗った口からはみでた剥き出しの二本の乱杭歯を見て。
それは映画の吸血鬼の姿そのものであったからだ。
だが、恐ろしげな格好とは裏腹に、だらしなく酔いつぶれている吸血鬼を尻目に、カップルの男がそっと恋人に一枚の板切れを示した。
恋人は苦笑した。
板切れの正体は手作りの看板であった。
そこには、『ドラキュラ伯爵英国来訪百年記念祭』と太文字で書かれていた。
惨劇を思わす深紅のペンキで、ご丁寧に血飛妹まで描かれている。
目立たぬように小さく、ロンドンの某大学の主催であることが記されていたが、それが雰囲気を重視したのか、大学の名誉をはばかったのかはわからない。
興味本意で、男が出てきた通りをカップルが覗き込んでみると、似たような黒マント姿の男女が三百人ほど集まって踊りまくっていた。
彼らが飲んでいるのは、やはり血液のような赤ワインや、トマトジュースベースの真っ赤なカクテル、わざわざ食紅を入れたビールなどであった。
テーブルに並んでいる料理は、赤カブを煮込んだボルシチや、滴るようなローストビーフが中心だ。
とにかく香ばしい匂いとは裏腹に、血腥いイメージを出せるメニューだけを無理矢理にかき集めた大雑把さもある意味微笑ましい。
運営上、必要なだけのモラルを確立するために、女性に対しわいせつ行為に及ぼうとしたりするものは、どこかに控えていたスタッフによってさっと連行されていく。傑作なことに監視員はヴァン・ヘルシング教授のものと思しき仮装をしていた。
自分で仮装を脱ぎだした連中についても同様の処分が下されていく。
ヘルシング教授に連れていかれた吸血鬼たちがどうなるのかは、好奇心をそそられるものもいたが、無理をしてまで確認しようとするものはいなかった。
そんな瑣事よりも楽しいことがあったからだ。
ちなみにヴァン・ヘルシング教授とは、ブラム・ストーカーの小説版『吸血鬼ドラキュラ』において、まさに伝説として妖しく迫るひとりの魔物から、霧の都を護り抜いた大学者である。
かのドラキュラ伯爵の天敵として万人が認める人物であった。
伯爵が、霧の都ロンドンに訪れたのは、小説では1991年のこととされている。彼が何をなし、何を得て、どうして滅びねばならなかったかは、ほとんどの人がおぼろげにでも知っているだろう。
そして、彼が後世に及ぼした影響がどれほどのものであったのかは、常識として誰もが知っている。
ここ、ロンドンの繁華街ピカデリー・サーカスに近いアンタック東街区の裏路地では、その彼の百年前の来訪を記念しての『吸血鬼パーティー』が華やかに催されているのであった。
参加者は事前登録制で、参加資格は黒マントとタキシードを着ること。
女性の場合も同色のイブニング・ドレスとマントである。
だが、それだけで素直に来場するものは極めて少なく、ほとんどが市販のおもちゃの牙を買ったりして、一工夫を加えていた。中には、わざわざ専用の血糊まで用意する凝り性もちらほらといた。
ニセ吸血鬼たちの喧騒が最高潮に達したとき、用意されたステージの奥から一人の若者に率いられた一団が姿を現した。
彼らもまた黒マントとタキシードに固めているが、決定的に違う点は、手に様々な楽器を構えているということだった。
六百対の視線が集まっても、先頭の若者は動じた様子も見せずに、マントの裾を摘んで軽く古風な会釈をした。
それに合わせて、その奥から一台のピアノが登場する。
「みなさん、今夜はとてもお楽しみのようですね。私はこの『ドラキュラ伯爵英国来訪百年記念祭』の楽団指揮を任されましたレディン・マックウェルと申します」
挨拶をしてから参加者をさっと見回し、
「長々と挨拶をするのは控えましょう。皆様もどうぞ引き続き楽しんでいってください」
と、慇懃な口調で挨拶を終えて、若者は指揮棒を楽団に向けて振るった。
優美な動きが宙を舞い音の筋を描く。
音楽がスタートした。
これも混成楽団だった。
バイオリンとエレキギターが主体という、オーケストラとロックバンドのハーフのような楽団だったが、それは予想以上に素晴らしい音楽を奏で始めた。
動きが止まっていた客たちが次々にまたダンスを再開していく。さきほどまでとはまた別の、見事なダンサーが続々と誕生していった。
奇跡を成し遂げたのが、誰の耳にも異質な筈の多種類の楽器を見事に編成し、あまつさえ指揮してのけた若者なのは明白だった。
先ほどまでの煩雑なリズムについても、実は彼の巧妙な計画と指揮によるものであったことを裏方全員が知っていた。
その上で、正規の演奏においてもこの卓越した才能を有している。
音楽の天才の名に相応しい指揮ぶりだった。
年齢と才能は比例しえないのだ。ただ無為に年をとることを拒み、すべてに挑戦するのが天才の宿命なのだろうか。
舞踏の時は果てぬとも思われたとき、指揮者の若者は腕を止めて、用意されていたピアノに座った。
運ばれてきてから、ずっと無人のままの席に主人が着いた。
パーティーの運営責任者が、手振りで彼に終わりにしてくれと告げたのだ。
時計を見ると、午前零時になっていた。日の出にはまだ遠いとはいえ、光の丘が隆起を始める時刻が近づきつつあった。
吸血鬼はそろそろ棺に戻らねばならぬ時間なのだ。
陽光が世界を取り戻し、夜の住人の生命に終止符を打とうとする前に。
だが、踊りつづける彼らは人間である。陽光によってその命を終える種ではない。
では、陽の光で何を奪われるか?
朝になれば、すべての夢は醒めてしまうのだった。命の代わりに夢。陽の光に成り代わって終止符を打つのが彼の仕事だった。
若者は鍵盤を一つ叩いた。
調律は完璧だった。ピアノの調律係に心の中で感謝をしてから、若者は十本の指を静かに舞わせた。
突如、ダンスタイムはチークタイムヘと変貌を遂げた。
それがこの楽しい時間のエンディングヘの布石だと、すべての参加者が悟る。
ピアノから流れる旋律は気怠げでいて、気紛れで、優しい哀愁を帯びていた。また、荒々しい粗野さを残しながらも、ほのかに淡い。
聞いたことのない調べは若者がこの日のために作曲した特別に囁く宝石の連なりであった。
人々は音に酔った。
今までの酔いとは違う、それは眠気を誘う優雅な酔いであった。
若者の指が最後の仕事を終えたとき、人々は幸せなときの終結を知り、新たな思い出を胸中に刻み込んだ。
不意に現実が―――やってきた。
誰が最初に路地を去ったのだろう。
それに続くように、人々は路地から帰っていく。
彼らは幸福の甘美を胸に秘めていた。
幸せなときは終わったのだ。
吸血鬼は棺に戻り、社会人は勤めに戻り、主婦は家庭に戻り、学生は学校に戻らねばならない。
会場の路地から、すべての一般参加者が消えたのを確認すると、運営責任者がピアノの若者に声を掛けた。
「ありがとう、レディン。君のお陰でなんとか成功したよ。本当にありがとう」
「気にするなよ。それだけの報酬は受けとっているんだから。それに、おまえらの企画がよかったんだ」
「君に言われると照れるなあ。これも僕らのゼミが専攻しているマーケティングの研究なんだから、うまくいかないと卒業できないからね。さて、家に帰ったら、レポートをまとめなきゃ」
「おまえたちはきっと素晴らしい経営者になれるな。レポートもいい出来になるぜ」
レディンが椅子から降りたとき、誰かが助けを求める叫びが聞こえてきた。
片付けの手助けを求めているのではなく、もっと切実な、魂からの叫びのようだった。
「どうした?」
レディンと運営責任者が駆け寄ると、叫びを上げた男が、黙ってある一点を指した。
すでに声が出せない状態らしい。
みなの視線が集中した先には、誰もが見慣れたものが一つ転がっていた。
それは若い男だった。
最初は酔っ払って寝てしまった参加者ではないかと思われたが、それは間違っていた。
氷のように冷たくなった肌は死人だけが持ちうるものだからだ。
血の気のない肌の色は、薄気味悪かった。男が死んでいることを集まった全員が直感的に理解していた。
死因については、誰もが気付いていた。
首筋に穿たれた二つの傷跡。
ある伝説上の生物の歯形に似ていると思った。
理性は拒否したが、現実には事実であった。
それは吸血鬼という魔物のものだった。
どうやら決して来るはずのない主役が、招待状も送っていないのに、自分のためのパーティーに参加していたらしかった……。