リンゴの木の爺さん
まったくの謎だった。
どうしてこの木は、小さな籠半分にも満たないぐらいのリンゴしか実らせなくなってしまったのだろうか。
枝についているまだ熟していない果実を下から勘定すると、「ひーふーみー」で終わってしまう。
少年は視線でその秘密を解剖するかのように、じろじろとリンゴの木(彼の見立てでは樹齢30年ほどだ)を睨みつけた。
彼の育てているリンゴの木の中でも最も大きく、収穫量も多い、動物で言ったらボス的な地位にある木だった。
それから、ゆっくりと周囲を見渡す。
立地条件はいい。
土はそれなりに栄養が行き渡っているはずだし、他の邪魔な木々も近くにはなく、陽光だって遮られることもなくあたっている。
木そのものの外観だって、雄々しく立派なものだし、樹皮も見たところ傷や病気にかかっている様子はない。
他の木たちも、昔に比べれば収穫量は落ちたが、それなりの数は実らせていて、全体的に不作というわけでもない。
したがって、果実を実らせない原因は皆無だと断言できた。
この木ならば、毎年大きな籠に五杯は軽くいくだろうと予測していたのに、この分だと総収穫量はかなり減ってしまうことになる。
事実、彼が両親から受け継ぐまで、この木は毎年たくさんの実をつけていたのだから。
それなのに、二年前に流行病で両親が亡くなり、彼が継いだ翌年からこの木だけは今までが不思議になるほどおかしくなっていったのだ。
一昨年は過去と例年と同じ数のリンゴを実らせたが、去年になると収穫できたのは七個だけになってしまった。
そして、今年は三個。
他の畑で育てている木だけでも生活はできるというものの、この木からの収穫が減ると、収入に多少の影響が出ることは明らかだったので、彼にとっては深刻な問題と言えた。
それに、この木は父親がもっとも大切にしていた一本で、他の畑から離れた丘の上にぽつんと孤高にそびえる姿は頼もしく、子供の頃から特別に感じていたこともあり、少年としては何もできない無力さを感じずにはいられない。
少年は、枝が花を咲かせ、受粉し、実をつけるまでにどうすればいいか、なんとか良い対策はないかを考えつつ、農具を背負って誰もいない家へと向かった。
彼の父親は名人とまで謳われたリンゴ作り農夫であり、この近辺では名前も知られていたことから、リンゴの収穫のおかげで生活に窮することはなかった。
しかし、父親が亡くなってからというもの、まだ十三歳の彼が一人でその跡を継いだのだが、いかんせん、どれほど努力しても生活は拍車をかけたように悪くなる一方だった。
なぜかというと、例の木の不作だけでなく、他の木々から収穫されたリンゴの味までも父の代と比べて落ちたからというのが主な理由だ。
確かに、彼の育てたリンゴは、以前よりも甘味が減っていることが一口目でわかるほどだった。
それでも、両親の死を知っている買い手は孤児への同情からまだ我慢して購入していくれているが、その我慢もいつまで続くかわからない。
早急に、以前の水準に味を回復させなければ子供一人で路頭に迷うことになる。
「はあ…」
少年は溜息をついた。
父と同じことをしているはずなのに、どうして彼の畑のリンゴの味はその足元にも及ばないのだろう。
自分は農業に向いていないのではないかと、ずずーんと落ち込んでしまうのだった。
※
そんなある日、彼の家の玄関の扉を誰かがノックした。
近所の人が訪ねてきたのだろうと、慌てて口にしていたミルクを飲み干し、ドアを開けた。
予想は外れていた。
そこに立っていたのは、彼の知っている誰でもなかった。
と、いうよりも人間ですらなかった。
黒光りする艶々な肌をして、びっくりするほど大きな角の山羊の頭をつけた裸の男だった。半人半獣の訪問者は、燃えるような印象の黄色い双眸で少年を見据えた。
……プーカだ。
少年は直感で訪問者の正体を見破った。
不注意な人間を背中に乗せてどこか遠くへ置き去りにするというアイルランドのゴブリン、プーカの性質を思い出して、疑いの視線を送る。
プーカは、彼の視線を一切意に介することもないようだった。
「あんたが、この家の主人かい?」
「……うん、そうだよ」
別に嘘をつく必要もないので、本当のことを答えた。
両親が既にいない以上、この家の主は彼なのだから当然だ。
「だったら、俺の背中に乗りな。仲間があんたに用があるらしいから、迎えに来たんだ」
少年は死ぬほど驚いた。
妖精が僕に用があるって! 一体、なんだって、僕なんかに!
驚愕のあまり呆然としている彼を急かすように、
「早く乗れよ。俺はのろまは嫌いなんだ」
と、プーカは歯を剥いて主張し、身悶えする。
「君の背中におんぶするのかい?」
「乗りにくいってんなら、鷲になってやるぞ」
プーカはそう言うと、一瞬にして半人半獣の姿から、一羽の巨大な鷲へと変貌を遂げた。
伝え聞くプーカの変身の術は、生まれてこのかた魔法に接したことのない少年にとって、理解の追いつかない不思議なものであった。
しかも、変身した鷲の大きなこと。まるで、成長しきった牛みたいだった。黄色い眼球でさえも、彼の拳ほどはある。
あまりに不思議なことの連続に麻痺して動けない少年の服の襟元を鋭い嘴で捕まえると、鷲はそのまま飛翔を始めた。
さすがに空を飛び始めると、事態を認識し、今度は恐怖のあまり失禁しそうになった。
獲物を捉えた鷲はびくともせずに、雄々しい羽ばたきとともに天を舞う。
プーカにさらわれたという事実が、少年を怖がらせた。
誰も知らない場所に置き去りにされたらどうしょう。もう、自分の家に帰れないのではないか。もう、お隣の家の幼馴染みのあの子とも会えないのか。
プーカがどこに行くつもりなのかはわからなかったが、大きな山を二つ超えたあたりで高度が次第に落ちていき、ある平山の頂上に着地した。
山よりも丘の方が近い、その場所には小さなバンガローが建っていた。
彼らが着地したのに気づき、中から幾つかの小さな影が現れた。どれもこれも、一目見て人間とは違うことがわかる。
少年の腰までしかない小人たちなのだった。
ふと振り向くと、プーカはいつのまにかさっきの姿に戻り、白い独特なコートを着た青年と話し合っていた。
その青年とあと何人かだけは、人間と同じ背丈をしていたのでとても目立つ。
何をすればいいのかわからずに立ち尽くしていると、青年が話しかけてきた。
この地方には珍しい黒髪を綺麗にまとめ、虹のような奇妙な輝きを放つ瞳を持った青年だった
「どうしました、早く、中へどうぞ。もう始まっていますよ」
「……うん」
青年とともにバンガローに入ると、その中は外から見たものとは別世界のように広く、まるで大麦の畑のように広大な空間ができていた。
美しい娘やハンサムな若者、兵士、貴族、その他様々な小人やのっぽが、テーブルに並べられた素晴らしく類を尽くしたご馳走に舌鼓を打ったり、ガラスの容器に入った酒を飲んだりしていた。
どうやら宴の真っ最中だったらしい。
小人――どうやら妖精であるらしいことはもうわかっていた――が、少年にジャガイモにたっぷりの黄金色のバターを塗って、刺激的な匂いの香料をかけた料理を勧めてきた。
それを受け取ろうとすると、コートの青年に制された。
「故郷の食べ物を人に食べさせたらいけないよ」
ここで少年は、はっきり自分が妖精たちの宴席に招かれたということを自覚した。
そして、妖精の食べ物を口にしたら、二度と人の世には戻れないという言い伝えも思い出した。
これから先、どんなことがあっても勧められたものを食べないことにしようと誓うのだった。
そうこうしているうちに、宴もたけなわとなり、何人かの妖精と招待客たちはだらしなくテーブルや地面に突っ伏して惰眠を貪り始めていた。
それでも多くの妖精たちは元気に傍若無人に騒ぎまくっていたが、気がつくとテーブルの上に、大きな皿にのった紅いリンゴが並べられていた。
何人かの小人が手を伸ばし、それを掴んでおもむろに齧った。途端に、彼らは口々に大きな声で少年とリンゴを罵り始める。
「まずい! なんというまずさだ! こんなにまずいリンゴは初めてだ!」
「まずい、まずいぞ!」
「こんなしょぼいリンゴは食べたことがない! 歯が欠けるぞい!」
自分たちの罵りに感化されて、さらに声量が上がって行き、最後には怒鳴り声しか聞こえなくなっていく。
当初は意味がよくわからなかった少年だったが、妖精たちが悪し様に罵っているリンゴを手にとってみてやっと理解できた。
それは彼が今年収穫したはずのリンゴだった。
丹念に彼が育ててきたものだ。手にとってみればすぐにわかる。そして、彼は絶望した。
「こんなまずいリンゴしか作れないのか!」
「わざわざ宴に誘う必要がなかったな!」
「そうだ、そうだ!」
さらに口々にまくしたてる妖精たちは、成熟しきっていない幼い心に衝撃を与え、傷つけた。
ここまで悪し様に罵られるほど、僕のリンゴはまずいものなのか。
妖精たちの罵声はどんどん大きくなっていく。
すると、先ほどの青年が制止の声を上げた。
「やめようよ、みんな。まず、この人の言い分を聞こうじゃないか。それから文句を言うのが筋じゃないのかな? ただ騒ぎ立てるだけでは、おいしいリンゴにはありつけないだろ?」
青年の穏やかなものいいに、居並ぶ妖精たちは何故か素直に従った。それから、少年に向き直り、
「どうして、今年はリンゴの味が落ちたのか、覚えがあるかい? 確か、以前はもっと美味しかったような気がするんだけど…」
「……今まで、リンゴを作っていたのは僕の父なんです」
彼は経緯を正直に話した。
すべてを聴き終わると、青年はゆっくりと顔を上げて微笑み、彼の肩に優しく手を添えた。
「よし、それじゃあ、解決法を教えてあげよう。そうすれば、来年から今まで通りに美味しいリンゴがたべられるぞ」
最初は少年に、あとの一言は背後の妖精たちに対しての言葉だった。成り行きを固唾を呑んで見守っていた小人たちから歓声が巻き起こった。
「僕は席を外すけど、みんなは宴を続けていてよ。それに今年のリンゴは諦めてくれよ。じゃあ、行こうか」
突然、視界が真っ白になり、次の瞬間、少年は自分の畑の近くにいることに気づいた。となりにはコートの青年が並んでいる。
彼は例のリンゴの木を指差し、「あれが去年から実を結ばないんだね」と訊ねた。
少年は頷いた。
「ちょっと待っていてね」
何を思ったのか、青年は大股で木に近づいていき、その幹を勢いよく蹴っ飛ばして、大声を張り上げた。
「リンゴの木の爺さんがいるんだろう。顔を出してくれないか。おーい、ちょっとでいいから返事をして」
「……」
「おーい、聞こえているのー」
「…………」
「僕の言うことを聞かないと、『これはオリーブの木です』って立て看板を立てるぞ」
傍から見れば奇人としか見えない光景だったが、その感想はすぐに吹き飛んでしまった。なんと、どこに隠れていたのか、生い茂った葉と葉の隙間から、皺くちゃの醜い老人が顔を覗かせたのだ。
奇怪な老人は怪訝そうな表情を浮かべた。
「なんだよ、シーリーコート坊ちゃんじゃないか。どうして、こんなところに来やがったんだ。儂は、あんたに裁かれるような悪事はした覚えがないんだがよ」
「頼みがあるんだ」
「なんじゃいな」
「ほら、あの子のために、来年はたくさん実をつけてやって欲しいんだ」
老人は少年を一瞥して、苦々しそうに唇を歪めた。
「やだね、あのガキは去年も一昨年も儂のために、最後のリンゴの実を残しておかなかったんだぞ。そんなヤツのために何かをしてやってたまるかよ」
「あの子は、あんたのことを知らなかっただけなんだ。仕方のないことだと思って、一度ぐらいは許してやってあげてよ」
そのまま、何度か青年が頼み続けると。意地悪で意固地そうな老人は渋々といった態度で折れた。
「しかたねえ。ただし、今年だけだぜ。来年からは二度とやんねえからな。あんたの顔を立てるだけだからな、シーリーコートの坊ちゃんよ」
捨て台詞を吐いて、また同じように葉の茂みの中に消えていく老人から目を離し、青年はこう言うのだった。
「一年の最後のリンゴの実は、あの爺さんの妖精のために残しておかなくてはならないんだ。それを守っていれば、あのじいさんは毎年きちんと収穫を保証してくれる。君の場合、お父さんがそのことについて教えてくれる前に亡くなってしまい、運悪くそのことを知らなかったせいでこういうことになってしまったんだね」
※
今年、少年は言われた通りに実行をした。
結果として、青年の忠告は正しく、その年にまたもプーカに乗せられて参加した妖精の宴でも二度と罵声を浴びせられることはなかった。
そして、リンゴの木の爺さんのおかげか、少年はその後も幸せな生涯を送ることができたのであった…。