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シーリーコート伝承  作者: 陸 理明
第一話 グリーンミストレス
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アーリム・シートランドの見た光景

 何が起きたのかはわからなかったが、冷静になって考えてみると、あれは白いコートの裾の羽ばたきだったのだろう。たかが上着が、あれほどまでに大きな広がりをみせるとは想像もできなかったが、部屋にはあれ以外の白いものはなかった筈だ。

 視界が正常に回復すると、わたしは呻いた。


 ここは、さっきの地下室ではないか!

 どうやって、この部屋に移動したのだ。わたしは廊下を歩いた覚えもないのに!

 眼の錯覚や幻覚ではない証拠に、わたしが触れたものには十分に硬い手応えがある。確かに本物だった。


「大丈夫です。気にしないで下さい」


 これを気にしない奴はどうかしてる、とわたしは内心で呟いた。

 一瞬で他の場所へと移動してしまったのだ。

 異常に思わない訳がない。だが、青年はわたしのわずかな狂乱と錯乱を平然と無視して、「どれが、その……『ケーアフィリィの緑の婦人』なのですか?」と訊いてきた。

 ひとまずの平静を取り戻す努力をしてから、鮮明に覚えている彫刻の姿を探した。

 だが、どこにもそれは見あたらなかった。

 あの奇妙に絡みついた蔦に女性の横顔が浮かぶ、芸術家の遺作はどこにも見当らなかった。なぜか、あの台座だけはそのままにあった。

 しかし、それに飾られていたはずのものはなく、残りの見知らぬ作品にまで注意を向けたが、あるべきものは失意の彼方へと追放されていた。


「おかしい―――どこにもない……そんなはずはないのに」

「あったものがなくなっているんですか……。やっぱりね……そうじゃないかと思ってたんです。やっぱり、彼女はここにきていたようですね」


 ぽつりとつぶやいた。

 もし、聞こえていれば問い詰めていたかも知れないが、その時わたしは懸命に小さな部屋で、『ケーアフィリィの緑の婦人』を探し続けていた。

もう一度だけでも、あの彫刻に是非とも巡り合わなければならない焦燥感に包まれていたのだ。

 無意味とは思っていない。

 必ず、成し遂げねばならないことだと確信していたのだった。


「……すいません、そろそろ出ませんか?厄介なことが近づいてきているみたいなんですよ」


 机下を覗き込んでいると、背後から声が聞こえた。

 見上げると、わたしの上に屈みこんでいた。


「なんだって?」

「音がしませんか? ほら、あの―――」


 青年の言葉に嘘はなかった。

 わたしが地下室へ初めて赴いたときに耳にした、あの不気味な擦れるような音がしていた。 

 今となっては、音を発している物の、おおよその見当が容易につく。

 意志を持った多量の植物の蔦が、古風な石造りの館の壁を這いずりまわるいやらしい摩擦音が「これ」である。

 謎が解けると、先程の女性の言っていた風の音という台詞は、背筋が凍りつくに足るものに思えた。すべてを知った上で、嘘をつき、冷笑していたのかと思うと、あの女性の正気さえ疑いたくなってくる。

 時がたつにつれて、緑館は次々と化物屋敷じみた様相を呈していく。

 最初は奇異に感じていたこの呼称も、段々と薄ら寒い真実を語っていたのだと理解できた。もしかして、周囲の住民は実際に真実を知らなくても、隠されていた本質を察知していたのではなかろうか。

 音はさらに接近する気配を見せ、数秒後にはすでに地下室の扉の先にまでたどりついたようであった。

 扉の表面でずりずりと激しく蠢いているだろう蔦は、いつあの煙草と灰皿に見せたような怪力を発揮して牙を剥きだすだろうか。

 耳朶に届く音の雑然さから、わたしを襲った以上の数の蔦が集まっていることは明白だった。救いを求め、つい隣の青年へ目をやった。

 わたしと同じように、襲いかかる恐怖に耐えているのかと思いきや、腕組みをして深刻そうな顔をしただけで、別段怖がっている風ではない。


「これは困っちゃうね。こんなに別系統のアストラル体に囲まれると、力が飽和するから、もうコートでは飛べないぞ。これは不便だ。ホントに不便」


 どこがどう困っているのだろう。

 この青年の考えが到底理解できそうになかった。

 異世界の住人ではないかともさえ思われた。

 青年はコートの端をちょこんとつまみ上げ、埃をはたくように軽く叩いた。

 ただ、それだけ。何か、事態の打開のために行動をすることもなければ、おろおろする様子もない。異常なほどに平然と立ち尽くしている。


「あんたはどうするつもりなんだ?あの蔦に捕まったら、もうおしまいだぞ。絶対に殺されてしまう」

「……落ち着いて、落ち着いて。別に大丈夫ですって。あなたは下がっていてください。そして、出来るかぎり、扉から離れて、決して僕の方に近寄ってこないでくださいね」


 あまりに自信に溢れた態度に気圧されて、わたしは無言のまま背後の壁へにじり寄った。

 壁に背をつけると、あの怖気をそそる音が震動を交えて肌に伝わってきた。

 皮膚を抜けて、筋肉を喪わし、そのまま内臓をも犯してしまいそうな嫌悪に晒されたのだ。つい反射的に身体を壁から離れてしまったほどに。

 ようやく嫌悪感に耐えて、前方を見据えると、とうとう扉の耐久性が限界に達し、金具も疲労の情けない悲鳴を上げはじめ、ついには降参してしまった。

 弾け飛んだ鉄の扉からおびただしい数の意思を持った蔦が、一斉に青年に対して襲いかかる!

 一つの運命しか見えなかった。

 わたしは目を閉じた。

 人の死を看取ったことはない。

 これが初めてだと思った。

 断末席の叫びというものは聞こえなかった。

 次は自分の番か。

 しかし、蔦はわたしを殺すどころか近づいてもこなかった。

 覚悟を決めて、ゆっくりと目を開けた。

 信じられない光景が目に飛び込んできた。

 何も変わってなどいなかった。

 青年は静かにたたずみ、蔦は室外にわだかまっていた。時々、襲いかかるような素振りを見せるが、ある一点まで迫るとまるでしっしっと犬のように追い払われて、元の位置に引き下がるのだ。


「こっちに来て、僕の後ろについてきてください。いいですか、絶対に離れてはいけませんよ。離れたら、このサラダのサラダになってしまいますからね」


 状況を完全には把握出来なかったが、とにかく理性よりも本能に従うことにした。青年についていくかぎり、なんとか生き延びることができる、そんな形の信頼ができていた。

 青年が一歩を踏み出すと、磁石の同極を近づけたように、蔦たちは退いた。

 偶然ではない証拠に、青年が無人の野を行くがごとく悠然と進むと、緑の蛇たちは、王に跪く廷臣のように端へと避けるのであった。

 彼に挑もうとする覇気のある蔦もあったが、すべて先達の前例に従う。

異世界の行進は、地下室から出て、あの女性との道行を辿り、見覚えのある場所へ戻ってくるまで特別な事は何も起きなかった。館の主人と名乗った女性に遭うこともなかった。 

 解放されたガラス窓から、夜の翼が押し入り、人口の光が迎え撃っている。

 天井に下がっている電灯から降り注ぐ光は、違和感の元凶となっていた。

 逆に考えれば、一番恐ろしいのは、この超自然現象に支配された緑館にぽつんと輝く人口物の存在であったろう。人知を超えた出来事の渦中で、ただ一含みの温かみも優しさもない電球の光。

 唐突にわたしはある疑問を思い立った。


「……何でこの部屋だけは蔦が入ってこないんだ。窓は開け放しの状態なのに変だぞ?」

「そうですねぇ、とても変ですね」


 同意しているのか、してないのか、はっきりしない。

 彼はまるっきり違うものを眺めていた。

 遠くなってしまった思い出を宿した眼だった。

 横顔は哀しみに彩られていた。

 自分のために心を痛めたのではなく、何か別のもの、自分自身に関係しないことに泣くための顔であった。

 初めて、わたしはこの青年に親しみを覚えた。

 そこには絵画が壁にかかっていた。

 断言してもいい。

 昼にはかかっていなかったはずの品だ。

 小さなB5判程度のサイズの絵画だった。

 キャンバスに描かれているのは、ヨーロッパの僧服をまとった老婦人だった。

 わたしだって、専門ではないので詳しい訳ではなかったが、あとで調べたところによると、それはキリスト教が完全に布教する間際にケルト人への伝道士が、ドルイドとの同化を促すために着たものだということだ。

 食い入るように絵を見つめていた青年が振り返る。

 背後にいるわたしを通り過ぎ、扉へと。

 華奢な孤影が、廊下を埋めつくす蔦の群れを従えていた。

 そこにいたのは誰でもない、緑館の主人と名乗った女性であった。


「またお会いしましたね、シートランドさん。あら、まだ、帰っていなかったの、シーリーコート」

「インターフォンでお話しただけで追い返されましたなんて言ったら、まるで僕が仕事のできない奴と思われるじゃないですか」

「あなた、そんな仕事熱心なタイプじゃないでしょうに。それに、門前払いを受けたからといって人の住まいに勝手に忍び込むなんてコソ泥と変わらないわ」

「僕にだって、都合というものがあるんですよ」

「減らず口ばかりね、あなたは。…とりあえず、お久しぶりというべきかしら、シーリーコート。もっとも私の知っているシーリーコートとは別人のようですけど。……まあ、あなたの存在は普遍性が強いものだから、その名で呼び続けるのがもっとも相応しいのでしょうけど」


 シーリーコートとは青年の名前なのだろうか。

 それは良き妖精といった意味だったような気がする。

 珍しい名前だとは思ったが、もしかしてこの不思議な青年には何よりもお似合いの名称なのかもしれない。

 青年―――シーリーコートとこれからは呼ぶ―――はゆっくりと口を開いた。


「……もう挨拶はしなくていいですよね。面倒ですし。じゃあ、さっさと用件を済ませてしまいましょうか。あなたはこれからどうするつもりなの?」

「それは『故郷(くに)』に帰るか、消滅するかの選択についてなのかしら?」

「うん、そうですね」


 シーリーコートは辛そうに首を縦にふった。


「今更、変わってしまった故郷に帰る気はないわ。私があそこを離れて、どれだけの時間が経ったのか、知ってるの? 私の知っているものはなんにも残っていないわ。 私の一族だっていない。 もう、昔からのダナーン神族もいない。普遍の存在のはずのあなただって、代替わりしてしまっているじゃない。 仲間達も、今では妖精なんていう、無様で矮小なものに堕してしまっている。だから、あそこはわたしの故郷(くに)ではありえないわ。それに、ここに落ちつくまで私は大勢の人間を食べて養分にしてきたしね。あなたが批准するルールに従えば、それは赦されざれる大罪ではなくて」

「別に、そういうものでもないでしょう。誰だって、お腹は空くしね。それに、あなたはここで落ち着いているんでしょ。人としてひっそり暮らしてきたってことは、少し調べただけですぐにわかりますからね。……それよりも僕が知りたいのはですね、どうして、傑作らしいとはいえ、彫刻のモデルになどなったんですか? そうすれば誰にも干渉されることもなく、朽ちることだってできたでしょうに。 僕だってわざわざ仕事をしにこなくて済んだ」


 今度、女性の方は寂しそうに笑った。


「やっぱり、私も旧き神族の一人なの。詩や芸術には眼がないのよ。あの人もそうだった……」

「……あなたもなんですか?」

「どういうこと?」

「どうして、あなたたちみたいな旧い種族は――死ぬ定めにないものたちは、定命の者に心を奪われるんでしょうね? あなただけじゃない。実に多くのものたちが、その宿命ゆえに滅んでいく」

「……」


 言い知れぬ沈黙が二人とわたしを断ち切った。

 内容はわからなかったが、二度と体験したくない類の寂しすぎる沈黙だった。

 わたしと彼等との間には、超えがたい溝があることを感じ取らずにはいられなかった。


「……あなたにもわかるわ。それまで、何も知らずに運命に踊らされる裁判官の役を勤めることね。今のあなたは酷薄な存在なのよ、『祝福された妖精の法廷』、『オーベロンの落とし子』、『人に(あら)ざり魔に(あら)ざり』」


 女性はまっすぐこちらへ向き直った。

 刹那に背後の蔦の群れがまたたくまに全身を覆いつくし、窓からも再び津波のように侵入してきた。

 まさに怒涛。

 一方、シーリーコートの両腕がのんびりと左右に広がった。

 蔦は、わたしを完全に無視し、彼に集中していく。

 青年の白い上着が一気に雄々しく、そして燃え上がる炎のように翻った。

 猛り狂う緑の雲霞に抗ったのは、一陣の白い旋風。

 わたしは二度と自分の眼を疑うことはないだろう。

 きっとだ。

 シーリーコートの白着が腕に連動し、まるで白鷺の翼のように無限長に伸びていくと、室内が白一色に席捲され、完全に緑は駆逐された。

 白の圧倒的な支配力。

 緑の軍勢が嘘のように消え去った客間には、わたしとシーリーコートしか残っていなかった。

 ただ、あの女の代わりに例の彫刻がぽつんと置かれていた。

 ひっそりと、不滅の存在であるかのごとく。

 わたしたちはその名を同時に口にした。


「ケーアフィリィの緑の婦人……」


 シーリーコートがそれを手にして脇に抱えた。

 無謬の時がしばらくの間だけ留まっていたが、いつしかわたしたち二人は向き合っていた。


「……シートランドさん。さっきのマッチはまだあります?」

「あるよ」


 我ながら力のない返事だった。

 背広の内ポケットにしまったはずのマッチがなく、ズボンのポケットに入っているのを見つけるまで、彼は黙って待っていた。


「この館に火をつけてください」


 とんでもない発言だが、わたしには痛いほどその気持ちがわかった。

 しかし、わずかな意見を出してみることにした。彼ならわかってくれるかもしれないという、期待をこめて。


「あの地下室の作品たちはどうなる?それに、彼女の居たという記憶を無理に消してしまうよりも、誰かにここを譲渡して、記憶を風化させる方がいいんじゃないかな……」

「うーん、それも、そうですね。……僕が記憶をなくすには、どれだけの時が必要なのかはわかりませんけど。……無為にここを滅ぼすのはもっとも愚かなことかもしれませんし。じゃあ、シートランドさん、それでは庭の木々にだけ火を放って下さい。あとは僕がなんとかしますんで」


 わたしの怪訝そうな顔に気がついたのか、


「安心してください。館にではなく、彼女の遺骸だけを焼くのです。あなたが気づいているかはわかりませんが、彼女の本質はこの館を覆うあの樹木たちなんですから」

「建物は燃えたりしないのか?」

「なんとかして見せますよ」


 わたしは素直にシーリーコートを信じた。

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