白き異邦人
もし、出窓にあと数歩でも近づいていたら、蔦は一気にわたしを捕らえて放さなかっただろう。ささやかすぎる幸運は、まだ効力を保っていてくれたようだった。
押し寄せてきた蔦たちの数は、およそ七、八本。
それぞれが独自にうねり、発狂した不気味な蛇のように床を這い寄ってくる。
先端だけが鎌首をもたげた蛇のごとく宙に浮いていたが、むしろ動きそのものは雨の日のミミズに近い感じで、縦に縦に伸び縮みしてくる。
次にとるべき自分の行動について、正確な判断をすることは難しかった。
それでも、このような異状な出来事に接しつつも、保身のためとはいえ、心が恐慌状態に陥らなかったということを神に感謝したい。
わたしは肉体と理性の動きを、恐怖にひきつった常識的思考から切り離すことができたのだ。
つまり、わたしの理性は、ありえないと現実を否定するまえに、不可思議を肯定することをやってのけたというわけだ。
この段階における適切な行動とは、非常に情けない部類に入るが、そのまま何もせずに傍観するということだった。
冷静に室内を見渡し、蔦の動きを観察してみると、部屋の中心位置を越えて伸びると格段に侵入速度が弱くなり、まるで盲人が机上のものを手さぐりで探すようおそるおそるという感じになるのである。
どうやら、この奇っ怪な蔦は――まさに文字通りと言うべきだが――視覚に頼っているのではなく、完全に触覚で行動を決定する性質を持っているらしかった。
加えて、ひまわりが太陽の方角を向くのにも似て、熱には著しく強い反応を示すらしかった。
それが顕著に表われていたのが、灰皿に捨てた煙草への反応だった。
一本がおそるおそる―――主観的にみるとだ―――テーブルを這いずり回り、その脚に絡みつき、アルミの灰皿で紫煙を発する煙草に触れた途端、激しく悶えながら餌を貪るピラニアのように全部の蔦が群がっていったのだ。
蛇が巻きついていたテーブルの脚から、ごりごりと締め付ける無骨な音がしたかと思うと、これもあっさりと半ばから折れた。わたしは石にさえ根をはることのできる植物の力を思い知った。
たかが一本の煙草に対するとはいえない、顔面が蒼白になるほどに凄まじいまさに暴力そのものだった。
ウツボカズラ等の食虫植物とは異なって自ら餌を狩猟し、さらに捕らえたものなら決して逃がさないとでも言うべき執拗なまでの群がりようは、眼前のものに対する恐怖をいやがおうにも増していく。
そして、蔦たちは自分たちの過ちを確認すると、また同じように室内を這いずり回り始めた。
触れてしまったらおしまいだと、わたしは数本の蔦が調べ終えた地点へそっと移動していく。
案の定、さっきまで居た場所には蔦たちがすぐに這い寄っていく。
おぞましいほどの緑の跳梁はそれでも止むことはない。
より一層ねちっこく、こちらの気が狂わんばかりの執念で室内の探索を続けるのだ。
近くへにじりよられる度に、身体を捻るなどして最小限の動きでかわし、もっと遠くへと逃れる。
それは蔦とわたしとの静かで命がけの戦いだった。
どのぐらい過ぎただろう。
ふいに蔦による室内の探索は終焉を迎えた。
入ってきたときと同様に、ほぼ無音で外へと抜け出していく蔦を、わたしはわずかな安堵の吐息と共に見つめた。
最後の一本が消え去ると同時に窓に駆けより、一気に閉め切った。
これでしばらく安全だろう。
尋常ではない疲労に耐え切れずソファーに倒れこんでしまったが、そんな安堵感を意地悪く妨害するためとしか思えないタイミングで、ノックの音が届いてきた。
あの女だったならば渾身の力で掴みかかってやりたかったが、残念なことにわたしの体力と気力は既に尽きていた。
返事がないからか、ノックの主はノブをひねった。
開かない。
当然だろう。自分で鍵をかけたのを忘れたのか、とわたしは毒づきたくなったが、まったく声がでなかった。
ノックの主はそれでもしばらくノブをひねり続けていた。
いい加減に飽き飽きしていたので、なんとか無理を押して立ち上がった。
もう少し無理をして腹から声を出そうとした。
その時だ。
穏やかな声を背後からかけられたのは。
「お疲れですか?」
わたしは愕然として振り向いた。
驚きには二重の意味がこもっていた。
どうやって完全な密室状態の部屋へ入ってこれたのかと、何者なのかという意味だ。
真っ先に目についたのは、この侵入者がまとっている服による白い壁であった。それが単に布地の大きな上着だと理解したのは、数秒後のことだ。
さっきの蔦による異次元的体験において発揮された冷静さは残念ながらやってこなかった。
今年の新流行の一つかとも思われた、生地の複雑な立体構成によるマント類似のフォルムをした斬新かつ珍奇なデザイン――何枚の布が連なっているのか判断もできない――コートを着込んでいるのが印象的だった。
そして、ひどく緩んだ笑顔の、優しそうで端正な美貌。
黒い髪と、七色の奇妙な輝きを放つ瞳を備えた青年だった。
腰と膝に集まっていた最後の気力が抜けていくのを、わたしは感じていた。
青年の微笑みの効力であったのだろうか。
「どうしたんですか。ああ、ビックリしちゃっているんですね。すいません、突然声をかけて」
「…ちょっと待てよ」
「ええ、待ちますよ。早く、気を取り直してくださいね」
「…」
「どうですか、回復しました?」
ちょっと黙ってくれないか、と言いたかったが、それよりも何よりもわたしが訊きたかったのは別の内容だった。
「あんた、人間だよな?」
至極当然の質問だったのだが、コートをまとった青年は少し戸惑ってから、「まあ、ええ」と曖昧な返事を寄越した。
この段階で気づいたのだが、彼には少々訛りがあった。発音としては、東部十三州のそれに近いのだが、どことなくアイリッシュにありがちな独特のアクセントがある。
アイルランド系だろうか?
黒い目と黒い瞳はケルトの貴族を思わせた。
「なあ、あそこに赤いマッチが転がっているだろ。……拾ってくれるかな?」
わたしは青年から目を離し、テーブルから転げ落ちたマッチを探した。
まだ、しばらく動きたくなかったので、そう頼み込む。
青年は何も言わずに床からマッチを拾い上げた。
温厚そうな顔に、ありありと納得しきったような表情が浮かんでいた。箱の表面をさすりながら、わたしに視線を戻して諭すような声を出した。
「煙草を吸ったんですか……」
わたしは素直に頷いた。
疲れきっていて、それがどうしたと噛みつく気にさえもならなかったからだ。
「何があなたの身に起きたかはほとんどわかりました。でも、よく我慢できましたね」
「――いったい、何を知っているんだ?」
「うむ、何と言っても僕はシーリー……」
ここで何故か一つだけ咳ばらいをして、
「きっと窓から蔦が入ってきたんでしょ。こんな感じで、うにょうにょ、ペたペたってね」
と、ごまかすように両方の掌を水平に掲げて、さっきの蔦の真似をした。妙な踊りのようであった。
わたしの驚愕がどれほどのものであったのか、正確には計れない。味わった恐怖と戦慄の時に匹敵するほどのものであったことは間違いなかったが。
さらに青年は鍵のかかったドアに近づき、なにげなくノブを摘んで後ろ手に引くと、あんまりにも無抵抗にあっさりと開いた。
どのような手品を使ったのか、特別なことをしたとは思えないのに、閉ざされていた筈のものが解き放たれたのだ。
「さて、ここから外へ出ましょう」
「おい、ちょっと説明してくれ!いったい、何がどうなってるんだ?あの蔦どもは何だったんだ!」
わたしは説明を求めてひとしきり叫んだのだが、青年には馬耳東風という感じで聞き流された。
掴みかかろうとさえしたが、青年に触れることさえかなわなかった。
身のこなしがまるで空気そのものだったからだ。
「……説明をすること自体はやぶさかではありませんが、おそらく理解はできませんよ。僕としても面倒ですし、何も見なかったことにするのがきっと楽でしょうね」
ここでわたしの胸に珍しく職業上の動かしがたい義務感が、ひょっこりと首を覗かせた。
自分がこの緑館に来た目的をようやく思い出したのだ。
例のN氏の彫刻は何としても持ち帰らねばならない。
だが、それはすぐに別の衝動に打ち消された。
来たときと同様にさっさと立ち去ろうとする青年の背に、わたしは問いかけた。
今まで、発したこともない真摯すぎる声だった。
この時初めて、わたしが、あの奇妙な彫刻にどれほどまでに心を奪われていたのかを悟った。仕事上の義務感さえもかき消し、真にわたしの心を占有しきったものは、今までに隠してきた彫刻という芸術への憧れめいた渇望だったのだ。
数年前、わたしは彫刻家になろうと志していた。
生まれつき手先が器用だったのが幸いして、脳裏に思い描いた青写真そのままに一個の物体に築き上げる技術には不自由しなかった。だが、その能力が逆に禍になるとは夢にも思わなかった。
わたしの才能が、夢を奪う結果になろうとは。
学んでいた教室の講師は言った。
「君の彫刻は技術に走りすぎるようだ。彫刻に対する思い入れが極端なまでに感じられない」
結果としてその宣告が、わたしを彫刻の道から突き放す結果となった。
芸術に縁があるはずもない会社にわざわざ就職し、その手の話題には決して加わらずに過ごしながらも、プロフィールの趣味欄に『彫刻』と記してきた未練について、ようやく解が出たのだ。
この話を嫌われるほどしつこく同僚に聞きまくったこと、その同僚の疚しいパーティーについてわざと上司に報告しなかったこと、マネージャーが近づいてくるのを心の隅で期待していたこと、待ち切れずにすぐにオフィスから飛び出したこと。
そして、生きているように蔦が追ってくるという恐ろしい光景に耐えることができたのも、もしかしたら関係があるのかも知れない。
これらのことから導きだされる結論は一つしかなかった。
わたしはまだ諦めてはいないのだ。
そして、あの彫刻に対する思い入れは、わたしに人生をやりなおすだけの余地が有ることを物語っているのだ。
「わたしは、あの彫刻をもう一度見たいんだ。頼む、手伝ってくれ」
「彫刻とは?」
「あ、あの『ケーアフィリィの緑の婦人』のことだ。Nの最高傑作かもしれない、あの作品を是非もう一度、この目で、この目で……」
「……『ケーアフィリィの緑の婦人』。……それがこの館にある彫刻の名前なのですか?」
「ああ、あれをもう一度見るまで、俺はここから離れないぞ」
ここに至ってわたしには、会社のためという動機は一滴さえも残っていなかった。すべては自分のため。恥も外聞もなかった。
夢を一度は諦めた人間が、性懲りもなく最後の希望にすがつているのだから当然といえば当然だ。
会社がどうなろうと、展覧会が潰れようと、どうということはない。
わたしはただもう一度だけ、あの彫刻を観覧したいという純粋な欲望だけに満ち溢れていた。
「どこにあるんですか、それは?」
「あんたもあれを見たくはないか、見たいだろ? だったら俺に案内させてくれよ」
強引なまでの話のこじつけかただったが、この青年の助けなしにあの地下室に行くことはできそうもない予感があった。
誘導尋問に近い手段を用いてでも、かき口説く必要があった。
それは直感だ。
青年の顔にまぎれもない好奇心が混じっているのが見えたし――他にもいくつか理由がありそうだが――お人好しそうな顔つきは、無理に頼み込めばなんとかなりそうな印象を与え、おだてると調子にのりそうな気もした。
事実、彼は話に乗る気になったらしい。
「いいですね。それじゃあ、行きましょうか」
「俺が案内するからついてきてくれ」
「別に案内しなくてもいいですよ。この館の中程度なら、僕に行けないところはありませんし」
突然、目に映る世界が真っ白に染まった。