幸福商人
目の前に置いた小瓶を、私は奇妙な心持ちで見つめた。
ロンドンに出張したときに、地元の土産物屋で買った品だった。
そこの店員が言っていた言葉が印象的だったので、思わず購入してしまったのだ。
店員は、
「この小瓶の中に詰められた液体はですね、飲むと自分の最大の幸福を自覚できるようになるのですよ」
「……どういうこと?」
「つまり、お客様の一番幸福な時代―――つまり、今を大切に思えるようになるのです」
「仕組みがわからないわ。ドラッグみたいなもの?」
「いいえ、検疫局に持って行かれても何の問題にもなりません。どこの国の違法薬物にも指定されていませんから」
「私、日本人なんだけど」
「まったく、大丈夫です」
普段なら用心深さを発揮するところだったが、私はついその小瓶を購入してしまい、あまつさえ日本にまで持ち込んでしまったのだ。
場合によっては薬物の密輸として逮捕されかねない行動だとわかっていたのに。
あの時の私はどうかしていた。
土産物屋の店員の口車にまんまと乗ってしまったのだから。
うまく乗せられたということもあったが、それよりも私自身に自分の幸福を確認したいという気持ちを抱えていたのが原因だろう。
私は自分の部屋を見渡してみた。
虎ノ門にあるマンションの一室。
俗に億ションといわれているほどの贅沢な部屋だ。
調度品も私と夫の年収にふさわしい値段も張ったものばかりで、窓から東京タワーが中央に構えている夜景が見える最高の立地でもある。
ボトルクーラーの中では最高級のリキュールが冷やされ、グラスの中で私に飲まれるのを待っている。
足元の絨毯も柔らかくて肌触りがいい。
何不自由のない生活だ。
唯一、夫と過ごす時間が少ないということを除いては。
「また、遅いのか……」
壁時計を見ると午前一時。
この調子なら朝帰りだろう。
誰もが知る商社の重役を勤める夫は、このところ帰りがいつも遅い。
浮気している……訳ではないだろう。
なぜなら、私は彼と同じ職場に勤めているからだ。
部が離れているが、それでもお互いがどういう仕事をしているかなどは筒抜けの環境であり、浮気などしようものならすぐに把握できる距離関係にはある。
ただ、このところの帰宅時間の遅さは、下請けからの接待のせいだろうとは思うが、どうにも多すぎるような気がする。
そろそろアラフィフの旦那の健康状態が心配だった。
夫との子供はまだいない。
というよりも、三十五歳を過ぎた段階で諦めている。
妊娠するにはもう高齢だからだ。
それに夫には前妻とのあいだに一人の男の子がいるし、私と次子を作る気は最初からないと言っていた。
まあ、それは私も同じなのだが……。
リキュールを口にする。
美味しい。
私の二千万を越す年収をもってして初めて飲める素敵な味わいだ。
そう言う意味で私は自分の幸せを理解していた。
幼い頃は、離婚した両親のせいで苦労していたし、大学に奨学金でなんとか入るような人生はもう懲り懲りだった。
食べたいもの食べられない、着たいものも着られない、そんな生活はまっぴらだった。
大学を出た直後、今の商社に入った頃の苦労話なんて吐き気がするほどに思い出したくない。
だから、だろうか。
私は今の自分の幸せを確認しておきたいのだった。
今の生活を大切にして、ぎゅっと心に止めておきたい。
この小瓶の中の液体がどういう目的で作られたのかはわからないが、それが出来るというのならば是非お願いしたいものだ。
たとえ眉唾物でも別に構わない。
払った額など大した支出ではないし。
そのあたりの平凡なOLの手取り月収程度だ。
昔の私ならばともかく、今の私にははした金。
ドラッグの類でなければ問題ないだろう。
そうして、私は小瓶を手に取り、中身を飲み干した。
甘い味がした。
なんだろう、この味は。
山歩きの時に口にしたざくろのような味だった。
「意外と美味しいわね……」
私は舌なめずりをした。
一気に飲み干してしまったが、実は少しずつ飲んでじっくり味わったほうがよかった気がしたのだ。
もったいないことをしたな。
その時、私の目の前にあるガラス戸のこちら側。つまり、私のいる室内にいつのまにか白い服をまとった青年が立っていることに気がついた。
奇矯なフォルムをした古臭いデザインの白いコートをまとい、同じ色の帽子を軽めに被った黒髪の青年だった。
男とは思えない超然とした美しさに、幻を見ているかのように錯覚した。
もしや、小瓶の中の液体が見せた幻―――要するに幻覚剤だったのかと考えてしまうほどに。
「……ああ、少し遅れてしまいました。もう飲んでしまわれたのですね」
青年が眉をひそめて、いかにも残念そうにつぶやく。
いきなり自分の部屋に若い男が現れたという事実に対して、なぜか私はほとんど気にならなかった。
それほど、青年の美貌とその佇まいが幻覚じみていたからであろうか。
むしろ気になったのは別のこと。
「飲んではいけないの?」
「いいえ、必ずしもそういうわけではありません。貴女が現状に満足されているのなら。では、目を閉じてじっと考えてみてください。貴女にとって今が幸せであるかどうかを」
「……私が幸せかどうか?」
私は訳も分からず、ただ言われるがままに目を瞑った。
そして考える。
私は幸せか否かを。
「ひぃ!」
思わず口から悲鳴が漏れた。
私の瞼の裏に浮かんだものは、今の生活でも、充実した仕事場での働きでも、愛する夫の顔でもなかった。
浮かんできたのは、もう何年も思い浮かべることもなかった親子のものだった。
あまり特徴らしい特徴のない、普通に善良そうなにこにこした笑顔だけがウリの男と、私によく似た髪質をした三歳ぐらいの女の子。
どちらの写真も持っていなかったのに、やけに鮮明に細部までくっきりとしている。
それは……。
その二人は……。
「どうして、この二人が出てくるのよ!」
それだけではない。
どんどんと奔流のように脳を溢れさせていくのは、その二人と過ごしたうさぎ小屋のような1LDKでの暮らしの模様だった。
女の子のために離乳食を作り、男のために洗濯物を畳み、仲良く河川敷を散歩し、近所の動物園で記念写真を撮り、安いファストフード店でハンバーガーを分けて食べ、そして、三人で川の字になった眠りについた日々……。
かつて捨てたはずの生活が頭の中を駆け巡っていく。
「なんで、あんな昔のことを思い出すの! どうして! あんなつまらない生活のことをどうして!」
私の叫びを白い青年は無表情に眺めていた。
「……今の生活のことではなく、過去の記憶が甦ってきているのですね?」
「そ、そうよ! どうして、前の夫と娘のことなんかが出てくるの! あんな貧乏で誰にも褒めてもらえない時代のことが!」
そう。
私が思い出していたのは、十年前に離婚して別れた前夫と実娘のことばかりだった。
今の夫のことなど欠片もでてこない。
まだ既婚者だった彼と逢瀬を重ねていた刺激的な日々のことも、彼と行った楽しすぎる旅行のことも、会社で同僚や上司からされる称賛のことも何もかも。
出てくるのは、すべて捨てた前家族のことだけ。
なんで、なんで、なんで!
どうして、あんな退屈でつまらない男や私に似て不幸な目つきをした可愛くない娘のことなんて思い出すの!
あの小瓶は幸せを確認するためのものではないの?
なんで嫌で不幸せだった頃のことばかりを思い出させるの?
どうして?
どうして?
「その小瓶の中の液体は、本当の名前を〈小人への贈り物〉と言います。その効力は、影で支えてくれる妖精がしてくれていることを人々が自覚するための、まあ、押し付けがましい代物です」
「小人って……」
「妖精の世界のものですね。貴女がロンドンで購入した店では、そういう性質の悪いものを売って利益を得ていたのです」
私には何が語られているかわからなかった。
妖精とか、小人とか、まるで御伽噺のようにしか聞こえない。
「これは、さっきの液体のせいなの?」
「ええ。貴女の脳裏に今浮かんでいるのは、貴女のこれまでの人生において最も幸せであったと『脳が覚えている』時代のことなのです」
「……そんな馬鹿な! 私は今ず一番幸せだし、ここでの生活こそが最高だと確信しているのよ!」
「確かに今の貴女も幸せなんでしょう。ただ、〈小人への贈り物〉の厄介なところは、貴女の全人生を通して貴女自身の脳から発生したドーパミンが最も多かった時期を探り出して確定させるものなのです」
「ドーパミン?」
「ええ、ドーパミンです。それ以外にもセロトニンが含まれているようです。要するに、快感ホルモンである脳内物質の分布履歴から貴女が幸福だった時代を割り出すのです。そして、それを確定する。今、貴女が考えているのは、肉体自身が感じていた幸せな時代の残滓なのですよ」
……それって、どういうことなの?
今の満ち足りた生活よりも、あんな時代のことがよかったとでも言うの!
私の心はともかく肉体はあの時期を欲しているとでも言うの?
前夫は高校時代からの付き合いで、貧乏でワケありだった私をずっと支えてくれていたことだけには感謝しているわ。
夫と不倫関係に入る前は、男というと前夫しか知らなかったし、彼以外と付き合ったこともない。
まともに結婚式もあげられなかったのは、私の両親―――特に父親がたかりに来るのを防ぐためで、前夫のせいではないけど、離婚の時に私は「結婚式もあげられないくせに」と罵った記憶がある。
出ていこうとする私を泣きながら引き止める娘がウザかったので殴りつけたこともある。
でも、もう離婚して別れているのに母親面するのが恥ずかしかったからで娘が憎かったわけではない。
あんな娘でも私には可愛い娘だ。あの娘の存在があるから、私は夫との間に子を作らなかった。それぐらい、今でもあの娘を愛している。
すでに部長職にあり一千万以上の年収があるうえ、大金持ちの息子の夫と前夫を比べるのはバカバカしかったが、それでもすぐには離婚せずに二年は我慢した。
それだけあの生活に未練はないのに。
どうして、あの時のことばかり……!
もしかして本当に幸せだったとでも言うの!
「どうして、こんなものを私に飲ませようとしたの……?」
「たぶん、貴女の今浮かべている表情が見たかったからではないでしょうか。〈小人への贈り物〉を売った幸福商人にとって、それこそが一番の娯楽だからでしょう」
夜景が見える窓ガラスに映った自分の顔を見る。
真っ青だった。
そして、見たこともないぐらいに老けていた。
知りたくない真実を無理矢理に突きつけられた猿のメスのように。
「貴女というか、欲の深い人間というものは妖精にとって絶好の玩具なんですよ。弄ぶために、ちょうどいいから」
「ちょうどいいですって……! 人の醜態を嘲笑うのが楽しいというの!」
「楽しいんじゃないでしょうか? 人間だって世間一般ではけっこうそういうものなのではないでしょうか。 貴女はどうやら踏みにじってはいけないものを無神経に粉々にしてきた人生を歩んできた方のようですから、きっとおわかりになるでしょう。今の貴女もそれなりに幸福だったみたいだからわかると思いますが……」
青年は残酷に言い放った。
「幸せに生きている人を無残に傷つけることほど楽しい娯楽はない、という人は意外と大勢いるものなんですよ。―――貴女みたいに」
私はもう動くこともできなかった。
自覚してしまった幸福な時代を塗り替えるには、あれ以上の幸せを感じるしか道はない。
だが、それは無理だろう。
上り詰めたはずの今の生活でさえ感じない幸せを、これからの私がどうやって感じ取ることができるというのだ。
四十代になった、子もいない女に、これからどんな人生が待つというのか……。
私は最後に残ったぬるいリキュールを飲み干して、ただ途方に暮れるのであった。




