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シーリーコート伝承  作者: 陸 理明
第一話 グリーンミストレス
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蠢き、蠢き

 廊下は相変わらず薄暗かった。

 電灯らしいものはいたる所に点いているのだが、これも淡い光しか発しないせいで、文字通りに視界を補う意味でしか役に立っていなかった。

 しかも、幾つかは寿命のせいかチカチカと付いたり消えたりを繰り返している始末だ。

 もっとも、無言で歩む道行きは、いたるところに窓があるせいで意外と素晴らしいものだった。窓の外に見える街並がではなく、窓自体の雰囲気がよかったのである。

 窓枠に絡みつくおびただしい緑の蔦と古風な模様付きガラスの組み合わせに、中世に戻ったかのような幻想に捕われるからだ。

 童話の眠り姫はこんな景色の中で救い主を待ちつづけていたのだろうか。

時の果てるまで、自分を知る親しいものたちが次々に朽ちていくまで、唯一定められた迎えの王子が現れるまで……。

 壁の隙間から入り込む植物の触手が足元にのたりのたりとくねっている中を、わたし達は地下へと続く楷段を下っていった。

 適度の低温乾燥を好む絵画などを保管するために、わざわざ地下室をあつらえている屋敷も数多い。極端な場合、人間よりも芸術作品の方が待遇がいいなんて本末転側の例も存在するぐらいだ。

 案内された地下室はしっとりと肌にまとわりつく冷気を保っていた。

 エアコンもしくはそれに近い空調装置が常に作動しているのだろうが、それに伴う機械音は一切聞こえてこない。

 音として存在するのは、わたしたちの足音だけ。

 だからこそ、その音がはっきりと耳染に届いたのだろう。

 もし、ほんのわずかでも雑音があれば聞き取れなかったかもしれない。

 最初はちりちりという擦れたような連続音であった。


 ……り…ちりちりちり……。


 しばらくすると、さらに耳障りに強くなっていく。機械音ではない。まぎれもなく何かが連続してこすれあっている音なのだ。

 地下室の冷気がさらに増したのか、背筋をなにかが這い回る。

 これは怖気だろうか。

 心細くなったので、共の女性にそれとなく水を向けた。


「これは何の音なんですか?この、ちりちりって感じの変な音は?」

「…気づかれましたか?これは外から見れば一目瞭然だとは思いますが、館を取り巻くあの蔦が風にあおられたことで生じる音なんです。一階や二階にいるぶんには聞き取れることはないのですが、地下まで降りると相対的に静かになりすぎて、このようによく響いてくるようになります」


 確かに、筋道立てて説明されてみると、納得はいく。

 あれだけの量の蔦が幾重にも絡まっているのだ。屋根や壁の隙間等の悪い位置に陣取ってしまったものがあってもおかしくはない。

 だが、わたしのどこかで、何かが異論を唱えているような気がしてならなかった。

 それから、ようやく様々な芸術品が飾られた部屋で目的の彫刻と対面することができた。

 やけに大袈裟な舞台設定に惑わされていたのか、初見の印象は決していいものではなかった。

 あまりにも予想とかけはなれて、既知の作品と比べても極平凡な仕上りとしか思えなかったからだ。

 わたし自身、彼の作品について詳しいこともあって、その意識は非常に強いものであった。

 彼――ある事情があり、仮にNとしておこう――は、いわゆる前衛的な傾向のある彫刻家であった。

 その出身も国籍もアメリカではあったが、一時期、ニューヨーク美術史に名を残す彫刻家の弟子としてヨーロッパに滞在した経験があった。

 そして、そこで非凡ともいえる才能を開花させることになる。

 数多くの賞を受け、個展を開き、若くして名声を獲得した。

 以来、彼は世界でも屈指の前衛的彫刻家としての道を歩むこととなる。

 Nの作品の特徴としては、人間の業と自然の和らぎを融和させるため、生物と植物の複合的モチーフが多用されているという点が挙げられる。

 モチーフが有機質でありながら、無機質な彫刻となり、生々しくも冷たい造形美が、ある政治家の夫人をして「植物の根が背中をじわじわと突き抜けてくるように恐ろしい」と言わしめたほどである。

 その夫人は、後援者のひとりとして彼の死後も作品の啓蒙に努めており、どれほど若き芸術家の才能に心酔していたかが伺える。

 彼とその作品を目玉の一つとした大型展覧会をR&Aが手掛けることになった理由の詳しいところは不明だが、Nの作品モチーフがエコロジーを表面に押し出すのに丁度いいこともあり、会社の評判にとってプラスに働くことが考慮された結果だろうと想像できる。

 このNによる最後の未公開の遺作についての惜報が入ってきたのは、生前のNと交際していた小説家からであった。

 現在、彼の作品として完全なものは、約五十点ほどだと言われているが、そのほとんどが現存して美術館に収められている。

 個人所有のものは、件の夫人の所蔵する幾つかを除いて存在しないとされていた。

 現存するという情報がもたらされたのが、家族や彫刻家仲間からではなく畑の違う小説家からだという点に、Nの特異な面が現わされていてとても面白いとわたしは思っている。

 創作モチーフ自体は終生不変のままであったが、Nの人生は驚くほど多彩な色に満ちあふれていた。

 公的機関に届出があった妻は三人、プライベートの愛人と称する女たちは両手の指だけでは収まらず、ヨーロッパ時代の色恋沙汰も含めると到底全貌は把握できない数だと言われている。

 だが、Nは単なる漁色家という訳ではなく、また、女に対して不実だったというのでもなく、むしろただの惚れっぽい少年のような男性だったらしい。

 女性と別れるときも、ほとんどの場合は女性の方から別れを切り出されたという話だ。

 ある意味では世間ずれした人物だったのだろう。

 ことによったら、ここの緑館に住むという老婦人も、かつての愛人の一人だったのかもしれないと、わたしは下品な妄想をしていた。

 廊下よりもさらに暗い部屋に入ると、鉛色のテーブルにぽつねんと置かれている、二つに割けていく植物の塊が目に付いた。

 それが、目的の作品だった。

 よく観察してみれば幾重にも重なりあった植物の蔦が縦に螺旋を描いているということがわかる。生き生きとして、水々しいまでの光沢をも放ちそうな蔦の束の中心に、一つだけ孤独に浮かんでいるものがあった。


 人の横顔。

 

 はっきり女性のものとわかる、穏やかさを秘めた横顔がレリーフにされているのだった。

 最初は、幾分期待感が削がれた形となったが、気を入れて観察するにつれて、徐々に染み出してくる秘められた偉大なまでの迫力がわかるようになっていく。

 どれほどの情熱が作成において傾けられていたのか。

 台座に彫られた銘を読み取れなかったことだけが、非常に残念だった。

 何かしら書いてあることはわかるのだが、まったくわからない。英語でないことだけはさすがに判別できたのだが。

 どんな作品名なのだろうか?

 無性に気になった。

 目録に載せるためでもあったが、単純にNのセンスに触れたかったということもある。


「『ケーアフィリィの緑の婦人』です」

「えっ?」


 思わず問い返してしまった。

 もう一度その奇妙な名前が繰り返されたので、幸運なことに今度は聞き逃さずにすんだ。


『ケーアフィリィの緑の婦人』


 不思議な銘であった。

 乾ききった咽喉を潤す果実酒にも似た刺激があった。命名した人間に対する好奇心そのものまでもが膨らんでいく。


「名前通り、まさに緑の中に浮かぶ女性が……なんというか、そう、東洋の水墨画みたいに存在感を持っていますね。彼の創造力と表現力の最たるものだと思います」


 わたしの気取りを、女性は淡々と返答で打ち消してきた。


「Nにとって、これはただの創造力の発露ではありませんでした。評価として正しいのは、彼の写実主義の傑作だという評価だけですね」

「どういう意味ですか?」

「さあ、戻りましょう。長くここにいると風邪をひいてしまいますから」


 驚くべき事実を含んだ会話をさりげなく中断し、彼女はさっさと部屋から退出してしまう。

 わたしは慌ててそのあとを追った。

 彼女は、その後もわたしの質問には答えてはくれなかった。

 すっとぼけ方も自然で堂にいったものだった。

 次に、案内されたのはソファーと木棚、灰皿の乗ったテーブルだけが用意された小部屋だった。


「ここで、しばらくの間、くつろいでいてもらえますか。そう長い時間はとらせません」

「どのぐらいですか?」

「別のお客さまが来られる予定なので、それまでの時間です」

「へえ、一体どなたなんですか?」

「昔の知り合いです。あなたには関係がありません」


 取り付くしまのない断固とした口調に対して、ここは黙るしかなかった。

 この女性の昔の知り合いという相手について、是非とも尋ねてみたかったのだが、この美貌を前にすると思うように口を開閉することができなくなる。

 彼女が持つ威圧感の原因がさっぱり不明であることも、わたしの苛立ちと無力感をさらに助長する。

 これまでの人生でも似たような体験をしたことはあった。

 過ぎ去った幼き日に、厳格なプロテスタントの両親や威風堂々とした祖父母に叱られた時に感じたものに近い。

 人によって異なるかもしれないが、根底に広がる怯えは誰にでも共通のものであろう。

 すなわち、上に立つ人物、わがままな自我に対する抑止力を持った存在、壁としての者たちに対する畏怖だ。追い着けない年齢や能力に対する脅え。 これは大人に成長すればするほど、表面的には弱まっていく意識だが、逆に精神世界の土壌には必ず膨大な根を降ろして君臨し続けることになる。

 人間が誰でも備える劣等感や優越感はそこから生まれてくるのだろう。

 結論としては、わたしの心に対するこの女性の壁は――否定したかったが――いわゆる年齢差によるものであった。

 ほぼ同年代にしか見えない女性に、わたしを遥かに凌ぐ年齢の深みが溢れていたのだ。


「それでは、また後ほど」


 軽い会釈をして去っていく細い影を見送ると、鈍い倦怠感が我が身を押し包んだ。

 ソファーに座り、初めて脚がだらしなく震えているのを知った。

 わたしは落ち着きたかった。

 ポケットに入れておいた煙草を取り出し、可能なかぎりオーバーな仕草で、あの赤いマッチを取り出して火をつける。

 さっき、ここを訪問する前に購入した品だ。

 自分から好んで吸うことは滅多にないが、常に所持するようにしているのは、単に周囲との関係を円滑にするための言わばオイルとして活用しているからだ。

 わたしの周りには喫煙者が多いので、ある意味コミュニケーションのために不可欠なアイテムといえた。

 紫煙をくゆらせていると、ハイスクール時代、面白い吸い方をするクラスメートがいたことを思い出した。

 彼はいつも煙草を横にしてくわえるのだ。

 そうなると煙草というより、変てこりんなおしゃぶりのように見えた。

 一度だけそのような吸い方をする理由を尋ねてみると、


「こうやって吸うと、煙を肺に送らないですむのさ」


 と、答えてきた。

 試しに何人かが実験したのだが、彼の主張通りにはならなかった。ただの諧謔だったのだろう。みんなで無駄なことをしたものだと笑いあったものだ。

 あの頃はその場限りの会話さえも楽しかった。

 今とは違って。

 そんなノスタルジイを提供する落ち着いた懐古趣味の部屋を、気晴らしもかねて、よく見渡してみた。

 廊下のものよりも大きいが、形状的には変わらない窓が一箇所だけ開いていて、そろそろ翳りそうな陽光を取り込んでいる。そこから庭を見てやろうかと考えたが、生憎実行する気力が起きなかったので、カーペットの床を照りつける西日と、館の至る所で見られる植物の溝が作り出す、切り絵細工のような影法師を眺めるだけにした。

 このまま何もしなければ、わたしの生涯はどのような結末を迎えていたのだろうか。

 可能性としては、若いビジネスマンの失踪として幾人かのちっぽけな記憶巣を占領しえたぐらいで終わっていただろう。

 どこかで平凡なブザーの音がした。

 思ったよりも早く、もう一組の客が来たらしい。

 これならすぐにこんな囚人みたいな待遇から解放されるだろう。

 外はいまだ黄昏れてはいなかった。

 ほんの少しだけうとうとしてしまっていたらしい。

 西日による影がさっきよりも大きくなっている。

 もう一本だけ煙草を吸い、灰皿に火を消しもせずに捨てると、すこしだけ気が落ち着いた。

 わたしは気紛れに立ち上がり、ドアのノブに手を掛けた。その銀製の金属の塊はぴくりともしない。

 鍵がかかっている。

 嫌な予感が胸を黒くした。

 何故、鍵をかけねばならないのか。今度こそ、この怪事の巻き起こる館に対する不信感が沸き上がった。

 完全に閉じ込められたことがわかったので、唯一の脱出口であるらしい窓へ歩を進めた。

 わたしに幸運の女神が味方しているらしいことを悟ったのはその時だ。

窓へ向かおうとして先程眺めていた影を踏みつけると、脳裏に穏やかでない拒否反応が起きた。危険信号の方が真に迫っているかも知れない。

 わたしの脳細胞が警告したのだ。『さっきまでと影の形や大きさが違う』と。

 理性を働かせてみると、確かにその通りだった。

 影の位置は変わらず、されど蔦の影が増えて伸びているのだ。

 おそるおそる窓を見やったわたしは呼吸を忘れた。

 窓の外で縦横にくねり、直立したミミズのごとくに蠢いているのは、見知ったはずの細長い緑の紐であった。

 ナイフの刃のように鋭い葉が反りだし、何条かの溝がある緑色をしたロープ。一本一本の繊毛さえ、肉眼で判別できる気がした。

 無論、その正体はわかっている。

 さっきまで飽きるぐらいに眺めていたものなのだから。


 それは、蔦だ。

 

 妖しく奇怪なダンスを踊っているのは、まぎれもなく植物の蔦なのであった。

 何よりも恐ろしいことに、蔦はわたしが『彼ら』に気づいたことを悟ったのか、雪崩のように室内に侵入してきたのだ。


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