終章
「いや、さすがよね、レディン・マックウェル」
藤堂朋美はパンフレットをぺしぺしと叩きながら、満足そうにうなずいた。
朋美の対面に座った相手も、その感想には手放しで同意だった。
「失礼します」
ウェイターが注文したコーヒーを二つ、テーブルに並べる。
まだ熱いブレンドコーヒーのカップを手にとると、愛でるように黒い液体に口をつける。
一流ホテルのラウンジ特有の、一杯千円、おかわり八百円という値段に相応しい香りをも楽しみながら、ついさっき聴きに行ったコンサートの内容を反芻した。
噂に違わず、あのピアノ演奏はまさに秀逸そのものだった。
クラシックに興味を覚えたのは二十歳すぎてからだが、それでも才能の有無とその横溢さぐらいは充分に読み取れる。
あの音楽家は、天才かそれに近いレベルにいることは間違いない。
確信に近い断定だった。
「あの吸血鬼パーティーのときはヤバイことになるんじゃないかと、思っていたけど。杞憂ですんでよかったよかった」
と、朋美が何気なく言った。
「何、それ?」
「覚えていてないの? ああ、あんたはもうリトル・ヨコハマにはいなかったか。えっと、マックウェルが公式デビューする直前に、ちょっとしたイロモノ企画の演し物をやっていたことがあってね。そのとき、参加者の一人が死んだの。で、マックウェルも容疑者になっていたのよ。まあ当然のごとく関係はなかったけど」
「……へえ」
親友が急に無口になってしまったので、朋美はちょっと慌てる羽目になった。
やはり、英国時代のことは彼女にとってタブーだったかな、と反省する。
あの頃に、この親友にとっては決して忘れられない出来事があり、どうやら十五年近くたった今でもトラウマのままのようなのだ。
お互いにまだ結婚していないこともあり、お茶友達としても飲み友達としても貴重な存在をつまらない失言で無くすわけにはいかない。
「ん、気にしなくていいよ、朋美」
朋美の気持ちを察したのか、千夏子は微笑みながら慰めてくる。
昔と違い、感情のままに突っ走ることはほとんどなくなり、ある意味で淑女という雰囲気を醸し出すようになっていた。
あのとき、短かった髪は腰まで伸ばされ、黒い艶は神秘的だった。
自分は変わったと、千夏子は感じていた。
善悪や成否はともかく、全てはあの出来事が出発点なのだろう。
「そうは言ってもさ、ケイヤっちのことは忘れられないジャン」
目を合わせることが出来ず、朋美はケータイをいじることと、昔と同じ喋り方をすることで誤魔化した。
あの頃のことはよく覚えている。
千夏子の叔父に当たるケイヤとはロンドンで知り合ったが、結局半年ほどの付き合いでしかなかった。
なぜなら、ケイヤが行方不明になってしまったからだ。
警察沙汰にならなかったのは、どうやら相原家にとって重大な理由があったかららしいので、深く問い詰めたりはしていない。
だが、それからすぐに千夏子親子と彼女の祖母は逃げるように日本に帰り、二度とロンドンに戻ってくることはなかった。
しばらくしてから東京で再会した親友は、別人のようだった。
初めて朋美は事態の深刻さを悟ったが、すべては遅すぎた。
そして、二人の友情はそれからまるで贖罪の日々のように長く続いている。
「大丈夫よ。それにケイヤは元気にやっているから」
千夏子が、そう言ってバッグの中から一枚の紙切れを取り出した。
何かの雑誌の記事をスキャナで取り込み、プリントアウトしたもののようだ。画質はかなり高く、写真の細部まで鮮明だった。
意味はわからなかったが、何気なく受け取ってから一瞥した途端に朋美は固まってしまった。
そこには、見覚えのある少年の姿がはっきりと映っていたからだ。
白い彫刻。
儚げで華奢な印象なのに、モデルの持つ心の強さが鮮明に浮き彫りにされた人物の彫刻だった。カメラと印刷という二つのフィルターを通してもなお、その素晴らしさが伝わってくる。
朋美は、今日は凄い芸術に何度も触れる日だと嘆息した。
製作者はアーリム・シートランドとある。年齢は三十二歳。さっきのレディン・マックウェルと同様に彫刻家としてはかなりの若手だった。
プロフィールなどはないが、つちかってきた経歴はあまりない、ぽっと出の彫刻家のようだが、実力の世界で大切なのは作品の出来映えだけだ。
これほどのものならまったくもって申し分ない。
作品のタイトルは『シーリーコート』とある。
それを眼にしたとき、朋美の胸のうちに、何故か抑えようのない衝動が産まれた。
懐かしい何かを取り戻したような感覚だった。
「ねえ」
ある提案をしようとしたとき、
「朋美、この彫刻を観に行くのに付き合ってくれないかな? ニューヨークとなると、ちょっと遠出になっちゃうけど……」
その時の千夏子の顔は、朋美がかつて見たことのないほどの輝かしいまでの至福に包まれていた。
朋美は悟った。
この彫刻のモデルは、きっとあの消えた少年なのだろう。
理由も理屈も何も要らなかった。
愛する親友がそれを信じているなら、疑うことはなにもない。
「もちろん」
それに対する返事は、ただ一つしか思いつかなかった……。