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シーリーコート伝承  作者: 陸 理明
第五話 シーリーコート
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相原ケイヤはもういない

 ふわりと、ケイヤ―――シーリーコートが跳躍をすると、鳥のように軽やかに門前の石柱の上に到達した。

 一息置いてから、シーリーコートは自分の顔を見つめる者たちに穏やかに語りかけた。


「君たち、ようこそ、今生のロンドンへ。僕はオーベロンであり、また数百年ぶりに戻ってきたシーリーコートでもある。よくお聞き。君たちが僕の国を出て、これ以上、この人界に留まることはまったくもって得策ではないよ。下策といって言い。だから、早くこの霧に乗って自分のねぐらにお帰りなさい。今なら、すぐに眠りにつけばすべてが気楽に終われることが出来るからね」


 丁寧でのんきな演説に、殺気立った戦士達はどうしたのか。

 なんと、すぐさま回れ右をして引き返し始めたのである。戦うことはおろか、抗議の声を上げることすらもしない、あまりに唐突な変化だった。

 千夏子が呆然として口を半開きにするほどに。

 それほどまでに呆気ない幕引きであった。

 この奇跡を起こしたのは、紛れもなく石柱の上に立つ白い姿。

 まくしたてるのでもなく、怒鳴るのでもなく、ただ語りかけるだけ。それですべてを収めてしまうのだ。

 ある意味では、もっとも恐ろしい存在は彼なのではないか。

 そのとき、去り行く集団の一角から、一本の手斧が彼めがけて飛来してきた。

 間一髪、シーリーコートが首をかしげてかわす。

 だが、その手斧にぴったりと寄り添う影のごとく、黒いものがうねりを上げて、シーリーコートに飛びかかっていく。

 集団の中に潜んでいた生き残りの赤帽子が凄まじいまでのスピードで襲いかかったのだ。

 しかし、細い手が優美ささえ感じられる仕草でそれを受け止めた。

 どちらも信じられない速さであった。

瞬時に数メートルを跳躍し、必殺の刃をふるう赤帽子もだが、その利き腕を掴んだだけで攻撃を無効化したものが、普通の人間の訳がない。

 千夏子は、この世からケイヤという少年がいなくなったことをまたも確認することになった。

 突如、空中で静止した体勢のまま、小人は自分の腹を中心に独楽のように回転しながら、後方に吹き飛び、地面へ激突すると、ぴくりともしなくなった。

 シーリーコートは何をしたのか?

 何もしていなかった。

 姿勢にも動作にも、攻撃を受け止めた時と、寸分の狂いもない。

 だが、赤帽子を吹き飛ばしたのは、確かに彼なのだ。

 寒風が、白いコートの裾を優しくかき乱した。

 屋敷の中の誰も動こうとはしない。

 ざっざっという行軍の去り行く音だけが響くのみだ。


「ケイヤ……」


 千夏子のつぶやきに、


「見ての通り、もう僕は人ではないんだ」


 死闘の合間だというのに、シーリーコートには緊張感はまったくなさそうだった。

 パックがその様子を見てぼそりとつぶやいた。


「さすがはオーベロンさま。……いや、あの方はすでにシーリーコートですか。おいたわしや」


 その刹那、白い彼の周囲を風が渦巻き始めた。風は微風から、疾風に変わり、旋風へと一気にレベルアップして、真空の刃と化し、その場のあらゆる物を斬り裂いていく。

 現れたのは、奇怪で小型の恐怖の台風だった。

 まだ帰還していなかった数人の騎士たちをも巻き込み、その巨大な台風の被害は渦を巻いて加速する。

 ロンドンのストリートで、超小型の台風が猛威を振るっているとしか思えぬ怪異な状況の出現に面々は目を見張った。

 これに動揺せぬものは、赤い帽子の怪物だけであろうか。


「どうだい、シーリーコート? 触れば何でも切れるぜ。これはな、〈フェア・デアルグの風の魔術〉という奴さ」


 赤帽子は耳障りな奇声で笑いだした。

 このレッドキャップは邪妖精の群れの首魁だった。

 もちろん、他の連中とは格が違う。地面に激突した衝撃で動けなかったのではなく、この魔術を行使するために時間を稼いでいたのだ。

 そして赤帽子の首魁が自信たっぷりに言い放つように、竜巻となった一陣の旋風は幾つにも分裂し、ノコギリで堅い木材を切断するのにも似た、チリチリという音を立ててシーリーコートの四方を囲んでいく。

 どこにも逃げ場はなかった。

 赤帽子が風の刃に牙を剥かせないのは、彼に必要以上の侮辱を与えたシーリーコートを精神的にいたぶり、じわじわと全身の各部を致命傷にならない程度に傷つけ、最後になぶり殺しにするためであった。

 汚穢で残虐な期待であった。

 しかし、シーリーコートは焦りも戸惑いも見せずに、一歩だけ竜巻煙るストリートに進みでた。

 数秒先の彼を待つものは、惨たらしい死体としての姿だけのはずであった。

 外套(コート)を切り刻まれ、肌を裂かれ、そして命を砕かれるのが、彼に示された最後の道のはずであった。

 少し先に待つ青年の惨めな姿が赤帽子の脳基に浮かび、邪妖精のリーダーは歌い始めた。

 千夏子も同じ結末を空想のキャンパスに描いた。

 真実味と悪魔の笑いが限りなく絶望を駆り立てていく。二度と耳にしたくない地獄の羅卒のための声だった。

 その邪悪な笑いが静まった。

 シーリーコートは竜巻の群れの中心をなんなく抜け、千夏子の顔を見てから、白い微笑を浮かべた。


「安心して」


 限りなく優しい声だった。

 うつむいていた千夏子は青年の傷一つない顔を見上げた。奇妙なコートの表面には毛ほどの傷さえもついてはいなかった。

 白い青年にとっては、刃のような竜巻さえも、肌に心地良いただの涼風と変わるのであろうか。


「僕を誰だか忘れたのかい?」

「ケイヤ―――ううん、もうシーリーコートなの?」

「そうだよ」


 何気なく右手が突き出された。

 無造作な突き出され方だったが、それがどんな力を秘めていたかは、赤帽子の身体が触れてもいないのに宙を舞ったことで証明された。


「あっ!」


 不可視の打撃を受けて、赤帽子が吹き飛ばされた。

 奇妙なコートが大げさにたなびくマントのように風に揺れた。


「邪妖精、もう終わりにしたら」


 赤い帽子がまたも跳躍した。先程の光景の再現だ。

 大気が灼熱に変じる。

 白い姿が赤い小人の眼前から、横へと流れていった。

 執拗に必殺の斧がその跡を追尾する。

 受け止めようとしたシーリーコートの動きがわずかにぶれた。その隙を見逃す邪妖精ではない。

 二つの動きが交差し、離れた。地に膝をついたのは、シーリーコートであった。続いて左手が地面にこれ以上身体が倒れることを防いだ。

 右肩の付け根あたりを庇っていた。

 彼を嘲笑うかのように、小人は自分の帽子をぴたぴたと叩いた。

 勝利の舞いのつもりなのかも知れない。


「つまらない。それに楽しくないし」


 音もなく、勢いもなく、迫力もなく、青年は立ち上がった。

 コートが文字通りに羽根のように、四方に広がっていった。 

 風もないのに、たなびくコートを呆然と千夏子は見つめた。

 青年は何もしていない。

 衣装のみが羽ばたいていた。

 レッド・キャップは訳がわからず、ただの傍観者となっていた。


「……シーリーコート」


 誰かが呟いた。

 自らが放った台詞だと、赤い帽子の妖精は最期の瞬間まで気がつかなかった。

 斧を担いだ右腕がするりと胴より外れて落ちた。

 左腕もあとを追った。

 地面に落ちた腕は、その衝撃のせいか、それともそうされたのか、調理済みの刺身のように皮が剥け、肉が落ち、骨が現われた。

 レッド・キャップの面の皮も剥けた。

 筋肉が剥き出しになった醜い顔がさらに分解していく。

 数瞬後には一人の妖精は、数え切れない肉片と成り果てていた。

 妖精同士の不可思議な戦いは、ここに終鳶を迎えたのだ。

 気がついたときには、あの白く淀んだ霧は晴れ、あの武器を持ったものたちの姿も掻き消えて、ただの一人も残っていなかった。

 シーリーコートはしばらくの間、千夏子の顔を見つめていたが、やがて―――「僕は行くよ」と、噛んで含めるように告げ、今度は寂しそうに「妹を頼むよ。僕はもう雪江を守って上げられないから」と哀願した。

 千夏子は黙って眼を伏せた。

 白い青年が振り向くと、数人の騎士がそこに立っていた。

 パックとギルデンスターン、ローゼンクランツの姿もそこにある。


「陛下」

「帰るよ、君たちも。早くオーベロンのおっちゃんを僕の身体の中から出してやらないとね。ティターニアのおばちゃんもまだ健在だろうし。僕としての仕事も、けっこう溜まっているだろうからね」


 パックが仰々しくも前に進み出る。


「貴方様に関しては、マン島の吸血鬼が逃げ出していますから、まずはそれを追っていただくことになると思います」

「君は僕のマネージャーなのかい?」


 シーリーコートは呆れた声を出した。

 どうやら働き者という訳ではないようだ。

 千夏子は相原ケイヤという少年が、やはり面倒くさがりだったことを思い出し、たった今、ここから居なくなるはずの者の面影を見た。

 伏せていた顔を上げる。

 姿形は同じでも、そこにいるのは自分に対してよそよそしい別人だと感じていたが、それは間違いだったのかもしれない。

 白いコートのような奇妙な服がたなびくと、千夏子の伯父であったものの姿は掻き消えていった。

 別れの時間はあっという間だ。

 だが、千夏子は無表情をそのまま保つ努力を惜しまなかった。

 もう涙を流したくなかったから。

 あの少年とはまたいつか出会えるだろう。

 だから泣く必要はない。

 ただ、彼女の母についてはわからない。

 祖母だってそうだ。

 この二人に起きた出来事を説明をすることは、ひどく難儀な仕事になることだろう。

 千夏子はこれから始まる難儀な作業にうんざりし、強く眼を瞑るのだった。

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