大妖精シーリーコート
「来ましたね……」
窓から外を眺めていたローゼンクランツがぼそりと呟いた。
調には隠しきれない諦めの響きがある。
相棒のギルデンスターンと比べると、ローゼンクランツには物静かで勇を誇らない印象がある。
足を組まずに膝を揃えてまっすぐに座る態度や、仕草の一つ一つがゆっくりとしていて洗練されている点が、人柄をより穏やかに見せるのだろう。
もっとも、パックの話によれば、彼も厳密に言えば既に人ではないのだそうだが……。
彼ほどの騎士がそのような声を出したことに驚き、それに倣って外の様子を見た千夏子は仰天した。
屋敷の周りが白乳の濃い霧に包まれ、すぐ隣にあるはずのアパートメントビルの壁さえも見えない状況だったのだ。
まるで、霧というよりも、粘ついた質の悪い砂糖が粉塵となって舞っているように見える。
しかも、さらに驚いたことに屋敷を取り囲むように数え切れないほどの人々がこちらの様子を窺っているということだった。
(なんだ、これは?)
いるわ、いるわ。
鎧をまとったもの、剣を持ったもの、中には武具をまとった馬にまたがったものもいる。それらの危険な群集の後ろに並ぶように、無数の巨人達が三階ぐらいの高さからこちらを見下ろしていた。
窓から識別できるものだけでも、見てくれが時代がかった芝居や映画の一シーンの登場人物たちのようだった。
ただ、それが国会を囲むデモ隊のように、雲霞のごとく並んでいるのは想像を絶する光景だった。
何よりも恐ろしいことは、それぞれがことごとく沈黙しながらも、無言でただこちらを睨んでいるだけという点だ。
何もせず、ただ睨まれるだけ。
その行為の桁外れの不気味さに、背筋を冷たいものが這い上がっていく。
「何よ、あれ」
千夏子の独り言に近い疑問に答えたのは、またもやパックだった。
どうやら、口をつぐむという動詞を辞書に記入し損ねて生きているらしい。
適当に遠くを指差しながらの解説が始まった。
「この霧は『アヴァロンの霧』ですね。もともとは妖精の大集団が移動の際に用いるものですが、とくにオーベロンさまの関係者が使う場合は、そう呼ばれることが多いです。最近のロンドンではまずお目にかかれませんが。ちなみに、あの方たちの解説をいたしましょうか? ―――まず、あちらにいるのが、ほらあれ、あの銀色の鎧を纏っているお方が、伝説のペンドラゴンであるアーサー王陛下です。その後ろ、何人か置いたあたりにいる戦車に乗った女性が、紀元一世紀に侵略者ローマと戦った女王ブーディカさま。あ、あそこの一際でっかいブサイクな巨人がカーン・ガルヴァのホリバーンです。……さすが、オーべロンさまの元で保護されている英雄、巨人、豪傑たち。豪勢なこと、このうえないですね。まさしく壮観ですよ、はい」
聞き覚えのある名前ばかりで、また常識が揺らぎそうになった。
アーサー王!
女王ブーディカ!
途方もない世界から外れた常識に、ろくすっぽも覚悟しないで飛び込めば、誰だって今の千夏子のようになってしまうだろう。
いや、まだ正気を保っているというだけで、彼女は自覚しているよりははるかに大胆な神経の持ち主と言えた。
心臓がビス止めされていると噂される豪胆な少女の面目躍如だった。
「どういうことなのよ?」
「オーベロンさまが治める妖精郷には、王のお力で数多の英雄・勇者・魔人たちが眠りについています。死人も居れば、行方不明とされていたものもいます。彼らはブリテンの伝説によれば、いつかは目覚め、国の危機を救うとされているものたちです。ですが、彼ら自身はそれを望んではいません。なぜなら、彼らは人を超えた力を持つゆえに、人界から放逐されたものたちだからです。大部分が望まずに、今の境遇に至った方々ばかりなのですよ。すなわち、妖精郷とは、人間界で生きて行けなくなったものたちの隔離場所という意味合いがありましてね。よく言って老人ホーム、悪く言えば牢獄ですよ。だから、ああいう風に外部にでたがる人たちが大勢いるのです。それが彼らの望みですね。で、長らく王が行方不明になってしまったことでその結界を張っていた魔力が鈍り、自分たちを束縛していた眠りから逃れられそうになったことから、なんとかして王の復活を阻止した上で、念願を果たそうとしているわけです。……もっとも、彼らとは違って、また別の勢力である邪妖精たちの場合は、『シーリーコート』の復活を阻止したいと思って動いているということになりますが」
「―――そう、それっ! ……結局、『シーリーコート』って何なの? あんたたちはさっきから頻繁に口走っているけど、それがわからないの。ケイヤをシーリーコートにするってどう言う意味? 説明してっ!」
千夏子は釈然としない気持ちを口にした。
その耳慣れない単語に、この怪事のすべての原因があると、女の直感が告げていたからだ。
誰も彼もが脅威のように話す、そのシーリーコートという単語に。
「シーリーコートとは、妖精を纏ったもの、人に非ず魔に非ず、アストラルの弾劾者。強力な王の力を持ち、秩序を維持する大妖精」
パックはまたもや歌うように話す。
聞き手である千夏子のことなど考えてもいないようだった。
ただお喋りがしたいだけ。
ある意味では妖精らしい自分勝手な存在だった。
「オーベロンさまがケイヤさまから分かたれたら、シーリーコートが産まれるのです。要するに、シーリーコートとは大妖精の力を手に入れた人間のことを差す単語なのです。……そして、シーリーコートとなったものは、人でもなく、純粋な妖精ではないことから、両者の間のトラブルを仲介し、場合によっては裁く力を持つ、検察官と判事のような仕事をまかされることがあります。百数十年前に、ある事故で先代のシーリーコートが消滅し、それ以来その座は空白だったのですが……。そして、ケイヤさまが三十年ものあいだ最大の妖精王であるオーベロンさまを取り込んでおられたことで、その条件は満たされました。久方ぶりのシーリーコートが産まれる条件は整ったのです。あとは自覚さえ持たれれば、ケイヤ様が今生のシーリーコートになられることは、まず間違いありません。勝手気ままに振舞う邪妖精たちにとって、かつて、滅んだはずの強力な判事でもあり、大文字の正義の担い手である『シーリーコート』の復活は、脅威以外のなにものでもないでしょう。だからこそ、お目覚めの前にケイヤ様を亡きものにしようとしたのですよ。―――それでは、ご静聴ありがとうございました」
そうして、パックの長い説明は終わった。
わかるような、わからないような、結局、千夏子は長話で煙に巻かれたとしか思えなかったのだが。
ふと、前を見るとローゼンクランツとギルデンスターンが、二人でなにやら話し合いを始めている。
身振りから察すると、どうやら屋敷の防衛のための作戦を練っているらしい。
確かに頼りになる二人だが、外に居る人数が全て攻めてきたりしたら、とてもではないが持ち堪えきることは出来ないだろう。
「駄目、お兄ちゃん」
一方では、雪江がケイヤを説得していた。
『シーリーコート』という得体の知れないものになろうと、すでに決めているらしい兄を止めるために必死のようだった。
ケイヤにすがりつく母の姿は、十代の千夏子よりも子供っぽくさえ見えた。
あれが本当の母なのだろうか。
彼女の心の中では、どれぐらいの期間、あの小さな幼女が泣きじゃくっていたのだろう。
「仕方ないよ、ゆきちゃん。僕はもう全部を思い出してしまった。僕の身体の中にいる、このうるさい奴をさっさと追い出さないと、もっと面倒くさいことになりそうだからね。早く出て行ってもらわないと」
「でも、そうしたら、お兄ちゃんはあのパックの言うとおり、シーリーコートになってしまうっ! 私だって調べたんだよ。シーリーコートとなったものは、死ぬまでアストラル体のまま、もう人間ではなくなってしまうって。だから、お母さん達はお兄ちゃんを隠したんだよ。妖精の目から。わかって、もうお兄ちゃんと離れたくないのっ!」
「……でもね、この状況をほうっておいたら、もっともっととてつもなくマズイことになってしまう。だから、僕がやらなきゃいけないんだ」
「お兄ちゃんっ!」
「―――行くよ、僕は」
妹の額にそっと触れると、その人妻だったものらしい豊満な身体が人形のように崩れ落ちた。
眼を穏やかに瞑り、まるで楽しい夢を見ているかのような顔で、彼女は気を失っていた。
その身をそっと横たえると、ケイヤは立ち上がった。
彼の身にすぐに変化が生じた。
ケイヤの周りに白い粒が発生していく、そして円を描き、膨らんでいく。最後に形になって固着していく。
それはまるで、着替えのように見えた。
リトル・ヨコハマの高等部のグレーの制服がガラスみたいに透き通り、浮かび上がるように白い色が顕れていく。
そして、それは竃で焼かれたパンのように大きく脹らみ、白く柔らかい長衣となった。
中世ヨーロッパの貴族のものを彷彿とさせるが、それよりもさらに現代的なフォルムであり、インヴァネス・マントのように絹の布が肩甲骨あたりから流れ落ち、胸の前で緩やかに結ばれ、それとは別形成の袖と背の部分が羽根のようにふんわりとなる。
ベルトやボタンらしいものは一切見あたらない、数枚の布だけで巧妙に構成されているようだった。
そして、頭上に競りあがるように背中から光が盛り上がり、天井にわだかまる。
「これじゃ見た目が良くないね」
ケイヤが手を伸ばして、ほんのわずかだけ撫で回してみると、光溜りともいえるそれは服と同じ色の縁あり帽のようになった。
上下をあわせると、トータルでコーディネイトされたオートクチュールのコートを思わす意匠。
顔つきはそのまま、だが、相原ケイヤはもうどこにもいないようだった。
「シーリーコートが、コートを着ているのか。駄洒落だよね。仕事もコート(court・法廷)だし」
両裾をスカートのように摘み上げ、くるりと回転する。質量のくびきから解放されたとしか思えない軽々しさだ。
材質が天使のはねでできているとしか思えない。
病弱だった頃のひ弱さはすでになく、相原ケイヤは本当にもう別人になってしまったのか。
「よくお似合いですよ、ケイヤ様。それに妖精はダジャレを好みます。ご存知のように、我々はイタズラ好きですからね」
と、パックがあからさまな追従をする。
『夏の夜の夢』のパックとはイメージからして違うが、王の腰ぎんちゃくという役どころは変わらないらしい。
「それならいいよ。もう僕はシーリーコートだしね。相原ケイヤはもういないのだから」
「ケイヤ!」
引きとめようとする千夏子の横に行き、肩を叩く。
優しい叩き方だった。
「さよなら、千夏子ちゃん。僕は彼らを説得しなければならないんだ。でなければ彼らは僕の産まれたこの屋敷を戦場にするだろう。そして、君たちを危険にさらすだろう。だから、君たちを僕に守らせて」
「ケイヤ……」
「短い間だったけど、楽しかった。外の世界がこれほど楽しいとは思い出せなかった。君のおかげだよ」
今まで黙っていたパックが、いそいそとその場を離れ、窓を開けた。
戸外の冷気が室内を侵す。
だが、頬の辺りが冷める感触が気持ちよかった。
そのときになって初めて、千夏子は自分の頬に流れる涙の筋の存在に気づいた……。