妖精王との取引
雪江は自分のせいで昏睡状態になり、三年間に一歳ほどの成長しかしなくなった兄を看続けることに倦み、自分一人だけで高校入学を口実にして日本にまい戻った。
新しく始めた日本での生活は簡単なものではなかったが、自らの犯した罪のシンボルとなった兄の傍にいない、ただそれだけではるかに気が楽だった。
一方で、英国に残った両親はケイヤの存在をひた隠しにした。
ケイヤのことは新しく身篭った弟として育てることにして、元々の兄は行方不明という情報の操作を行うと、周囲には秘密で面倒を看続けた。
だから、ケイヤがどのような状態だったのか、雪江は全くと言っていいほど知らなかった。
だが、どれほど離れていたとしてもフラッシュバックのように襲い来る罪の意識は決して消せはしない。
それからずっと罪は淀みや滓となって雪江の心を侵し続けた。
夫との結婚生活がうまくいかなかったのは、この頃の出来事によって、幸せというものを素直に享受できなくなった心の在りようにあったのだろう。
DVまがいの真似をし始めた夫の下から、千夏子を連れて逃げ出すことで、数年間の短い夫婦関係は完全に破綻した。
その頃には、すでに雪江の心は錆びつききっていたのかもしれない。
日本に一度も帰ることなく父が亡くなり、過労で母が入院という連絡を受けて、雪江の心はついに箍が外れた。
逃げることに飽き飽きしたとでもいうべきか。
そして、ついに生まれ育ったはずの屋敷で、まだ青春の輝きを発したまま以前と変わらぬ姿の兄との再会を果たしたのである。
ケイヤが自分を認識したことで、今まで抑えていたはずの激情が、成熟したはずの女性を幼児のころにまで巻き戻した。
その時、相原雪江はただの小さく、無条件で兄に愛されていた妹の時代に帰っていた。
「こんなに大きくなって千夏子ちゃんのお母さんにもなったのに、いつまでも子供みたいに泣いちゃ駄目だぞ」
そんな妹を、すべてを理解した兄が慰める。
なぜか、ケイヤは本来の年齢にふさわしい精神年齢を取り戻していた。
さっきまで甥として扱っていたケイヤはもういないようだった。
その彼に、三十年前と同様に頭を撫でられると雪江の心が潤っていくように思えた。
抱え込んでいた錘が空気のように霞んでいく。
だが、すべては彼女の失敗が招いたものなのだ。
元凶たる罪人が許されて、甘えて、いいのだろうか。
それでも兄は優しく妹を許す。
「でも……」
雪江は泣いた。
忘れられなかった兄の胸の中で。
「……これはどういうことよ?」
強くてタフな母の姿を知り尽くしていると思っていた娘にとって、それはショッキングきわまりない光景であった。
それっきり母親が口を閉ざして沈黙してしまったからか、仕方なく千夏子が話をする役目を引き継いだ。
母と叔父―――実際には伯父だったのだが―――の間の雰囲気に、自分では割り込めない窮屈なものを感じてしまったことも、彼女を率先して会話に参加させた原因ではある。
彼女の問いに答えたのは、パックだった。
「三十年前、ある事故で重傷を負ったオーベロンさまと、偶然に遭遇なされたケイヤさまはある取引をなされたのです。妖精界に迷い込んだ妹を取り戻すのと引き換えに、ある条件を飲むと。ご存知でしょうか、お嬢さま。……妖精界に取り込まれたものは何十年もかの地で過ごした後、ようやく人間界に戻れるのが決まりなのです。本来ならば、ケイヤさまと妹さまは、お互いに人間界と妖精界に別れ、下手をすれば二度と出会えなくなる運命が待つはずでした。―――ところが、オーベロンさまのお力を用いれば妖精界から妹さまを取り戻すことが可能です。そして、思案された挙句、ケイヤさまは、オーベロン様との取引を呑みました」
「取引って、何さ?」
噛み付くように聞き返す。
内容にまとわりつく、異常なまでに不穏な気配に耐え切れない思いだった。
そして、その予感はあたる。
「それは、オーベロンさまの傷が癒えるまで、ケイヤさまの身体の中に御玉体を匿うというものでした。オーベロンさまの傷は、魂さえも消滅させてしまうほどに重大でした。しかも、傷をつけた奴輩は依然として鵜の目鷹の目でお命を狙っている状態。どこかに匿ってもらえねば、魂の消滅の危機という瀬戸際だったのです。代償として、オーベロンさまは身動きができぬいわば封印という形になりますが、決して消滅することが許されないお立場であるオーベロンさまとしては、座して死を待つよりはマシであるとお考えなされたようです」
ケイヤは黙って話を聞いている。
表情に目立った変化はない。
何気ない風を装っているという感じではなく、既知の内容を確認のためにわざわざ聞いているような趣きだった。
千夏子は良く知っていたはずの少年の態度に苛立ちを覚える。
それはまるで彼女の知る少年とはまるで別人のような態度だったのだから。
少女が心に抱いた煩悶を無視して、パックの饒舌はまだ続く。
「そして、契約はなされました。妖精王さまを肉体に収めたケイヤさまは三年に一度しか成長されなくなり、時がどこかに賃貸されてしまった挙句、どうやらお目覚めになられたのが三年ほど前だったようですね。私が見たところ、中でお眠りなされているオーベロンさまもそろそろ覚醒しかけておられるようです。その歴史的瞬間に立ち会えてとても光栄です。この屋敷に溢れた妖精封じのお守りのおかげで、こちらを突き止めるのが遅れてしまい、もう少しで拝謁できなくなるところでしたが」
屋敷のお守りは、森の中で懇々と眠りにつくケイヤとその脇で泣き喚く雪江から事情を聞いた両親が施したものだった。
二人はいつしか妖精が息子を連れ去るだろうことを覚悟していた。
オーベロンを取り戻すために。
だからこそ、そのときが来ることを恐れ、ケイヤを一歩も屋敷から出さなかったのだ。
結局、目覚めと祖父の死と祖母の入院、それらがすべて重なったことで、偶然ケイヤも外に出ることになり、血眼になって居所を探していた妖精たちに居場所が知られたのはやはり不運としか言いようがないが。
「ちなみに、いま、ロンドンを荒らして回っている邪妖精どもの目的も同じです。オーベロンさまを捜索しているのです。もっとも、かの邪妖精どもは、オーベロンさまの復活自体よりも、ケイヤさまが『シーリーコート』になることを恐れているのです」
「『シーリーコート』?」
「それは妖精王の力を持った定命の者、人にもあらず妖にもあらず、両者を裁く法廷のもの」
ケイヤが呪文のように唱えた。
「……僕がそれになるというの?」
「はい、そうでございます。ケイヤさま」