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シーリーコート伝承  作者: 陸 理明
第五話 シーリーコート
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雪江の告白

 雪江は、幾つかの品をマーケットで買い漁ると、すぐに帰宅した。

 本心では家に戻るのは、なによりも億劫だった。

 子供達が学校に行っている間、独りで家に居ると、気持ちがどんどんと沈み込むように重くなっていき、とてもではないが耐えられなくなるようなことがよくあった。気が触れそうになるぐらいのストレスが、晴れることなくただたまっていくだけだった。

 女が年齢を重ねることによる肉体の更年期などでなく、ただの心因性のものだ。

 彼女の最大の心因は、屋敷に住む一人の少年の存在だった。

 相原ケイヤという、戸籍上は彼女の弟にあたる少年と顔を合わせるのが、何よりも苦痛で嫌だったのである。

 だが、そこに嫌悪の情はない。

 あるのは罪悪感による後ろめたさだけ。

 彼の穏やかな顔を見ることが、年相応のはずの柔和な微笑みを見ることが何よりも辛いのだ。この辛さは他の誰にもわかるまい。

 だけど、ケイヤ本人はなんとなくそれを理解しているらしい。自分が原因だということを。そして、さりげなく彼女を気遣ってくれる。

 しかし、それこそが彼女にとっては最大級の負担にしかならないという、ぐるぐると回り続ける嫌になるぐらいのストレスの螺旋だ。

 もっとも、今日に限ってはそんなことを言ってはいられない。

 昨日、ロンドン市民を恐怖させた殺人事件の詳細が彼女を慌てさせていた。

 あれは間違いなく、妖精の仕業だ。しかも、事件発生の様子を考えれば、邪妖精に分類される質の悪いものによることは間違いない。

 そんなものが、今の時代の、今の時期に大都会ロンドンに現れるなんて……。

 思い当たる理由は、雪絵にとっては一つしかない。

 ケイヤが屋敷の外に出るようになったからだ。

 それしかない。

 今までケイヤは厳重に妖精封じを施された屋敷内で匿われてきた。

 だから、その〈気〉が外に洩れることはなかった。

 だが、曖昧だった意識がはっきりとしてきたせいか、そろそろ社会に出さなければならないという母のたっての希望で外に出したのが、やはり間違いだった。

 妖精界は、まだ彼を探していたのだ。

 屋敷に数日間でも立てこもれるだけに必要な品物を買い揃え、そそくさと門を潜り抜けた雪江は驚愕した。

 玄関前に剣を構えた黒に近い赤色の髪の一人の青年がいたからだ。

 雪江の入ってきた物音をボクシングの試合のゴングとでも聞き間違えたのか、青年が慇懃にこちらを向く。


「おかえりなさいませ、奥様。中でオーベロンさまとお嬢さまがお待ちです」


 その恭しい物言いに戸惑いながら、


「あなたは……」

「私はデンマークの元騎士ローゼンクランツ。今生は気の合わぬ相棒と共に、妖精王であらせられるオーベロンさまにお仕えしております。以後、お見知りおきを」


 その挨拶を無視し、青年の脇を通り抜け、雪江は玄関に駆け入った。

 居間にも数人の気配がある。

 急いで中に入ると、古いソファーに娘と弟が行儀よく座り、少し離れた場所に先程のローゼンクランツと良く似た雰囲気を持った金髪の青年がいた。

 そして、もう一人、窓の外を見ているベストを着た男性。 

 彼女の心がざわめいた。

 嫌な予感は的中してしまったのだ。


「ママ」


 雪江はソファーに座った二人を抱え込むように抱き締めた。

 室内はぼろぼろになっていた。

 あたりかまわず何かによって切り裂かれ、物品は壊れ、ゴミとなって散らばっている。

 まるで嵐の後のようだった。

 何があったかは問うまでもなく見当がついた。


「二人共、大丈夫だった? 怪我はない?」


 二人がうなずくと、もう一度愛情を込めて抱き締めてから金髪の青年をきつく睨みつける。いつのまにか、玄関の外ににいたはずのローゼンクランツまで、その隣に立っていた。

 雪江は普段の彼女には似つかわしくない鬼女めいた視線を、初対面の闖入者たちに向け続けた。


「あなたたちは、英雄妖精ね」

「はい、奥様」


 三人の間でのスポークスマンの役割は、どうやらダンディーな男性―――パックの仕事であるらしい。

 他の二人は無言のままだ。


「どうして、ここにいるの?」

「妖精王オーベロンさまをお迎えに参りました。……そこにおられる相原ケイヤ様の中におられる、我らが主君を」

「やっぱり、三十年前の……」

「はい、そうです。三十年前、妹さまを救うためにケイヤさまがオーベロンさまと交わした約束の履行を求めるためです」


 雪江の顔色が一気に翳った。

 どす黒い翳は、罪悪感と後悔のそれに酷似していた。

 すぐ傍にいたケイヤの肩にすがりつくように顔を伏せた。流れ出す嗚咽の音が彼女の我慢の堰を断ってしまったことを象徴していた。

 どれほどの時間がたったのだろう。

 千夏子が室内の重い空気に耐えられなくなり、冷蔵庫からミルクを取り出して飲み干して戻ってきても、雪江はまだケイヤの肩にすがって泣きじゃくっていた。


「ごめんなさい、ごめんない」


 駄々をこねる子供のようだった。

 自称・妖精たちは口も利かない。

 ただ、興奮した女性が泣き止むのを待っている風情だった。

 彼らは本当の事情を理解しているらしく、部外者そのものの千夏子とは違う。

 哀れに思って慰めの声をかけようとしたケイヤの手が肩に回ったとき、雪江の細い肩がわななきながら震え、そして呟いた。


「ごめんなさい………………お兄ちゃん」


 居間の空気が凍りついた。

 十人十色、それぞれの反応は劇的なまでに違っていたが。

 妖精を名乗るものたちは動かず、雪江は泣き続け、千夏子は驚きのあまりフリーズし、そしてケイヤは微笑むだけだった。


「そうか、やっぱりね。雪江さんを初めて見たときになんとなく感じてはいたんだ。この人には見覚えがあるって」


 少し間をおいて、


「君だったんだね、ゆきちゃん」

「お兄ちゃんごめんなさい、お兄ちゃんを置いて逃げ出しちゃって、ごめんなさい。悪い私を許してお兄ちゃん」

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