緑の館
緑館
その館は、周囲の住民たちに、その二つ名で呼ばれていた。
わたしがその前時代的なネーミングに納得したのは、地下鉄駅から十分ほど歩き、かなりの急な坂を登りきるのと、ほぼ同時の出来事であった。まだ若いとはいえオフィスに詰めっきりで運動不足のビジネスマンの疲れきった眼には、館の外観の壮厳さが痛いほどに感じられた。
坂を登り始めのうちは、森林公園でもあるのだろうかと思っていたのだが、登りつめるにつれ、段々とそれが無数に増えすぎた様々な植物の蔦が絡みあって、一軒の邸宅と壁、その塀を覆いつくしたものであることがわかっていった。
白亜であったらしい壁には、日本の唐草模様など遥かに凌ぐ蔦が縦横無尽に埋めつくし、今では窓と空気孔を除くほとんどの箇所が緑一色となっていた。屋根までもおびただしい緑の侵略に晒されており、遠方から眺めるかぎりにおいては、確かに綽名通りに『緑館』としか言いようがない。
建築物としての形は、大恐慌以前に流行したニューイングランド風な邸宅であるようだ。だからこそ、こんな眠りの森の美女の物語でも連想してしまう一種幻想的な雰囲気があるのだろう。
張り出したガラス窓、人の気配のないベランダ、そして植物が外界へと流出することを恐れたかのように設けられた水壕に、三角錐をイメージさせるデザインは、この中に眠り姫のようにただひっそりと暮らす老婦人の心情に想いを馳せずにはいられなかった。
『―――やけに変わった婆さんらしい。俺の調べたところじゃあ、身寄りもない筈なのに、あんな都会の一角で世捨て人同然の生活をしているってのに、隣近所とのつきあいもなく、かといって尋ねてくる客がいる訳でもない。それなのに、生きているのはわかっているし、相当の財産家であることも知られているそうだ。まあ、ここまではちょっと珍しい隠棲の老人なんだがな、一つだけ妙な点があるんだよ……』
かつての同僚の言葉を思い出していると、わたしはいつのまにか正門の前に着いていた。
正門は槍状になった鉄製の柵で、例外なく激しく緑の蛇に巻きつかれていた。これが何という名の植物なのかは、残念なことにわたしの乏しい知織では確定することができない。
全体の七十パーセントを占める蔦は、表面が繊毛で、ぎらぎらとしていて教条の溝があり、ところどころに生えたナイフの刃に似た葉も蔦のようにくるくると反り返っている。
なにげなく葉の一枚に触れたとき、わたしはぴくんと指に衝撃が走ったのを感じた。
何が原因なのかは一瞬のことなので見当もつかなかったが、とにかく痺れたのは事実だった。不審に思って、またおそるおそる触れてみたが、今度は何も起きなかった。
まさか、植物が帯電しているわけがないので異常な現象であった。
わずかな時間だけ躊躇してしまったが、わたしは気を取り直して備え付けのインターフォンを押した。
これだけは他の老朽化に比べて色褪せておらず、見た目に似つかわしい機械音が鳴った。
返答はすぐだった。
多くの財産を持った知的な老婦人にふさわしい、まだ脳細胞が枯死していないことを示す堅い張りを持った声だった。
『どなたかしら?』
「R&Aのアーリム・シートランドと申します。今朝、こちらへ参る予定のポール・ソーマンが急な病で伏せってしまったもので、その代理で参りました。お望みなら、身分証明書を提示しますが」
わたしは蔦の中にさりげなく隠してあったカメラに向けて目をやった。
これぐらいのお屋敷だ。セキュリティだってしっかりされているだろう。
『その必要はありません。ミスター・ソーマンの件は伺っています。どうぞお入りください、ミスター・シートランド』
「ありがとうございます」
わたしはカメラのレンズにではなく、誰かが見ているわけではない館の方へ軽く会釈した。
顔も知らぬ老婦人の威厳に打たれたとでもいえばわかりやすいのだろうか。
インターフォン越しとはいえ、そこから届いてきた声には、年齢による深い重みが加わっていて、中途半端な人生を送ってきたものには、太刀打ち出来ない品格があった。
かつて出会ったことのないレベルのセレブなのかもしれない。
わたしは記憶の片隅に埋もれかけていた上流階級向けのマナーというものを掘り起こす必要性を感じていた。
可能な限り静かに門を開けたつもりだったが、予想以上に腐食と錆の侵攻が進んでいたらしく、耳障りな騒音を発する。ほとんど使われていないようだった。
もっとも、開けてから門の一角に潜り戸が設置されているのに気がついたのだが。
多分、この館の主人はあれから出入りしているのだろう。
わたしは無駄なことをしたものだと後悔する。
自分の観察力というものが節穴だということを自覚する羽目になるとはおもわなかった。
門を過ぎると、そこはほぼ別の世界と化していた。
これはさすがに大袈裟な言い草だが、実際にこの光景を見たものなら、わたしと近い夢想をするかもしれない。
それは見事な庭師の業だった。
建ち並ぶ植木は様々な形に刈りこまれ、整えられ、映画『シザーハンズ』の冒頭を思い起こさせる。芝生はこれも綺麗に同じ長さに揃えられて、雑然とした印象はまったく感じられない。例えるなら、スコットランドの元貴族の屋敷の庭といった塩梅か。お抱えの庭師が毎日のように手入れをしてこそ、やっと維持できるレベルに違いない。
それだけではなく、至る所に配置された小さな丘と巨石群を模した石の並びも、ウェールズの荒地で風雨に曝されたストーンヘンジを思い起こさせる。
そして、趣の異なる二つの景色が絶妙のコントラストをもって、歩くものの視覚に歴史を訴えかけてくるのだ。
緑館の女主人は、こんな不思議な庭園を眺め、なにを思って、なにを願いつつ日々を送っているのだろうか。収集した彫刻と若き日の思い出を重ねあわせているのか。
今までに感じたことのない深い哀愁にも似た憂鬱な気分を覚えずにはいられなかった。
しかし、ここを歩くだけでも訪れた甲斐があるというものだ。
ソーマンではきっと理解できない部類の感慨だろうから、彼の失態を天の配剤と感謝したくなったほどである。
これもまた正門や庭師の業に劣らない立派な造りのノッカーを鳴らすと、すぐに内側から開け放たれた。
現れたのは、若い女性だった。
それだけでなく、一言で言い表すなら、信じられないほどに美しい女性であった。
目の前の美貌を形容するには、満ち溢れた詩人の才能と鍛え抜かれた老練な眼力が必要であろう。
少なくとも、わたしにはできない行為だった。
女性は儚げな笑みを浮かべた。
わたしがそれにどのように応えたかは覚えていない。神かけて誓うが、ありえないほどに茫然自失の状態になっていたのだろう。
「ようこそ、おいでくださいました」
「あなたは……」
乏しい記憶力を探ったかぎりでは、この館には目当ての老婦人以外の住人はいないはずである。確か景累もいないはずだ。家族でなければ、家政婦かなにかだろうか。
しかし、女性の仕草には、平凡な家庭の出とは思えない品の良さがあった。
雇い人に関してまでは調査していないが、これほどの美女が家政婦であるとすれば、雇う側も余程の人物でなければ嫉妬のうねりに耐えられはしまい。
「ご心配なく、わたしがこの館の主ですわ。メイドの類ではありませんので、お気遣い無く。お客様を迎える用意はしてありますので、こちらにどうぞ」
わたしは絶句してしまった。
今、この女性は確かに「この館の主」と名乗った。
まさか、という疑いの色はなんとか隠し切れたはずだが、館の主と自称した女性は意味深な一瞥をしてきた。見抜かれているのか、それともそれこそが手練なのか。
しかし、確かにこの声と口調はついさっき聞いたばかりのものと酷似している。
もっとも想像力豊かに考えるなら、この女性は当代きっての詐欺師か強盗であり、わたしは彼女のお仕事中に訪ねてきた愚かで不運な人物であるというものだ。
そして、この館の何処かに監禁された老女がいるのだ。この美しい女性に無造作に縛られて、ことによっては殺されているのかもしれない。
CSIならありえそうな話だ。
ラングストンがきっと証拠を見つけてくれるだろう。
そんなくだらない逃避をしていると、女性はそれ以上の言葉を発することはなく、玄関から少し離れた個室に先導し、
「ここでお待ちくださいな」
と、樫の扉を指し示した。
わたしはその中に見も知らぬ老婦人の無残な死体が転がっているのではないかと内心びくびくしていた。
そして、犯罪の露呈を防ぐために後ろから鈍器で殴殺されるのではないか…
だが、不吉な予想はことごとく外れた。
部屋は目が痛くなるほどに明るく、この時点になって初めて、今まで通ってきた廊下が異常なほどに薄暗かったことに気付いた。
この客間とみられる部屋は素晴らしく贅を尽くした仕上がりになっており、これほどまでに金のかかった部屋には滅多にお目にかかることがないだろう。
かつて一度だけ、これに匹敵する豪奢な部屋にお邪魔したことがあるが、そこはわが社の顧客の一人だった大富豪のためのホテルの一室だ。少なくとも、無名の個人のもちものではない。
わたしは薦められたままにソファーに腰かけた。
柔らかい本皮張りの質のいいソファーだった。建物そのものといい、庭といい、門といい、ここまで上等な品物はニューヨークでもなかなかに類をみないだろう。
見たこともない陶器の置物や、天井のシャンデリアに目をやる余裕は残念ながらなかった。落ちつかなかったせいだと言えば、やはり貧乏人のひがみなのだろうか。
しばらくすると、テーブルに紅茶が出された。
先程の女性が手ずから持ってきてくれたのだった。
「ミルクティーです。もし、お気に召さなければかえてきますが。アメリカの方ならコーヒーの方がお好みですか」
「い、いえ。いただきます」
わたしは内心で感嘆していた。ニューヨークでここまで徹底的に英国風にされると、ぐうの音もでない。英国人が紅茶にミルクを大量に入れるらしいことは私でも知っているが、アメリカではあまり受け入れられていない習慣だ。
わたしは、この女性が普段はきっとクィーンズ・イングリッシュで独りごとを言い、イギリス文学をひもとくのだろうと想像した。たぶんディケンズあたりを。
あながち外れた先入観でもなさそうだが。
「御用件は前にお伺いいたしました。R&Aの主催の展覧会を開くために、彼の作品を拝借したいということでしたね」
対面に座った女性がまぎれもなく本物であることは、その内容で判断できた。
『彼』と、名前でなく代名詞で呼ぶあたりも真に迫っている。
ここにきて、やっとわたしの気も楽になった。
この女性がいったい何者であるかはわからないが、わたしが訪問する予定の相手と何らかの関係があることが明白になったからだ。
わたし自身と同じように、相手方の代理人だと考えればいいだけだろう。
「ええ、来月の二十日から末日にかけて、パークサイドで開催される展示会の目玉として借り受けたいのです。書類は持参しておりますし、顧問の弁護士がおられるのならすぐにでも確認してもらって、サインしていただければ助かります。移動や保管にかけては、我々が責任をもって行いますので、信頼して頂ければ幸いです」
他にも出品される著名な彫刻や絵画、アートについて説明をした。書類は本来部外秘で、さっき初めて目を通したばかりだが、わたしの説明によどみはなかった。
趣味で学びつづけてきた芸術関係の知識がようやく日の目を見たのだ。あとは、蛇口を捻るがごとく溜め込んだものが吹き出ていく。
滔々とわたしの口から流れ出す、美しい芸術への賛辞にほかならぬ自分自身が酔っていく。
わたしはあまりの満足感に恍惚となりそうだった。
「……ところで、あれが彼の未公開の作品だと御存じ?」
「担当には、そう伺っております。ただし、どのような彫刻なのかまではわかりません」
女性は楽しそうに口元を揺らした。庶民には到底真似のできない優雅な笑みだった。
昔の貴族はこんな表情が出来たのだろう。アメリカにいる金稼ぎがうまいだけの上流階層では決して真似できない代物だった。
あえて分類するのならば微笑というよりも、むしろ嘲笑の方がはるかに近いかもしれない。
「なにも知らずにお借りしたいと言うのですか?」
「……はい」
「それは虫のよすぎる考えではありませんか。作品の大きさも形状も名前も知らずに、ただ貸してくれとは、あまりにも礼儀知らずだとはお思いになられません? それとも、芸術に対しての敬意すら持たず、市場価格だけで価値を判断なされるおつもりなのですか」
この女性の真意は、わたしを詰問し嘲ることなのだろうか。
それとも他に深い意味があるのか?
単純な見た目においては年齢的な差がないはずの相手に、わたしは形容のしようのない圧迫感を覚えずにはいられなかった。
何故、わたしがそんな思いを抱いたかは、向き合ったその双眸を見つめてしまったからにある。
あえて口調と台詞だけを抜き取れば、そこから侮蔑以外のエッセンスを見い出すはできないが、そこに表情を加えてみるとまた違う感触が伝わってくるのだ。
特に瞳だ。
あまりにも深すぎる。瞳孔から放たれるべき感情の波動がまるでゼロなのである。
道端に打ち捨てられた冷たいマネキンと、望まずに眼が合ったときのようだ。
背筋を冷たいものが駆けぬけていく。そいつの正体を、忘れてしまっていたがわたしは知っていた。
だが、すぐに自己紹介してくれることはなさそうだ。
「いいですわ.お貸ししましょう」
と、彼女は言った。
自問自答のような形のあっけない交渉の幕切れに、わたしはとまどった。
「ただし、幾つか条件があります」
「謝礼の件でしたら、こちらにもわずかばかり用意が……」
「謝礼などはいりません。こちらにも蓄え十分にありますから。条件といってもとても簡単なものです」
「……なんですか?」
わたしの口をついたのは、怯えにも似た心の動きであった。
どのような条件が出されるかはわからなかったが、いやに不吉な予感がどこかで渦を巻いていた。
「まず、今日は彼の作品に決して触れないこと。二つめは、今日の夜―――午前零時までこの館を一歩も出ずに留まること。付け加えるならば、会社に連絡することも認めません。私どもは携帯電話という無粋な道具が我が家で使われることも我慢なりませんので、預からせてもらいます。あなたがこの条件を守れない場合は、残念ながらかの傑作を貸し出すことはできません。よろしいですか?」
二つ返事とはこのことだ。
もっと悪い内容を想像していたのだから、その程度のことなら別に問題はない。
二番日の条件だけは、よく意味がわからなかったが、気にする必要はないと独断した。何か今日中に作らなければならない書類があったりするのだろう。
会社には明日にでも連格すればいい。
女性が立ち上がった。
わたしは、例の彫刻の保管場所へ案内してくれるのだと思い、少し遅れて続いた。
彼女はこちらへは振り向かなかった。
「では、彼の遺作のもとへ案内します」
好奇心が柔らかい羽毛でくすぐられた。
新発売の製品を、仲間内の誰よりも早く手に入れたことを自慢する子供の心境であった。