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シーリーコート伝承  作者: 陸 理明
第五話 シーリーコート
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赤き死の帽子

 本来なら、英語に堪能なケイヤに聞くべきだったが、なぜか嫌な予感がしたので、急いで家の電話から朋美に掛ける。

 まだ、ピカデリーに行っていない可能性に賭けたところ、なんとか勝つことができた。

 一度、家に着替えに戻っていたのか、朋美の母親に代わってもらう。

 

「ねえ、あんたは英字新聞を読めるよね?」

「急に何よ? そんなことで電話してきたの? あたし、忙しいんだけどさ」

「こっちは日本と違って宅配じゃないでしょ。新聞って読まないのよ」

「……あたしの話を聞いていないな、お主。……まあ、いいわ。んーとね、うちはお父さんが朝に読みたがるからわざわざ買っているけど、そんなにニュースが知りたかったら、テレビを見れば」

「だから、問題はあたしがまだ英語を聞き取るのが苦痛だってことなのよ。要約して欲しいの」

「……わかったわよ。で、どんな記事?」

「『レッドキャップ』って見出しの奴」

「ああ、あれね」


 朋美から聞き出した記事の内容は以下のようなものだった。

 それは実に惨たらしい殺人事件のニュースだった。

 昨日の昼間、オフィスから食事に出たビジネスマンが、路地で恐るべきものを発見したのが発端だった。三人もの男女が、見るも無惨に首と胴体を切り離され、外部から肋骨を叩き割られて内職をばらまけられた死体となって発見されたのだ。

 あまりに多量に流れ出した血のため、雨の日の水たまりにも似た血の海が歩道に生まれていたという。そして、異常極まることに大都会ロンドンの真っ只中、しかも昼間に起きた事件であるというのに、一人として目撃者が見つかっていないのである。

 ロンドン警視庁の記者会見でも、その惨劇のあまりの酷さから末期の麻薬中毒患者を中心とした捜査を進めていると発表されていた。もっとも、マスコミはそれだけでなく、最近社会問題になっている移民関係を怪しんでいるという。

 各局の報道陣も、少しでも多くの情報を仕入れようと躍起になっているが、現時点では、犯人の確定どころか、事件に関係した情報はまったく入ってきていないそうだ。

 ただ、死体発見現場の傍で、数人が『血のように赤い帽子と草色のチョッキを着て、手斧を握り占めた小人』を目撃したという噂が流れたことから、英国の古い物語にある『レッドキャップ』をもじった名前が仮につけられているのだという。

 当然、その件についてはマスコミが面白おかしく取り上げているだけで妖精の存在などはなから信じられてなどはいない。


「……こんな感じだけど、それでよかった?」

「ありがとう、助かった。事件の現場って、このリトル・ヨコハマの近くよね、気をつけなきゃ」

「まあ、ジャンキーの仕業だと思うから、間違っても知らない人は家に入れないことね」


 そういって、電話が切られた。

 仕入れたばかりの情報を元に、改めてテレビを観ると、ロンドン市内はおろか、全英中がこのニュースで持ちきりのようだった。猟奇事件はだいたい『―――の切り裂きジャック』とか名づけたがるロンドン市民が今回はそれよりもわかりやすいコードを発見したせいか、やけに連呼しているのは特に失笑ものだ。

 しかし、時折映る現場映像にはいくつか生々しいものがあって、普通の少女である彼女の気分を害すること甚だしかった。

 少し頭が痛くなったので、気分転換に換気をしようと、窓に近づいた千夏子は絶句した。

 数枚の窓ガラスにべったりと真っ赤な幼児サイズの大きさの手形がこびりついていたのだ。

 赤いのは間違いなく血だろう。

 手形から察するに、指が全体的に異様に細長く、掌の部分がやけに盛り上がっており、到底人間のものとは考えられない。

 強いて例えるのなら、猿のものに近い。

 途端に耳元に、激しい哄笑が聞こえてきたような気がした。

 いや、逢う。……違う。

 と、千夏子の中のなにかが否定した。彼女は咄嗟に両耳を手で塞いだ。それでも、哄笑は直接に脳裏に響き、耳朶を叩き、感覚を狂わせてくる。

 周囲を見渡してもなにもいない。

 それなのに、何かが、この哄笑を放つものが近くにいるとしか思えなかった。どこかであたしを見ている。そして、嘲っている。

 急いで窓の鍵を確認した。

 いつものままに厳重にロックがされている。

 ここは日本ではない。用心は必須だ。

 安堵の吐息が洩れたが、振り向いた先にある我が家の居間は、いつもよりも狭く暗く感じられた。まだ昼過ぎだというのに、まるで、夕方のように赤い陽の光に包まれていた。今の時間を、過去の人たちが逢魔が刻と呼びならわしていたことを思い出す。

 それは、闇と人が繋がる時間。

 あわてて居間の他の戸締まりを確認すると、千夏子は机上のコードレス・テレフォンを掴んだ。それはケイヤの部屋に繋がる内線だった。

 二度のコールでケイヤがでた。


「何、千夏子ちゃん」

「降りてきなさい」


 短く用件だけを告げて内線を切った。

 何かを喋らせる余地などは与えない。

 彼はもう一度、訝しんでこちらにかけ直してくるタイプではない。すぐに降りてくるだろう。

 しかし、ケイヤを呼んでどうしようというのか? 説明してみるか。駄目だ、いくら彼が浮世離れしていたとしても信じてもらえるはずがない。

 あの手形だってイタズラと決め付けられるかもしれない。

 だが、すぐ近くにいてもらわないと困るのも事実だ。

 何か起きたとき離れ離れでは対応ができないし、なにより落ち着ける。

 脳裏に浮かんだ学校の友人の顔はすぐに消え去った。彼らが何の助けになるというのだろう。いや、ならないのはまず確実だ。

 警察に通報してみるという手もある。実際に、窓のそれが血液ならば捜査の対象になるはずだ。

 しかし、一歩踏み出そうとして、彼女は居間のソファーにへたりこんでしまった。

 足に力が入らなかったのだ。

 気がつくと、両足を抱いたままの姿勢で毛布を頭から被って、じっとテレビを眺めていた。ブラインドから差し込む夕日の赤光の侵食はまだ続いていた。壁の時計はすでに午後六時三十分を示しているというのに、太陽の沈むのが妙に遅い気がした。

 お腹もすいていた。

 だいぶ時間は経っているらしい。

 それなのに、どういうわけか、ケイヤがやってこない。

 視線の先のTVは、特番らしいニュース番組を流し続けていた。

 例の犯行現場から、男のレポーターが生中継で放送をしている。

 メガネのサラリーマン風のレポーターは、「これほど人通りの激しい大都会の中で、雄一人として目撃者がでないと言うことは、まったくの謎であります。それともこれほどの事件が、見てみぬふりをされたということなのでしょうか? 恐ろしいほどに都会の冷酷さを感じさせる事件であります」と、絶叫に近い大袈裟なコメントをしていた。

 千夏子は口の中だけで、「違うわ」と異論を唱えた。

 事実をまったく指摘していないコメントだと思った。

 いくら腐り続けている世の中とはいえ、眼の前で公然と人が殺されれば、どんな人間も反応ぐらいはするものだ。

 五人のうち、一人ぐらいは必ず取り乱すだろう。

 それならば、答えは非常に簡単だ。

 目撃者がいないのではなく、目撃することができなかったと考えればいい。

 その方が極めて自然だ。

 突然、台所の方から大きな物音がした。

 千夏は恐る恐る振り向いた。

 何もいなかった。

 代わりに壁に立てかけてあったチリトリが転がっていた。バランスが悪くて勝手に倒れたのだろう。ほっと、胸を撫で降ろしてから、彼女は愕然とした。

 鏡台の三枚の鏡に映っている血で濡れた赤い帽子を見て。

 鈎爪のついた指がブラインドを押し開いて、その隙間から、邪悪な嘲笑を浮かべた小人がこちらを覗いていた。千夏子が気付いた事を知ると、けひひひ、と嫌な声を発した。

 その手には手斧が握られていた。

 ゆっくりと手斧がガラス窓に振り下ろされた。

 耳元に届いた耳障りでけたたましい奇声と、斧の刃に滴った湯気が立ちそうなほどに鮮やかな血潮と、べっとりとその血を塗りたくった深紅の帽子だけは、はっきりと眼に焼き付いてしまっていた。

 思わず叫んでしまったのか、小人は素早く彼女の方を向いた。

 何気無い一瞥だったのかもしれないが、その老人のように皺がよって歯を剥き出した醜悪な顔に浮かんだ不気味な歪みに千夏子は凍りついた。まさしく、悪鬼のために彫られた煉獄の亀裂であった。

 二度と幸せな夢を見ることは叶わないのではないかと、絶望を感じるほど、底なしの狂夢にも似た出来事であった……。

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