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シーリーコート伝承  作者: 陸 理明
第五話 シーリーコート
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一つ年上の叔父さん

「クリスに文句を言われちゃった」


 隣席に座っていた朋美が、カバンの中身を確認しながら愚痴を飛ばしてきた。

 千夏子は「また始まった」と肩をすくめる。

 彼女の最も親しい同性の友人は、常にしなくてもいい男女関係での苦労を経験し続け、それを少し脚色して愚痴ることをルーチンワークとしていたからだ。

 まだまだ花より団子な千夏子としては、黙っていても聞かされる朋美の話はあまり楽しいものではない。

 だから、今回はパスしようとしたのだが、千夏子が逃げ出そうとしていることに気づくと、そうはさせじという風に手にしていた便箋を見せつけてくる。

 なにやら手書きの英文が書いてあるが、いまだに速読ができない千夏子には内容がほとんどわからない代物だった。

 そもそも、日本人が思っているほど海外では自国の文字をみんながうまく書けるわけではない。

 筆記体などは日本人の方が上手なこともあるし、ネイティブはスペルミスなどあまり気にしない。

 この便箋も金釘流の雑な筆跡であり、かろうじてJAPANという単語だけがすぐに読み取れる程度だった。

 そのことから、まあ、日本と英国の文化の違いについて、朋美とクリスという男性との間に齟齬が生じたんだろうと当たりをつける。

 察する能力は日本人の必須技能である。


「どうしたの?」

「春に新学期が始まるなんて理不尽なんだってさ。自分の国がそうだからって、あたしらに押し付けるのは勘弁してほしいよね。千夏子だって、そう思わない?」

「まあ、そうだね」

「ほんと英国人はエラソーだわ」

「……でもさ。わざわざ英国くんだりまで来て、日本のタイムスケジュールや時間割を使っている、あたしたちだってなかなかエラソーじゃないかな」

「来たよ、後の世の歴史家みたいな発言。なんでもうまくまとめようとすれば、場が収まると錯覚してるんじゃないの、千夏子って。人間っていうのはね、そんなにキレイなものじゃないはずよ。もっと、生々しくてヴィヴィッドなものなはずよ」

「生々しいも、ヴィヴィッドも同じだと思うけど」

「違うね。ニュアンスが違うのよ。あたしが言いたいのは、生の肉片に触れたときの圧倒的な汁の量めいた生々しさよ!」


 すでに付き合って半年になる友の、テンポがよいわりに流れの悪いトークスタイルに付き合いながらも、千夏子は中断していた帰り支度を進めていく。

 別に急がなくてはならないわけではないが、彼女がやってくるのを首を長くして待っている奴がいるので、いつまでも友とトークを楽しんではいられないのだ。


「ところで、クリスって、男の子の?」

「うんにゃ、女だよ。日本の映画が大好きだって言うから、テープにダビングしてあった『孔雀王』と『ガンヘッド』を貸したら仲良くなった」


 それはとてもコアな日本マニアだ。


「クリスって男の子とも、付き合ってたはずだよね? 彼はどうしたの」

「フットボールとお国自慢しか会話のネタがない男とは、いつまでもつきあっていられないわ。それにあたしらって、結局のところ、いつ日本に戻れてもいいように、わざわざここに通っているんだよ。現地で彼氏なんか作ったってしょうがないっしょ」


 千夏子は二年程度の滞在期間で、ネイティブなみの会話技術をマスターしてしまった朋美がとてもうらやましかった。

 彼女より一年半遅れとはいえ、半年以上滞在しているというのにほとんどカタコトの自分と比べて、語学の才能の差が歴然としているように思えた。

 とにかく買い物好きの朋美は気楽にどんどん街にでかけ、そこで現地の友達をたくさん作ってくる。

 あまり社交的とはいえない千夏子から見れば、そんなところもまたねたましい。


「で、あんた、これからどうするの? ピカデリーに行きたいんだけど、あたしは。つきあってくれないかな?」

「私は叔父さんを迎えにいかないとならないの」

「あれ、ケイヤっちはもう帰ったんじゃないの?」

「養護室にいるはず。まだまだ一人じゃ、街中を歩けない人だから」

「姪っ子さんも大変だねぇ」

「仕方ないよ、小さいときから寝たきりで、ほとんど夢うつつの状態で教育まで受けていた奴だからね。誰かが自立できるまで面倒見てあげないと」

「まあ、ケイヤっちは、確かに放っとけないタイプだしね」


 朋美に別れを告げると、そのまま養護室に向かった。

 ただでさえ、この学校は私塾や本国における田舎の分校のように教室数が少ないので、多くの学年が同じクラスで授業を受けているというのに、その中でもさらに特別扱いされていいるのが彼女の被保護者だった。

 生まれつきの身体の弱さから、学校にいる時間のほとんどを養護室で過ごす。

 それが千夏子の、法律上では叔父に当たる相原ケイヤだった。


「ケイヤくん、姪っ子さんが来たよ」

「あ、千夏子ちゃん」


 と、子犬のように手をふってくる叔父。

 日本人の小娘の容姿どストレートという平凡極まる顔つきの千夏子とは違い、血縁関係があるとは思えないほどに彫りの整った容姿と、蒼黒くてさらさらとした髪を持つ少年なのだった。

 角度や光、表情などの様々な違いによって、黒から青、時折金色にさえも思える不思議な色の瞳が、不知火のように燃えて瑞々しくも潤んでいる。

 彼女の母である雪江にとってただ一人の弟ではあるが、年齢は姪である自分と一つしか違わないことから、ちょっと叔父とは感じない。

 むしろ、自分が叔母で、こいつが甥、みたいな関係だった。


「帰るわよ、ケイヤ」


 保険医兼音楽の教師と向かい合って座っていたケイヤだったが、千夏子が顎をしゃくると、すぐに立ち上がった。

 そのままゆっくりとこっちに近づいてくる。

 手には何も持っていない。

 いや、持たせていない。

 長年の闘病生活が祟って、ケイヤにはほとんど筋肉がないからだ。

 投与されていた薬の影響という話だが、薬を止めてからもどんなに運動しても筋肉がほとんどつかないのだ。

 特に上半身がひどい状態で、ちょっとした荷物を持つことさえできないのである。

 そのため、教科書やノートの類はロッカーに置きっぱなしであり、筆記用具などは必要に応じて千夏子が貸すことになっている。

 もっとも、ケイヤの学力についてはまったくもって問題がない。

 幼い頃からベッドで横たわりながら、家庭教師による指導を受けていたせいか、学力は確かすぎるぐらいに確かである。

 むしろ、日本では偏差値が高いと言われる有名進学校に通っていた千夏子よりもよいぐらいだった。

 飛び級の制度があれば大学に進学することも可能だとお墨付きを受けているほどだ。

 では、何故高校に通っているのかというと、要するに社会に慣れさせるためである。

 幼い頃から自分のベッドぐらいしか世界というものを知らないケイヤは、他の場所や知識について全くの無知だった。

 その中でも一番どうしようもなく感じたのは、若い女性というものを見たことがなかったということである。

 女性というものは、老いた母と家庭教師に来る母の昔からの友人女性ぐらいだったからである。

 初対面で母や千夏子を見てとても怯えた顔をしていたのは、今となっては懐かしい思い出だったなのだが。

 だが、千夏子の祖父が車の事故で亡くなり、同乗していた祖母までが入院という事態になって、横浜に住んでいた母はとるものもとりあえずこちらに越してきた。

 当初は嫌がっていた千夏子も無理矢理につき合わされることになり、急な話だというのに何故かスムーズに手続きがなされて、あっという間にこちらへの引越しが終わってしまっていた。

 冷静になって考えてみると、大分前から雪江は英国への渡航の準備だけは整えていたと思われる。

 あまりに手際が良すぎたからだ。

 一方の千夏子は、まったくのおまけ扱いだった。

 率先して英国に来る理由が全くないうえ、祖母の看護などはほとんど母がひとりでこなしており、家事だって母がいれば十分なため、ほとんどやることもなかったからである。

 結果として、彼女はケイヤが社会に慣れるためのお手伝いがメインの仕事となった。

 したがって、そのためだけにこの英国に来たようなものである。

 だが、パタパタと尻尾を振る子犬のように母と娘に懐いてくる叔父のケイヤのことは決して嫌いではなかった。

 天真爛漫で憎めないし、年齢も一つ上のはずなのに可愛らしいと感じてしまう相手だったからである。

 千夏子にとっては守ってあげたい庇護の対象そのものだった。

 嬉しそうに自分の横を歩くケイヤを連れて、千夏子はリトル・ヨコハマの典型的なストリートを歩き、家路を急いだ。


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