薄氷の食卓
暗くなる前に、父親は帰ってきた。
どちらかというと母親の方が早いだろうと踏んでいたカートは、食事の支度をどうするべきか悩まなくてはならなくなってしまった。
疲れて帰ってきた父に、何か食べるものを出してあげたいが、基本的に家事全般に疎い若者に育っていたので、それは彼にとってはまことの難事であった。
農作業と木々の伐採で鍛えた肉体は、まるでブリテンの騎士のように逞しく凛々しい彫刻のようだが、この場合にはまったく無用の長物でしかなかった。
その裸体を見るつど、父ロバートが頼もしげに眼を細める自慢の肉体もこうなっては宝の持ち腐れである。
かまどの側で右往左往する息子を、ロバートは優しく見守っていた。
不器用な一人息子のそんなところが、父はなによりも好ましかった。
一見、愛敬がないので損をしているが、他の家のどの子供たちよりも両親のことを第一に考え、いつも自分たちに迷惑をかけないように振る舞う健気さが愛らしかった。
二十五年前のあのときに、実の両親によって不憫にも『取り替えっ子』をされたというのに、血の繋がりのない育ての親を愛してくれ、そのとがった耳のせいで友達ができなくても一言の恨み事も口にしない優しさが嬉しかった。
ロバートの二十五年は誰がなんといおうと不幸ではなかった。
「父さん、食べるものが何もないよ」
「それならいい。私はそれほど空腹ではないから」
「でも、水ぐらいは……」
「ああ、それはもらおうか」
すぐに木の器に水をさして、カートはロバートのもとに来た。相変わらずの無表情だが、今日はどこか陽気さが浮かんでいるようだった。
血はつながっていない。が、二十五年である。二十五年も共に暮らしていれば、なんとなくわかることが多いものだ。
漁師がほんの少しの風の変化から潮の流れを見極めるよう、中身を飲み干した器をテーブルに乗せ、ロバートは楽しげな想像を膨らませた。
もしかしてこの子の前に、私たちがいない間に素敵な娘さんでも現われたのだろうか?
もし、そうならどんな娘さんだろう。
私を「父さん」と呼んでくれるものが、もう一人増えるのだろうか?
それから、孫のこと、その子との暮らし、隠居してからの生活、そんな空想がロバートを虜にした。ジャーナとカートと過ごした日々も悪くはなかったが、何人もの子供や孫に囲まれて生きるのも素敵に違いない。
とりとめのない夢を破ったのは、夕碁近くになったジャーナの帰宅であった。
背負った籠の中に、こぼれるほど多くの野いちごが積められていることに、カートは大きく眼を見開いた。
こんなにたくさんの量の野いちごが、一斉に採れるポイントなどにまったくもって心当たりがない。
「どうしたんだ、こんなに沢山?」
「いつもの場所よ。まだまだいっぱい採れるから、明日も採りにいくわよ。カートも手伝ってね」
満足そうにジャーナは答えた。もう四十代の母は、昔よりは太ったが、いまでもそのころの美しさを保持していた。
もちろん、体力もだ。
「いいけれど……どのぐらいあるの?」
「えっとね……」
カートの脳裏に訴えかけるものがあった。
「俺が思うに、樽で三つ分ほどじゃあないのかい?」
「いつも勘の鋭い子だね、おまえは。だいたい、そんなものだったかしら」
「神様の思し召しだね」
正解を教えられずとも悟っていた。
これは、彼らからのプレゼントなのだ、と。
俺ともう一人のカートが、残された時間を豊かに過ごすための。
空の水桶を抱えると、何も言わずに、カートは外の井戸へと向かった。
もう空は赤くなっていた。一年中曇り空が多いこの地方にしては、あまり見られない美しい紅が映える夕焼けが見えた。
その夕陽が落ちるだろう方角のことをカートは想った。
たくさんの珍しいものに溢れた街があり、どれほど変わった服を着た人たちが住んでいて、どんな物語を話しているのだろう。きっと、想像もできないような出来事が、色々な形で起こっているにちがいない。
物心ついてから一度たりとも、彼はこの地域から外に踏み出したことがなかった。
その生まれの特異さのために。
だが、知らない土地を観てみたいと念じた日々を送ったこともある。
決してかなわぬと知ってはいたが。
そして、二十五年間の月日の中で、とうとうその機会が回ってこなかったことを知り、カークはすすり泣きたくなる衝動を覚えた。
自分の生涯は何のためにあったのだろう。
やはり両親のためなのか?
それが一番の答えだとわかっていては、どうすることもできはしなかった。
※
「シーリーコート、いるか?」
憂鬱さだけしかもたらさないような、気色の悪い腐った木々が並んだ林で、声だけが響き渡った。天が発したのか、地が洩らしたのか、発言者は姿を見せようとさえしなかった。
「いるさ」
呼ばれた当人も、どこからともなく返事をしたが、会話の相手と同様に姿を見せようとはしなかった。ただ、親近感を排除したような無愛想な声だけが、鬱蒼とした雰囲気をさらに沈ませる結果を招いた。
「……機嫌が悪いな。おまえにしては珍しいことがあるものだ。それにどうした、出てくる気はないのか?」
「おまえも、僕の前に姿を見せていないじゃないか。偉そうに立場を主張しないでくれない? それに僕に好きでもない仕事をさせるんだから、このぐらいの対応は当然のことだと思ってもらいたいな」
「それは悪かった。しかし、今のところ、俺は人前に出れないんだ。たとえ、シーリーコートの前といえど」
答えは沈黙であった。
ややあって、「僕があの二人の決闘の見届け人になる必要があるのか?」とだけ問いが発せられた。
再度、沈黙が座を征服した。
だが、この沈黙は前のものとは赴きが異なる。
これは、冷笑混じりの嫌悪すら感じられる沈黙であった。
「なるほど、やはりこの話には裏がある訳か?」
どこからか、白い実のような輝きが湧き始め、死人ぐらいしか平穏を保てないような生命の輝きを感じさせない世界に、不思議な熱を与えてゆく。木が唸りをあげたように、くぐもった音が静けさを突き破る。
「……いいだろう。しかし、この僕をたばかれると信じているなら、試してみることだね。貴様に僕の裁きを受ける覚悟がある場合の話だけどさ!」
白き亀裂が世界を開く―――。