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シーリーコート伝承  作者: 陸 理明
第一話 グリーンミストレス
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あるオフィスで…

 わたしにその仕事のお鉢が回ってきたのは、訪問先の相手とたった一つだけ共通点を持っていたからに過ぎなかった。

 実のところ、その役割は、雇われてから二年にも満たないうえ、一介の従業員にすぎないわたしではなく、もっと年配で相応の責任を備えた先任がこなす予定であった。

 だが、彼は運が悪いことに、私的なパーティーでの深酒と世間に公表できない薬物の使用のせいで、晩秋の警察署の個室に泊まり込むという失態を演じてしまい、目下のところ失職中である。

 文句の言えない馘首の対象であり、自己責任が何より問われるアメリカでは当然の結果といえた。

 わたしにとっても、入社以来何度もお世話になった先輩にあたるのだが、無闇に同情することはできない。

 彼と同類と思われることはわたしのキャリアにとっても有害にほかならないのだから。

 会社としては強引なまでの交渉で、ようやく相手に一日だけ時間を割いてもらったという都合もあり、仕方なく他の社員を代理に赴かせることになったのだが、どういう訳かわたし以外に適任がいなかった。

 他にもわたしより上位に位置する、経験豊富なものもいることにはいたのだが、いかんせん、ほとんどが自分の仕事を抱えていて身動きがとれない状態にあった。

 要するに、選択肢がかぎりなく狭まってしまったのだ。

 結果として、最終的にわたしに白羽の矢がたったのには、このような事情が大きく介在していたという次第である。

 自分の固有ブースで多くもない伝票の整理をしていたわたしの元に、憮然とした顔のマネージャーが熊にも似た足取りで近づいてきた.

 どちらかというと、顔は熊よりもアライグマに近かったが、面と向かって言及できる人間はCEO並の権限を持っていて、権威で彼の頭を押さえつけることができるものに限られる。

 要するに、癇癪持ちで激昂しやすく友人関係を結びたくないタイプなのだ。だから、本人のいない場所では、同僚からやたらと悪口雑言を聞かされることが多い。

 マネージャーは部下を見下ろし、こう告げた。


「……アーリーくん。一つ頼まれてくれんかね。ちょっとした飛び入りの仕事が君を待っているんだ」

「もしかして、例の未発表の彫刻の件ですか?」


 なるべく無礼に思われないように、イスを動かして彼と向き合い、同じぐらいの鎌虚さを含んだ答えを発した。

 担当者が失職した時点で想像はできていたのだが、問題はそこではない。 大切なのは、この仕事を受けた場合に、会社の利益と自分自身のプラスがどこまで交錯するかだ。

 平たく言えば、焦って引き受けた挙句、致命的な失策を犯すのと、上役の不評を承知で断わるかの違いである。取り返しのつかないミスを犯せば、これからのわたしの立場が著しく悪くなるだろう。

 だが、ある事情から相手についての予備知識を多少なりとも仕入れていたわたしの判断は前者であった。


「わかりました。ポールからも聞いていましたし、今回の展示会には莫大な費用と時間がかかっていますからね。わたしなんかでよろしければ」

「日本人みたいな言い草だな。だが、そこまでオーバーな仕事じゃない。ただ、隠棲しているお婆ちゃんが秘蔵している彫刻を借りてくるだけだ。まあ、普通の安い彫刻でないということは確かだがね。……君は彫刻やら絵画やらには造詣が深いらしいから、よく考えれば薬漬けのポールのバカより適任だったかもしれないよな。……で、今日の二時に、この住所の家に行ってくれ。他に説明はいるか?」

「……知らないのはスリーサイズぐらいですね」


 と、くだらない軽口を利こうかなとも思ったが、やはり口をついたのは建前であった。わたしも表皮に嘘というベールをまとうことが重要であることを達観していい年頃なのだ。


「大丈夫です。まかせてください」


 マネージャーは精一杯の渋い笑みを浮かべようとしたが、生まれつきの素質という奴は簡単には治せないものだ。アライグマが少しだけ格好良くなっても、余計滑稽になるだけだ。


「ただし、しくじったらクビになるかもしれないぜ。あのヤク中のポールのようにな。机の中は整理整頓しておけよ。詳細はこのファイルにある」


 偉そうに席に戻る彼の姿はやはり滑稽だった。

 ひょっこりひょっこりとした歩き方のマネージャーから視線を外し、わたしは渡されたファイルに収められた書類の束にざっと目を通す。 

 一応、最後まで目を通したつもりだが、一つか二つの見逃しはあるかも知れない。

 まあ、いい。なんとかなるだろう。

 たった二年の経験しかなくとも、ビジネスマンの持つある種の楽観的な姿勢は誰にでも身につくもののようだ。

 書類の束を机の中に放り込んだ。

 机の最上段の引き出しに多くの雑具が仕舞いこまれているのが目に入った。意識してためこんだ覚えはないが、会社勤めを続けていれば自然と増えていくものである。

 色々なものがあったが、何故か幾つかがはっきりと視認された。プラ製のセロハン・テープに万年筆に、そして赤い装包のマッチだ。

 タバコに点火するだけなら安い日本製のライターで足りるというのに、なぜマッチ等が入っているのか。

 わたしはゴミ箱に捨てようと手にとったが、何かの拍子に発火して火事にでもなったら責任を問われかねないことから、あとで適当な場所を見つけて廃棄しようとポケットに突っ込んだ。

 もちろん、マネージャーの言うとおりに私物の整理をしたわけではない。前から、整頓しようと機会を伺っていただけのことだ。

 パソコンのディスプレイに映った時計を見やった。

 まだお昼にもなっていない。

 それでも、わたしは必要最小限の動きでパソコンをスリープさせ、耳障りな音をたてる椅子から立ち上がった。

 早目の昼食を採ってから、例の隠棲中の老婦人の元へ向かったとしても、約束の二時には悠々に到着するだろう。

 部署内の誰よりも早く、公然と昼食が採れることもあってか、わたしは無意味な優越感に浸った。


「少し早目ですが出掛けてきます」

「頑張ってきてくれよ」


 と、こちらを見もせずに一言だけが返ってきた。

 隣席の同僚が、にやにやとチェシャ猫のように笑っていた。

 あまり気分のよくなる表情ではなかったが、多分悪意はないのだろうから、気のない会釈を返しておく。

 昼食前のちょっとした喧騒に包まれたオフィスを抜けると、わたしは一つだけ溜息をもらした。

 面倒だが、やらねばならないのだ。わたしは階段の手摺を掴んで、できるだけゆっくりと下り始めた。

 ああ、そうだ。

 あのマッチは、粘土形成のヘラを熱するアルコールランプ用に学生時代に買ったものだった。

 当時のわたしは、ライターよりもマッチの方が火の付きが良いのだと意味不明なこだわりをもっていて、わざわざ金もないのに専門店でマッチを購入していたのだ。

 そんなこだわりなど何の意味もないのに。

 世の中、うまくやっていくのに何かに執着する必要はない。

 わたしはそのことをよく知っているつもりだった。

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