二人のカート
扉を叩く音がした。
父は近くの町へ種もみを仕入れに行っているし、母は野いちごを摘みに行ってどちらも留守だ。
近所の知り合いは、あまりこの家に来たがらないから、ノックの主の見当はまるでつかなかった。
必要以上の力をこめて藁で擦っていた樽から静かに離れた。洗い終わった樽はもう三つに達している。母親の摘んでくる野いちごを材料に、自家製の果実酒を作るための作業なのだが、つい熱中しすぎてしまったようだ。
野いちごなど、樽一つ分ほどの量しかとれないのに、なんと無益な真似をしてしまったことだろう。
常日頃、動きたがらない唇が、珍しく自然にゆがむのを意識した。
心地よいものが、胸中を少しずつ溶かしていく。
夜は父親が買ってくるだろう町で作られた、手のこんだ食べ物が夕食を飾るはずだ。
それは父親がたまに町に行くときの慣例のようなもので、じゃがいもと固い黒パン、味の薄いスープばかりの質素な食事もどういうわけか嫌いではないが、たまに食べるそんな物も悪くはなかった。
しかし、両親と三人でテーブルを囲むときまで、この気分が続いてくれるのなら、何よりも二人がそのことを一番喜んでくれることだろう。
彼らと談笑しながら食事をすることが、彼にとっては最高の時間であった。両親にとっても、むっつりとした息子の笑顔を見ることが最高の喜びなのだとわかっていたから。
まずはこの想いを抱いたまま、玄関に立ちつくしているお客さんに会ってみよう。それは悪い考えではないはずだ。
「はい」
すばやく歩み寄り、玄関の戸を引く。
そして、今まで大事に育んできたあらゆるものを、遂に捨てなければならないということを知ってしまった。
絶望のあまり、視界が一瞬黒く塗りつぶされたような錯覚に囚われたほどだ。
「やあ、ロバートの息子、アークの孫、君がカートだね。僕は……」
「わかっている。君もカートだろう」
彼―――カートの声はいつにもまして暗く沈んだものになった。眼の前に立った朗らかな調子の若者とは、まったく正反対に。
初めて見るもう一人の自分は、はるかに人間らしくあった。
そうカートは思ったが、この感想はむしろ、訪問者の方が強く受けていたのである。態度に表さなかったのが不思議なぐらいに動揺していた。
彼のものよりもはるかに粗末で綻びの多い服装は、まさに窮乏にあえぐ農民そのものといった感じであったが、その下に隠された強靭で逞しい肉体は本来なら絶対にそうはならないものなのだ。
適当に散髪したざんぎりの髪も、彼のようにちぢれてはいない。
遊びや享楽を何よりも好むはずなのに、その瞳の奥にはかたくななまでに強情な意志の輝きが窺えしれる。事前に想像していた人物と、天地ほどの開きがあった。ただ一つ、彼の耳が人間のものとしては異様なぐらいに尖っていることを除いて。
どちらのカートも直感的に悟った。
彼は―――奴は―――別人だ―――僕じゃない―――同じ名をもつ―――別の―――俺だ―――カートだ。
それなのに不思議な親密さがあった。
いつか、こうして出会うことが定められていた二人だからだろうか。
「何をしにきた?」
「もちろん、わかっているんだろう。それは社交辞令かい?」
「わかっているさ。日取りは決まっているのか?できたら、それまでに耕さねばならん畑があるんだ。こう見えても俺は百姓の倅なんでな」
「三週間後だよ。……ところで、家の中に入ってもいいかい?玄関先で、立ち話もなんだからさ」
戸口にかかった手を押しのけて室内へ入ろうとしたが、その動作はさらに強い力によって拒まれた。不可解そうな相手に、カートは無表情に呟いた。
「おまえたちの仲間は家に入れん方がいいそうだ。俺は経験からそのことを習った」
「いいじゃないか。大体、僕はともかく、君は僕達の……」
そこまで言った時、心に震えが走りそうになるまで哀しく低く、どんな響きの音にも負けないほどの剛さを備えた声がさえぎった。
「俺の両親は、人間の夫婦ロバートとジャーナだ。誠実で、優しく、降りかかった不幸を運命のせいにして逃げたりは決してしない男と女だ。そして、何度でも繰り返そう。俺はカートだ。ロバートとジャーナの息子であり、それ以外の何者でもない」
「そう思えばいいさ。でも、これはあの時からのルールなんだ」
「武器は何だ?」
「鍬だ」
さすがに訝しんだカートを見て、すぐにもう一人のカートは笑いながら訂正した。
「……冗談だよ。やっぱり君は冗談にも弱いね。武器は古からのしきたりのままに、トルネコの弓と石英の鍛の矢にしようか。……それじゃあ場所はどうするかな?」
「ここから東に行った林の中に、かつて妖精が棄てた丘がある。そこにしよう。俺たちの運命を決めるには最適だろう」
「本当だね。じやあ、取り決めの確認はこれぐらいにして、僕はひとまず帰るよ」
「父さんたちには会わないのか?」
ついさっき家に上げるのを拒んでしまったばかりだというのに、思わず口にしてしまった台詞だった。
自分がそうであるように、相手にとってもそれが重要だと思ってしまったからだ。
脳天気に微笑むだけの造作だけしかないような顔に、初めて硬い何かが現われた。まばたきをする間に消えてしまったのだが、その微笑みの内に秘めた複雑な想いについて悩まずにはいられない。
そんな何かだった。
(やはり、こいつも俺なのだ)
遠くの林へとゆっくり去っていくもう一人のカートが、何かに弾かれていたように振り向き、大声を張りあげた。
黙ってその後ろ姿を見送っていたカートが、軽く耳を傾けるだけで容易に聞き取れるほどの声量であった。
「ああ、見届け人が決まっていたんだ。伝えるのを忘れていたよ」
「見届け人?誰なんだ」
「ぴったりの人だよ。あの有名な『祝福された法廷』さ。僕達の決闘には相応しい人選だと思わないかい?」