おかしな世間知らず
ケイト・メレフアンは、彼女の世代では珍しく故郷の村に残り、父母とともに農業に励んでいた。
幼なじみの大部分は、ロンドンやヨークシャーに奉公にだされ、無茶な条件のもとでインド産の原料を織物にする職に就いている。
確かに大都市圏に出れば、それなりの職についてあぶれることなく暮らせるが、それに反比例して資本家層による労働者の扱いは、眼をあてられないほどにひどかった。
後に報告された当時の労働条件を比較研究してみれば、どんな人間でも不平と不満が募っていくことは否定できないだろう。絶対主義の没落からの産業革命をどこの国よりも早く体験したこの国でさえこうなのだ。
他国の状況などは推して知るべしである。
大部分の労働者たちは知りえなかったが、百年ほど前に、ロバート・オーウェンやサン・シモン、シャルル・フーリエなどの所謂空想的社会主義者たちは、人間の善意による社会主義を模索してはいたが、どれも成功することなく終わっている。
加えて、フランス二月革命の功労者の一人ルイ・プランも、『国立工場』と呼ばれる空想的社会主義にのっとった失業政策を打ち立ててはいたが、これも頓挫していた。
しかし、すでにマルクスは産まれ、エンゲルスと出会い、世界は次の時代の新たなる思想を唱え始めてはいる。
この時代の、労働者の苦しみを変えるために。
もっとも、ケイトとこの物語にとっては、それはあまり重要なことではなかった。
彼女が実家に残れたわけは非常に簡単で、ケイトの両親にとって子供とは彼女一人の事を指していたからである。
夫婦ともに健康であり、農民としてピューリタンとしても村民の模範となるほどに誠実な二人であったが、何故か子供の巡り合せだけは悪く、一人しかもうけることができなかった。唯一、妻が産気づいたときに産まれたのは可愛らしい女の子であった。
そうして、二人は一人娘を跡取りと決め、誰か婿が見つかるまで、彼女を嫁には出さないと決めたのである。
当然、ケイトは十分すぎるほどに農作業をしこまれることになった。
本人からすればそう悪い運命ではないと思っていたのだが、両親にとっては納得できない運命であったようだ。
彼女自身は、家畜の鳥の扱いや鍬を振るうことが嫌いではなかったし、収穫時の水々しい実や柔らかい葉の手触りも大好きだった。
農業が退屈だと思ったことはない。
むしろ、楽しいとさえ感じていた。
ただ一つ、種まきだけを除いてだったが……。
昼近くになったので、朝食兼昼飯を食べようと鍬を放り捨て、畦道に立つ大木に腰を降ろした彼女は眼を見張った。
いつのまにか、誰かが彼女の畑に寝っ転がっているのだ。つい数秒前には絶対に誰もいなかったはずの場所に。
まるでそこが自分の寝室であるかのように、大の字に四肢を伸ばしている。
当初の戸惑いから解放され、怒鳴りつけようとしたら、その人物は身軽に跳ね起き、無造作に転がっている鍬をしげしげと眺めだした。
しばらくすると、その鍬を手にして乱暴に振りだした。
上下ではなく、左右に。
ケイトは妙な人物の奇行を目撃して気後れしてしまった。
変質者という語彙がなかったので、変人という言葉を心の中で用いることにし、しかたがなしにもう一度声をかけてみた。気を取り直してもう一度怒鳴ろうとするには、なんとなく抵抗があった。
どのみち、ケイトが仕事を再開するには鍬が必要であり、彼女の仕事場はこの変人の足の下にあるのだから。
「ねえ、何をしているかはわからないけど、あたしの鍬で変なことしないでくれる?」
変人は振り返った。
このあたりでは珍しい木綿のシャツとズボンを着て、頭の上につばの反り返った帽子を被った、背の高い二十歳ぐらいの若者であった。手足が普通よりも長いのか、ぴったりの肩幅に比べて袖口や裾の丈がわずかに足りなかった。
人なつっこそうな顔をしていて、笑顔が似合う、普段から陽気な性格の持ち主であろうと想像できた。
ケイトはこの若者を知らなかった。運命共同体めいた農村ではあまりないことなので、どこかからの旅人だろうと推測する。
それにしては軽装なのが腑に落ちないが。
「これ、君の?」
鍬を指して言うのへ、
「そうよ、この状況を見て推測できないの、あんた」
と、伝法な口調で返す。
若者に対しての警戒は解かなかった。陽気そうに見えるからといって、善人であるとは限らない。
「きついこと言わないでくれよ。まるで嫌がらせを受けているみたいじゃないか」
「あたしは鍬に触らないでって言っているだけよ」
「君って怖い人だね」
男らしい精悍さも存在感の強さもまるで感じさせない、この弱腰の塊のような若者に、ケイトは強い憤りを覚えた。
もっとしゃんとせぇ、とどつきたくなったと解釈したほうがいいだろう。
もちろん、ケイトはそんなことを口にはしなかったが。
代わりに選んだ行動はと言うと、足元の石ころを素早く拾いあげ、嚇すように振りかざしただけである。
ゴリアテに石を投げて攻撃しようとするダビテを連想させる構えであった。
「いい?すぐに鍬を放さないと、これを投げるわよ」
若者は慌てて鍬を地面に戻した。放り出すのではなく、大切な家宝でも扱うかのように丁寧に戻すところがおかしかった。
それからケイトに脅えるかのように数歩分だけ後ずさる。
そんな彼の様子はまたしてもケイトの微笑を誘った。
「……あんた、あたしの畑で一体何をしているの?」
「ただ昼寝をしていただけだよ」
「嘘。さっきまでは誰もいなかったわ」
「確かにいたよ。君の眼が遠かっただけさ。おばあちゃんみたいに老眼なんじゃないかな。と、僕は思うね」
ケイトはもう一度、石ころを構えた。
「……本当だって……信じてよ」
泣きだしそうな顔で、必死に無実を訴える情けない姿は、憤りを通りこして頭痛を感じさせるほどであった。
(何よ、こいつは。情けないにも程があるわ。こんな奴、あたしの家の近所に住んでいたかしら?)
こういった場合、やはり先に折れるのは強気な方と決まっているらしく、しばらくしてケイトは溜息と一緒に石ころを置き、別の質問に切り替えた。
「鍬を振り回して楽しいの?」
「ううん。これの使い方がわからなくて、悩んでいたんだ。この武器は鍬っていうの?」
ここにきて、遂にケイトの堪忍袋は内部からズタズタに引き裂かれた。
「さっさと、出ていきなさいよ!あたしは今日中にこの畑の耕しを終えなくちゃなくちゃならないんだから、世間知らずのマヌケの相手をしている暇はないのよ!」
若い娘とは思えぬ迫力の怒声に打たれたのか、奇妙なことばかりする若者は脱兎のごとく逃げ出していった。




