取り換え子
まさに、悲痛そのものといった絶叫が母屋から響き渡った。
それは女のものではあったが、そこには男女の区別などなんら意味をなさない何かがこめられていた。
欠片だけでも耳にしたのならば反射的に耳を覆うべき、と逆らえぬ命令を受けているような叫びだった。
もし、人としての平穏を望むならば、誰もがこのような叫びを発する事態に陥ることだけは避けたがるであろう。
出産直後の妻のために、裏手にある井戸から水を汲みだしていたロバートは、それが愛する人のものであることを悟り、桶が手から滑り落ちていくのにも構わず、家の中に駆け戻った。
水の入った桶が転がり中身を撒き散らす派手な音でさえ、主人の注意をほんのわずかも引くことはできなかった。
井戸から十歩にも満たない家への距離が、とてつもなく長いものであるように感じられた。
踏み出す脚が、鈍く、重く、抵抗する。
心臓の鼓動が大きく爆発し、何も聞こえなくなった。意識がどこかへ飛び去っていたかのような無感覚な一瞬であった。
無我夢中だった。
あらゆるものを無視した思考が慌ただしく回転を止め、様々なことが予測となって脳裏を駆け巡り、怒涛のように荒れ狂い回る。
どう考えてみても、あんな声を張りあげる以上、妻の身に尋常ならざることが起こったとしか思えない。
群れからはぐれた凶悪な野良犬、餌を求める熊、近頃よく出没するらしい盗賊、数え切れない災厄が次々と浮かんでくる。
水汲みに行く寸前に見た、産まれたばかりの息子の顔がくっきりと現われた。
息子は彼を向いて、まだ見えていない眼で、なにかを問いかけるような素振りをすると、笑みのように顔をゆがめたのだ。愛くるしい小さな瞳に、ロバートは幸せな未来を予感していた。
つい、さっきまでは。
暗い後悔が、自責の念となって、心を焼いた。鍛冶屋の炉を上回る強い光と熱のフレアと化して、それが彼を激しく揺さぶるのだ。
カートになにか起きたのか?
彼の息子の名はカートと言う。
その名は、久方ぶりに遠方から訪れた大叔父が考えてくれたものだ。妻のジャーナはその名をとてもとても気にいっていた……。
取り留めもなく最悪の事態まで飛翔していこうとする自分の考えを、ロバートは必死に振り捨て、一気に家に飛び込んでいった。
まず眼に止まったのは、出産を終えたせいで疲労気味の妻の姿だった。
妻は脅えた表情で、口を抑え、立ちつくしていた。部屋が荒らされた様子はない。ヴィクトリア女王の治世になってから、警察組織の発展は眼を見張るものがあり、こんな田舎ですら昔ほどは治安は悪くなくなっていた。むしろ、人口の集中する都市部の方こそ問題が多いかもしれない。
ひとまずのところ、強盗や泥棒といった不安はなさそうだった。ざっと見渡しても凶暴な野生動物の侵入などといった事態は見当らなかった。
窓が破られている風でもないし、料理や裁縫に大きく失敗した感じでもない(そんなものであれほど叫ぶ妻ではないのは百も承知だ)。
何が何だかさっぱりわからなかった。
出産直後で、ほとんど元気のない妻がどうしてあんな大声を上げたのかまったく理解できなかった。
一歩を踏みだそうとして、ロバートはあることに気づいた。
何故、妻はカートの揺り篭の前に立ち尽くしているのか。
しかも、彼女は揺り籠から遠く離れている。
その視線が、揺り籠から一度も離れようとしないのは、どうしてだ?
凍りついた人形のように動かない妻の側に寄り、細い肩越しに、揺り籠を見つめたロバートは息を呑んだ。
それ以外の行動は、まったく思いつかなかった。
もし、あったとしても、どんな反応ができたろうか。
絶望と悲しみが、脱力感が、二人の肩に蓄積していく。
妻の二倍はたくましい体躯のロバートにも、か弱く見えるくせに大抵の力仕事はこなせる妻の肩にも、同様の重さが圧し掛かっていた。
絶望とは、かくも重たいものなのか。
この時の自分たち夫婦以外は誰も理解してくれるはずのない愚痴を、後になってロバートは親しいものに洩らしている。
四つの瞳は、一つの小さな影を映していた。
影は柔らかい肌着に包まれて、幸せそうに眠りについていた。
それは産まれたばかりの幼児であり、ロバートと妻のたった一人の大切な宝物のはずだった。
しかし、本来の住人はいなくなっていた。
揺り籠で眠りに付いているのは、本当ならカートのはずなのだ。
だが、その赤ん坊はカートではありえない。
産着は変わっていなかったが、出掛けの父親に笑いかけたロバートの息子カートとは断じて違う。
カートには―――人間の子には―――剣のようにとがった耳など生えていないのだから……。
他の部分は、一分の隙もないほどに整った顔立ちをしていたが、カートの中にあった幸福感のようなものはまったくなくなっていた。代わりに与えられているのは、はかなげで、今にも天に召されそうな弱さと醜さに似た歪みだけが存在していた。
心の持ちようがすでに真逆なのだ。
「取り換えっ子よ……」
脅えきった声で妻がつぶやいた。
聞き取ったのが、本当に自分の耳であるのか、ロバートはまったく自信が持てなかった。
おそらく、妻も逆の立場で、同様の感想を抱いたであろう。
「取り換えっ子……」
もう一度、妻は言った。
こんどははっきりとわかった。
事実が何であれ、それはまぎれもない真実なのだ。ごまかしが利くのなら、いくらでもごまかしていたかった。だが、それは駄目だ。
ロバートは妻を胸まで引き寄せて、強く強く抱き締めた。
それだけが、妻にとっての救いだと思い、多分に正しい選択であったろう。
二人の幸福な若夫婦に忍び寄ってきた地獄を知りもせず、カートのかわりに揺り籠を占領した赤ん坊は、寝息も小さく眠りについているのだった。