レディン・マックウェルは泣かない
予定していたアンコールはやはり無かった。
人々は演奏が終わると、黙って席を立ち、音の余韻を決して逃さぬためにか、急いで我が家のベッドヘ戻ろうとした。
家が遠すぎる者は、近くのホテルヘと小走りで向かった。
ベッドの中に潜り込みさえすれば、今まで聴いていた音をすべて永遠に留めておけるとでも信仰しているかのように。
誰もがわかっているはずである。自分の行動の虚しさを。
だが、ただ忘れるにはこの演奏は素晴らしすぎた。
プロの音楽家も、口うるさい評論家も例外はなかった。
対抗意識を燃やしピアノの前に座ろうとした者もいたが、それよりもベッドに滑り込む方が早かった。
感動を批評文に書こうとパソコンを起動させた筈なのに、気がつけばシーツにくるまっていた。
レディンは一人の聴衆もいない舞台に立っていた。
ガードナーに頼み込んで、撤収後の夜の数時間を特別に借り切ったのだ。
彼はここで特別のリサイタルをやる予定であった。
ある女性のために。
しかし、いくら待ってもその女性は現れない。
今朝、約束を交わした。
彼と女性との関係を考えれば、来ないはずがなかった。
だが、正反対の予感もあった。口にだすのも恐ろしい予感だった。いや、今の不安感から考えるとそれは直感だったのかもしれない。
誰かが中央の観客席を下りてくる。
レディンの瞳は、見覚えのあるコート姿の青年を映しだした。
「あの夜と一緒ですね。誰も拍手をせずに、幸せを留めようと薄暗い路地を抜けていく」
「拍手を貰えない音楽家なんて、惨めなもんだ」
「……いえ、あなたは違う。思い出の中で温めることのできる幸福を音にできる音楽家はあなただけなのです。……だからこそ、シェルキィさんはあなたを愛し、あなたを祝福したのです」
「……シェルキィに会ったのかい?」
「はい。故郷に帰るそうです。……さっき、人の波に吸いこまれるようにして、出ていかれました」
「帰ったのか……」
レディンは大事な支えを失ったように、ピアノの椅子にもたれかかった。
絶望した瞬間、人は汗を流すのだろうか。額を流れた汗が鼻頭を冷たく濡らした。
気がつくと、青年が舞台の隅に立ち尽くしていた。
いつの間に移動したのだろう。
「……もしかしたら、本当に吸血鬼パーティーに参加していらしたんですか、シーリーコート様」
「うるさいよ」
耳に届いた揶揄するような声を小さく一喝し、青年はレディンの肩を叩いた。
そのくせ、言葉を濁して慰めるようなことはしなかった。
白い両腕が白鳥の翼のように伸びた。
鍵盤が震えた。
曲がホール内を廻る。
一見しただけで、レディンは驚きのあまりに呆然自失の状態から復帰した。
ピアノの前に立っているのは青年ではあったが、弾いているのは青年の指ではなかった。
鍵盤自身が不可視のカを受けたのか、意志までも備えているのか、自ら弾かれ音を奏でていたのである。
そして、もし強いて演奏者を定めよと言われれば、青年の纏っている白いコートだと答えるしかない。
何の変哲もないコートが、風もないのに無数の布切れのように鍵盤上を舞い狂う光景を見るかぎり、それは共に正しい感想であるかもしれない。
怪異にみちた情景であった。
奏でられる曲が、退廃で気怠げで、哀しい旋律でなかったとしたら。
突如、レディンは何故か悟った。
『パーティー』のときに彼を知ったのは、ガードナー夫妻や青年だけではなかったことを。
あのとき、あそこにはシェルキィもいたのだということを。
突然、曲が最初のパートヘと戻った。
演奏者が交代したのだ。
旋律に耐えられない哀しみが加わった。
だが、いつかそれは克服されて、新たな歴史を刻むこととなるだろう。
時は誰にでも同じ慈しみを与える。
最後のフレーズがすすり泣いた。
間髪いれず、万雷の拍手が大ホールのあらゆる席から沸いてきた。
レディンは、こんどこそ自分の意志で手を振って、それに答えた誰の目にも見えないはずの観客の姿を今度こそ捉えることができた。
無数の小人や妖精たちが、すべての席を埋め尽くし、滑稽だが必死なしぐさで精一杯の拍手を繰り返していた。
レディン・マックウェルは、もう拍手を貰えない音楽家ではなくなっていた。
彼は立ち上がり一礼し、そして、言った。
「長々と挨拶するのは止めましょう。ご希望に沿ってアンコールを致します。どうぞ、皆様も楽しんでいってください」
それは、彼にとって初めてのアンコールであった。