詩人の調べ
三ケ月前とはものが違う。
区営コンサートホールの広報部長でもあるジョン・ガードナー氏は、新たな感動に身を振るわせ、内心で大きく舌を巻いていた。
確かにあの『吸血鬼パーティー』において、素晴らしい逸材だと感じてはいたものの、わずか四ヶ月でこれだけの進化を遂げるとは思いもよらなかったのである。
この感動は技術の産物ではなく、まさに心―――精神さえも揺さぶる弾き手の才能が発現したものとしか言い様がない。
天賦の才と音楽の女神の寵愛を受けねば、これは不可能であろう。
言い換えれば、舞台でただ一人、ピアノに向かう青年は奇跡を体現していた。
どのような奇跡が、若き音楽家をあそこまでに変えたのか?
「……本当に音の神様に愛されたのか」
ガードナー氏の考えは九分九厘当たっていたが、無論、彼にそれが事実であると教えるものはいない。
もしも、教えられたものがいたなら、そのものはきっとこの世界の住人ではないだろう。
さらに問いただすことができたなら、ラナウン・シーという名詞を聞きだすこともできただろう。
ラナウン・シー。
スコットランドの民話では女の吸血鬼の異名とされている。
彼女たちは邪悪極まりなく、荒野を渡る旅人を襲ってはその血を吸い、『人の生命力』を奪い取る悪鬼であるが、それと同時に、才能に溢れた吟遊詩人を保護し、惜しみない援助と輝かしい煌きを与える芸術家の後援者でもある。
詩人は彼女の祝福によって、まさに身に余るともいえる栄華と名誉の螺旋階段を駆け登ることができるが、この世にはそんなうまい話ばかりが転がっているはずがない。
なぜなら詩人には、その絶頂期にラナウン・シーの手によって生涯を終わらせられるという宿命が用意されているからである。
レディン・マックウェルは、まさにラナウン・シーの祝福を受けた者であった。
彼の触れた鍵盤は、神代のオグマの弾く竪琴のような美音を奏で、或は力強い大地の低音を響かせ、ハンマーは鳥たちの甘き嬌声となりすすり泣く。
そう、これは妖精の音楽。
気怠く哀しい、されど明るく激しい。
熱火のごとく、氷河のように、鋭くて、遅い。
対比する二つの意図がたった一つの音より発せられる光景は、聴くものを見も知らぬ青き海原へといざなう。
あるものは母の子守歌を。
あるものは父の洒場歌を。
ただ、泣くものもいた。
心安らぎ眼を閉ざすものもいた。
「さすがだね、レディンさん」
ホールの中央最後尾で白っぽいコートが呟いた。
彼を除くすべての聴衆は、流れ続ける曲に文字通り耳を傾けていたので、そんな小声など聞き取る余裕などはなかった。
だが、その呟きを聞き取ったものがいるのか、背にしていた暗幕が激しく抗議するようにざわめいた。
「……わかったから。そう怒らないでよ。静かにするって」
不可視の何者かをなだめるように、シーリーコートは言った。
途端にカーテンのざわめきは止み、また以前と同様に、どんな怪事も起きなかったかのように静かになる。
彼の側には、彼以外の者はいない。動物もいない。風すらも吹いてはいない。
一体何者がカーテンを揺さぶったのだろうか?
「ねえ、僕はちょっと席を外すけど、終わったら絶対に帰ってよ。まかり間違っても、レディンさんを『故郷』へ連れていこうなんてしないでね。わかった?」
返事をするかのようにカーテンが再びたなびいた。
それを確認すると、シーリーコートはホールと扉を隔てる暗幕の中に自分も姿を隠し、あらゆる視線から遮る。
次の瞬間には、スポット・ライト以外には光るものとてない場所から、シーリーコートの姿は霧のように消えうせていた。
※
コンサートの始まるわずかに数分前。
ハワード婦人は買物からの帰り道に、最近店子の音楽家と同棲しているシェルキィという女性と擦れ違った。
挨拶をしようかしらと思った矢先、シェルキィから会釈をしてきたので、手間は省けた。
シェルキィが、外出用に選んだらしい青系に統一した珍しい服を着ていたので、少しだけ奇異に思えたのだが、今日は彼氏の大事なコンサートの日だということを思い出して納得する。
だが、例えハワード婦人がどれほど想像力をたくましくしようと、決して思い至らぬことがその直後に起こった。
大通りを外れた路地に入りこむと、シェルキィは周囲の景色を拒絶するかのごとく、まるで陽炎のように霞み、そしてたちまち消えてしまったのである。
※
音のない場所だった。
相対する二人にはこれも相応しい場所であるかも知れない。
身に纏う色は、淡いブルーと薄きホワイト。
どちらも白い雲のある澄んだ大空を背中にすれば、同化したかのように透き通ってしまうだろう。
どちらが立ちふさがり、どちらが進もうとしているのか?
「どうするの、ラナウン・シー?」
「わたしに何をしろというの? すでにわたしに残された運命は二つしかないのよ。それを知らぬ、あなたではないでしょうに」
「他人を手にかけるのは、とっても気が重いんだけど」
「二ヶ月前にあなたがわたしたちの元に来なかったのは、そのせいなのかしら? わたし以外に脱走した連中も大勢いるらしいわね。 コンクリートや鉄が嫌いな昔ながらの妖精たちであることを辞めて別のものになった連中。 人でありながら、妖精の性質をもったあなたしか対処できない以上、これから先も大変よ、新人のシーリーコートさん」
「言わないでよ。……それに一つ尋ねていいかな? 何故、レディンさんまで殺そうとするの。君の様子を見ていたが、どうやら心から彼を愛しているみたいなんだけど……」
シェルキィは軽く眼を伏せ、
「わたしはラナウン・シー。祝福を与えた相手を殺さねばならないのよ」
耳にしたすべての動物が死に、聞こえる範囲に生える草花さえも枯れ果ててしまうような、寂しげな声だった。
見事なまでにこの女の本質を体現しているように思えた。
「なるほど、あれは『ラナウン・シーの祝福』によるものだったのか。……僕はレディンさんの才能だと思っていたけど」
こちらは初夏の風のように暖かく、楽しそうな声だった。
かっと、ニ揃いの獣のごとき乱杭歯がラナウン・シーの小粒な唇から躍り出た。
朱く輝く双眸には、慈愛の欠けらすらなかった。彼女を知るものなら、あの明るかった女性と同一人物だとは決して認めないだろう。
レディン・マックウェルだけは例外として。
青い影が白に挑んだ。
白い姿は動かなかったが、白い紗幕が乱舞した。
二つの色はある一点でぶつかり、重なりあい、そのまま両方が崩れ落ちる。
いや、違う。
崩れたのはラナウン・シーであった。シーリーコートは彼女を支えるために、膝を折ったのだ。
青年に抱きかかえられる格好で、青き女は怒りに染まった面を上げた。
「ねえ、シーリーコート。一つだけいい?」
「ああ」
「レディンの才能って、わたしの祝福のせいなのしらな? もしかして、わたしはあの人にとっての害になってしまっていたのかな」
「……聞いたよ。彼が君と出会ったのは、あのパーティーの後なんだろ? 実はアノパーティーに僕もいたんだ。……あれはまぎれもなく天才の音楽だったね。 それからの彼は、自分の才能に加えて君が側にいたからこそ、あれほどまでの音楽家に成長することができたんじゃないかな。さっきレプレカウンたちが僕に『聞こえなくなるから黙れ』だってさ。あの口うるさいくせに、僕をこわがっている連中がだよ。 あいつらにそこまで好かれるなんて、普通はあり得ない。 レディンにとって、妖精の祝福なんて、何の影響も与えなかったんじゃないかな」
ラナウン・シーは童女のように儚く微笑んだ。
すでに鬼女の形相は収まり、人間の女性に戻っていた。
ある音楽家の恋人のものに……。